館長の朗読日記 790
館長の朗読日記 790 (戦後66年12月31日 新規)
○今年はいろいろとあった(1)
個人的には、1月に次姉が急逝した。社会的には、3月に東日本大震災という天災と、福島原発事故という人災が発生した。次姉の逝去は未だに現実のものとして受け入れがたいのだが、その想いを込めて6月に小泉八雲原作「きみ子」を朗読した。東日本大震災と福島原発事故については、まだ何もできていない。これからだ。
○今年はいろいろとあった(2)
朗読サークルの指導は大過なく継続中である。各サークルの朗読発表会も大過なく継続中であるが、上演形式は1人1作品形式を採用するグループが増えて3サークルとなった。他の5サークルは、今年も長編を全員で読み継ぐ形式の上演をした。ちなみに、来年は1人1作品形式が5サークル、読み継ぐ形式が3サークルとなる。
朗読研究に関しては、拙著『朗読の理論』の姉妹編である『朗読の上達法』の執筆&出版は来年に持ち越した。そのかわり「朗読のための文学作品論」シリーズの第1作『宮澤賢治の視点と方法』の執筆&出版に傾注した。しかし、これも最終原稿は一応仕上げたが、出版は来春に持ち越しとなった。なかなか計画どおりには行かない。
朗読公演に関しては、6月に第4回「東百道の朗読館」を、12月に第4回「東百道・講演と朗読の会」を何とか開催することができた。いずれも、関係&協力してくださった皆さんのお蔭である。他には、7月に山梨県(甲府市)で芸術文化講習会に、8月に富里市立七栄小学校の校内朗読研修会に、それぞれ講師を依頼された。
これまでの私の朗読公演や講演公演は、自分で企画&準備&運営&出演するという自作自演のものがほとんどであったが、最近は少しづつ外部から依頼されての公演が出てきた。ありがたいことだし、私が提唱する「感動をつくる朗読」の普及&展開のためにも望ましいことだが、それに振り回されることだけは避けたいと思っている。
○今年はいろいろとあった(3)
私が「朗読協力・朗読原案」者として参画している朗読漫画『花もて語れ』(片山ユキヲ作)の単行本の第2巻(3月末)と第3巻(9月末)が出版された。この朗読漫画は評判が良く、昨年の東京新聞に続いて、今年は朝日新聞の全国版(4月)の文化欄に大きく記事が掲載され、ラジオやテレビや雑誌類にもとり上げられた。
出版社(小学館)は、年末に、連載を月刊誌から週刊誌に移籍することを決定&公表した。来春から、小学館の看板漫画雑誌の一つ『週刊 BIG COMIC スピリッツ』に連載されることになった。漫画家の片山ユキヲさんや、担当編集者の高島雅さんほどではないが、私も仕事量が増えそうである。それに振り回されないようにしたい。
○今年はいろいろとあった(4)
朗読を通していろいろな人と知り合ったり、関係を深め合ったりすることが、私にはもっとも心嬉しい。新たな出会いや親交の機会がもっとも多いのは、何といっても朗読サークルを通じてのものである。思い返せば、多くの会員の方々との出会いがあったし、そういう皆さんとのおつき合いも長くなった。これは永く続けていきたい。
また、今年も、朗読会や講習会を通じて知り合ったり、改めて関係を深め合ったりした方々が何人もいた。山梨県、千葉県、東京都、遠くは高知県などである。その他の未知の方々も大勢いる。たとえば、私のブログを見に来てくださっている方々は、ほぼ全国にわたっている。拙著や朗読漫画を介した未知の方々もいるはずである。
さらに、朗読会のチラシやプログラムにイラストを提供してくださった池田憲昭さんや、そのチラシを印刷してくださった精神障害者小規模作業所「すずらん」の方々。また、網膜色素変性症という難病と闘っている池田さんを支援しているボランティアの方々との関係も、私なりに継続させてもらっている。ありがたいことである。
○今年はいろいろとあった(5)
日頃、私が最も気になるのは、私から別れて離れていった方々のことである。特に、心ならずもやむを得ない事情があって別れていった方々のことは忘れがたい。たとえば、ご自身や身内の方の体調が思わしくなく、あるいは、転居や仕事などの事情があって、仕方なく朗読サークルを退会していった方々がいる。そういう方々は気になる。
あるいは、私やサークルあるいは「感動をつくる朗読」に何らかの意味で反発して、自ら退会していった方々。場合によっては、私が腹に据えかねて、実質的に退会してもらった方々もいないとはいえない。そのなかには、お互いに誤解しただけの場合もあるかも知れない。そういう方々も気になる。誤解の可能性がある場合は、特に。
私は、そういう場合は、とても気になるが、無理に引き止めたり、追いかけたりすることはしない。そういう場合の私のモットーは「来る者は拒まず、去る者は追わず」である。このモットーのなかの「来る者は拒まず」は、いったん「去る」ことになった者が、事情が変わって、再び「来る」場合にも、当然、当てはまるのである。
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