05館長の朗読日記(戦後68年/西暦2013年)

館長の朗読日記2918/船橋「はなみずき」の朗読レッスン

館長の朗読日記2918 (戦後78年/西暦2023年12月08日 新規)

 


○船橋朗読サークル「はなみずき」の朗読レッスン(1)

 昨日(12月07日)の15時00分から、船橋朗読サークル「はなみずき」の朗読レッスンをおこなった。今回は第3期・朗読ステップ6のレッスンの第12回、前回から来年4月24日(水)に開催する船橋朗読サークル「はなみずき」の朗読発表会『坊ちゃん』の朗読レッスンに入っている。今回は、その第2回である。この作品は大部分の日本人がよく知っているからごまかしが効かない。

 主人公の「坊ちゃん」が「地の文」の表現主体であるが、これをチャキチャキの江戸っ子らしい語り口で表現する必要がある。逆に、中学の生徒のセリフは愛媛県のノンビリした方言で表現する必要がある。加えて、他の「山嵐」「赤シャツ」「野だいこ」などの登場人物のセリフも表現する必要がある。

 そして、意外なことに、浄瑠璃や歌舞伎や能などのセリフもほんの少しだが表現しなければならないパートがある。そういうパートに当たった会員には気の毒であるが、頑張ってもらう他はない。これは、恐らく、原作者である夏目漱石が江戸前の芝居好き、演芸好きだったためだろうが、大変である。

 


○船橋朗読サークル「はなみずき」の朗読レッスン(2)

 とにかく、前回(前半)と今回(後半)とで、この台本『坊ちゃん』を一通りレッスンしたのだが、痛感したのは、とにかくこの台本『坊ちゃん』を良く朗読をするためには、書かれている文章をしっかりと読み込んで、しっかり理解することが、大前提であるということだった。特に、この台本はそうである。

 文章と内容は滑稽味に溢れているが、その底には江戸っ子であった夏目漱石の明治維新後の日本社会に対する批判精神にこれまた溢れている。そういうことをしっかりと理解した上で、さらに一つ一つの文章をしっかり理解して朗読していかないと、薄っぺらで表面的な朗読表現になってしまう。

 また、文章や個々の単語も、むずかしい上に明治時代の言い回しや言葉遣いをしているので、それらをしっかりと調べて掛からないとひどく恥をかきかねない。この『坊ちゃん』を台本化したサークル会員は、この一年のサークル代表でもあるが、言葉の意味などを良く調べてきてくれるので助かっている。

 

 

 

 

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館長の朗読日記2911/千葉「風」の朗読レッスン


館長の朗読日記2911  (戦後78年11月19日 新規)

 


○千葉朗読サークル「風」の朗読レッスン(1)

 昨日の10月15日(日)に、千葉朗読サークル「風」の朗読レッスンをおこなった。今回から、第4期・朗読ステップ2に突入する。今回はその第1回、新しいレッスン台本・太宰治原作「雪の夜の話」の第1回である。この「雪の夜の話」は内容的にはどうということのない作品なので、思い切って語って欲しい、と注文した。

 若い女学生が親しい同世代の人間に語っているような内容であるから、全員が女性である「風」の皆さんには語りやすいはずである。朗読ステップ2は、登場人物の立場でセリフ表現を身につける段階であるから、この作品をレッスン台本に選んだのである。このレッスン台本で、思い切って語ってもらおうと考えているのである。

 思い切って語るといっても、自分勝手な語り口で良いというわけではない。どんな場合でも、日本語における標準的な語り口の基本から外れてはいけない。日本の標準語を語る場合には、あくまでも日本語における標準的な語り口の基本に基づいて語らなければならない。その基本の上で、語り手の個性を発揮するのである。

 


○千葉朗読サークル「風」の朗読レッスン(2)

 個性のある語り口と、癖のある語り口とは、全く異なる。個性のある語り口とは、日本語における標準的な語り口の基本に基づいて語られたなかで発揮される個性的な話声言語(=音声言語)のことである。癖のある語り口とは、日本語における標準的な語り口の基本から外れた、日本語として変な語り口のことである。

 朗読を聴いて下さる観客の皆さんに、日本語として変な語り口で表現する朗読を聴いていただくわけにはいかない。良い朗読を聴いていただくためには、そして、その朗読を聴いて楽しんで共感していただくためには、日本語における標準的な語り口の基本に基づいた朗読でなければならない。もちろん、それだけでは足りない。

 台本(文学作品)を深く豊かに解読し、その作品世界を高度なレベルでイメージし、そのイメージを自分の心情&イメージで、自分の言葉として表現しなければならない。日本の一般的な朗読は、専ら、日本語における標準的な「読むような語り口」で表現することだけに力を傾けている。これでは聴き手の共感は得られない。

 

 

 

 

 

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館長の朗読日記2906/私が朗読を始めてからの30数年の歩み

館長の朗読日記2906  (戦後78年11月06日 新規)

 


○私が朗読を始めてからの30数年の歩み(1)
   ――私の朗読というもののとらえ方、取り組み方、その成果――

 私が初めて朗読を習ったのは山梨県に在住していた30数年前のことである。それまでに世界観、認識論、言語論などを独学していた私は、朗読というものを知って直ちにこれは素晴らしい芸術だと判断することができた。そして、この朗読を本格的に研究しようと決心した。同時に、私のように朗読が素晴らしい芸術だと判断する人間は今の日本には多分いないだろうとも考えていた。

 私が朗読のことを素晴らしい芸術だと判断した理由を、先ず簡単に記しておこう。朗読は、文字言語で表現された文学作品(朗読の台本)を朗読者の肉声に基づく話声言語(=音声言語)で再表現する芸術である。文字言語と話声言語(=音声言語)は、人間が発明し駆使しているもっとも高度で豊富で重要な表現手段である言語の、もっとも重要な二つの形態である。

 また、朗読が表現する文学作品(朗読の台本)は、人間が創作する芸術作品の中で、もっとも高度で豊富で重要な内容を含み得る創作物である。そして、朗読は、そのような文字言語と話声言語(=音声言語)および文学作品(朗読の台本)に直接関係しそれらを緊密に結びつける芸術である。そういう朗読が、最も高度で豊富で重要な芸術だということは当然であろう。

 


○私が朗読を始めてからの30数年の歩み(2)
   ――私の朗読というもののとらえ方、取り組み方、その成果――

 ところが、従来の朗読は、一般の人たちからはもちろん、朗読に多く関係している人たちからさえ、そのように最も高度で豊富で重要な芸術だとは認識されていなかった。視覚障碍者のために新聞記事や文学作品を音読(音訳)するボランティアの朗読者はもちろん、一般的にプロの朗読家と見なされていた朗読者でさえ、朗読がそのように素晴らしい芸術だとは認識していなかった。

 従って、朗読がそういう素晴らしい芸術であると認識した上で、それを本格的に研究する人間もいなかった。しかし、私は、朗読が素晴らしい芸術だとは認識した段階で、直ちにこの朗読を全面的に研究しようと決心した。私はそう決心して研究を始めた当初から、自分がこれまで全く手つかずのまま放置されていた素晴らしいテーマに初めて本格的に取り組んでいることを自覚していた。

 私が取り組んだのは以下の三点である。先ず第一点目が、朗読そのものを理論的に解明すること。次に第二点目が、私自身を実験台にして朗読の実技の上達法を研究すること。最後の第三点目が、前の二点を踏まえて朗読の体系的な指導法を確立すること。私は、これまで朗読の研究に取り組んだ30数年間にそれらの三点それぞれに私なりの成果を上げたと確信している。

 


○私が朗読を始めてからの30数年の歩み(3)
   ――私の朗読というもののとらえ方、取り組み方、その成果――

 第一点目の朗読そのものの理論的な解明については、今から15年前にその成果を『朗読の理論』(木鶏社/2008年)として発行することができた。この本は、数年後、朗読をテーマにした漫画を企画&構想していた片山ユキヲ氏(漫画家)と高島雅氏(小学館編集者)から、朗読原案&朗読協力者として漫画の創作に参画を依頼されるという嬉しい事態につながった。

 この朗読をテーマにした漫画は、拙著『朗読の理論』をベースとした朗読漫画『花もて語れ』全13巻(片山ユキヲ&東百道共著/小学館)として結実する。ちなみに、この事実が拙著『朗読の理論』の独自性をよく現わしている。何故なら、この朗読漫画の創作を企画&構想して以来、片山ユキヲ氏と高島雅氏は様々な朗読家の朗読観や朗読関係の資料を徹底的に調査した。

 しかし、いくら当時の有名な朗読家にインタビューしても、また、いくら当時の朗読関係の資料を調べても、朗読漫画を創作するための参考になるような内容は得られなかった、という。そして、最終的に拙著『朗読の理論』に到達し、初めて「これで朗読漫画が描ける」と実感できる本に行き着いたということであった。この事情を聴いて、私は拙著『朗読の理論』の独自性を確信したのである。

 


○私が朗読を始めてからの30数年の歩み(4)
   ――私の朗読というもののとらえ方、取り組み方、その成果――

 次に第二点目の私自身を実験台にしての朗読の実技の上達法の研究については、朗読すべき文学作品の作品世界をイメージする方法を向上&深化させ、朗読する場合の「語りかける語り口」の表現方法を向上&深化させるという成果をあげることができた。その結果、ただ「読んでいる語り口」の朗読表現に比べ、聴き手にイメージ&心情や感動を喚起する訴求力が全く違ってきた。

 最後の三点目が前の二点を踏まえて朗読の指導法を確立することについても、かなりの向上&深化と実績づくりができた。私が朗読指導を本格的に始めてから、今年(西暦2023年)で約20年になる。現在、私が朗読指導している朗読サークルは5サークル、サークル会員は約60人である。サークル会員は、古い会員もいるが、退会した会員も、新規入会の会員もいる。

 私の指導により、文学作品の作品世界をイメージすることと、朗読で「語りかける語り口」を表現することとが、一応、修得できるようになるのは、朗読ステップ1~6を一通りたどったサークル会員である。そういうサークル会員の朗読的な実力は、ただ「読んでいる語り口」の世間一般の朗読者に比べて格段に優れている。そういう会員が現時点で全会員約60人の約半数に達している。

 


○私が朗読を始めてからの30数年の歩み(5)
   ――私の朗読というもののとらえ方、取り組み方、その成果――

 残りの約半数の会員たちも、着々とそういう実力を身につけるべく努力している。いずれにしても、約30人あるいは約60人におよぶ朗読の実力者集団が現に形成されつつある。私はそのことを確信している。この事実は、今の日本の朗読界にとって、非常に大きなことであると確信している。そして、この事実こそ、私の30数年にわたる朗読への取り組みの最大の成果だと思っている。

 その他にも私が目指している重要なことがある。それは「感動をつくる朗読」を指導できる朗読指導者を育成することである。この「感動をつくる朗読」の指導は、誰でもできるというわけではない。朗読の理論を深く理解し、朗読の実技のレベルが高く、朗読の指導法を修得している必要がある。以上の三点を満たしているなら、年齢はさほど問題ではない。朗読的実力が最も重要である。

 現在の五つの朗読サークルにおいても、私が「超一流」と評価しているサークル会員が何人かは存在している。それら「超一流」のサークル会員は、すでに、それぞれが所属している朗読サークルにおける「自主練習会」の場で後輩たちに朗読の指導を行なっている。そして、その指導ぶりは、私が朗読指導者用のレッスンなど特にしていないにもかかわらず、私より評判が良いほどなのである。

 

 

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館長の朗読日記2814/品川「あやの会」の朗読レッスン

館長の朗読日記2814  (戦後78年01月18日 新規)

 


〇品川朗読サークル「あやの会」の朗読レッスン(1)

 昨日(1月17日)の9時50分から品川朗読サークル「あやの会」の朗読レッスンをおこなった。今回は第3期・朗読ステップ5の第13回、また今夏5月に開催する朗読発表会『月の光』に向けたレッスンの第1回のレッスンでもある。さらに、今回は、このサークルの今年初めてのレッスンでもある。

 この井上靖原作『月の光』は、同じ作家の『わが母の記』を構成する三部作「花の下」「月の光」「雪の面」の第二部に相当する。朗読時間が120分を超す大作であるから、前半(第1部)と後半(第2部)の2部に分け、中間に休憩を挟み、前後部をサークル全員(10人)が読み継ぐ形式で上演する。

 レッスンもその上演形式に則して、前半(第1部)と後半(第2部)を交互におこなっていく。今回は第1回のレッスンだから、前半(第1部)のレッスンをした。まず、それぞれの会員が自分の朗読分担のところを1人づつ順に朗読していき、その1人1人の朗読について私が指導していくやり方である。

 


〇品川朗読サークル「あやの会」の朗読レッスン(2)

 今回は、新しい台本のレッスン初日である。そういう場合は会員の朗読レベルの特徴がはっきりと出るから、それに対応したレッスンになる。第3期生(レッスン歴6年未満)は「語り口」がまだ不十分だから、どうしても「語りかける語り口」の指導が主となり「心情&イメージ表現」の指導は従となる。

 第2期生(レッスン歴12年未満)の「語り口」はほとんど「語りかける語り口」になっているから、その「語りかける語り口」にさらにその会員自身の「心情&イメージ」を籠めるように指導することが中心になる。台本の「文」あるいは「文章」だけでなく、一つ一つの「言葉」にも籠めるように、と。

 第1期生(レッスン歴18年未満)の「語り口」は、ほとんど自分の「心情&イメージ」に基づいた朗読を自分の「言葉」で表現できるようになってきている。したがって「語り口」ではなく、その台本の「演出的な表現」をどうするかという点の指導が中心になる。この場合は指導というより議論である。

 

 

 

 

 

 

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館長の朗読日記1304/今年もとうとう大晦日となった

館長の朗読日記1304  (戦後68年12月31日 新規)



○今年もとうとう大晦日となった(1)

 今年は、いろいろなことがあった。良いことも悪いこともあった。喜怒哀楽その他の心情を伴なうこともあった。私はそれらの総てを心に刻んでおきたい。だから、私は「忘年会」という催しも言葉も好きではない。しかし、年齢を重ねると記憶力が減退する、忘れたくないのに忘れてしまう。このブログは一種の備忘録なのである。

 今年は、いろいろな人との出会いがあった。いろいろな人との別れもあった。それらのときに、私の心情をうまく表現できた場合もあったが、そうでない場合もあった。うまく表現できなかった場合には、それがいつまでも心に残っている。人との関係において、喜怒哀楽その他の心情を伴なうこともあった。人との関係はむずかしい。

 今年は、内面的にもいろいろあった。充実した心情で終わる日もあれば、そうでない日もあった。否、そうでない日の方が圧倒的に多かった。やりたいと思っていること、やらねばならないと思っていること、それらに対する取り組みが圧倒的に遅れている。まさに「日暮れて道なお遠し」の感がする。孜々として励まねばと思っている。



○今年もとうとう大晦日となった(2)

 前回も記したが、私は「携帯手帳」と自称する手帳を常時携行し、スケジュールや様々なメモを書き込んでいる。そこに書き込んだメモの中で、ライフワークに関することは別の「研究ノート」に書き写すことにしている。まだ書き写していなかった「携帯手帳」が10冊ほどたまっていたが、昨日、その総ての書き写しを完了した。

 書き写すために「携帯手帳」をたどっていくと、メモしたときの記憶が甦ってくる。思いついてメモしたプランが、うまく実現した場合もある。しかし、計画倒れに終わったり、やってみたがうまくいかなかった場合もある。最も計画倒れだったのは、単行本の執筆計画である。計画では『朗読の上達法』などはとっくに発行されている。

 単行本『芥川龍之介の文学的軌跡』も、そろそろ原稿が出来上っていなければならない。この執筆計画は、そっと「携帯手帳」にメモしただけではない。かなりの部分を、このブログに公表してしまっている。それは、自分を鼓舞する意味もあったのだが、こう派手に計画倒れしてしまうと、逆効果になってしまう。来年こそ、頑張ろう!



○今年もとうとう大晦日となった(3)

 少し驚いたのは、朗読サークルへの入会申込みや、レッスンの見学申込みの件数が、意外に多かったことである。しかも、その過半は、直後に申込みを撤回したり、無断で約束をすっぽかしている。そのような場合は、私もすぐ忘れることにしている。今回、改めてメモをみると、こんなにあったかと驚くくらい、その件数は多かった。

 もちろん、レッスンを見学後、即座に入会し、そのサークル内で積極的に活躍している会員も多数いる。あの会員が、このとき、こんな感じで入会を申し込み、こんな感じで見学しに来たんだっけ、などと懐かしく想い出したりした。私は「来る者は拒まず、去る者は追わず」をモットーにしているが、「来る者」には責任を感じている。

 一旦、朗読サークルに入会したからには、そして会員でいるからには、何とかして私が提唱している「感動をつくる朗読」を身につけて欲しいと念願している。個人的な事情があったり、私のレッスンに満足できなかったり、当人の目指す朗読と喰い違ったりした会員は、遠慮なく退会していくだろう。それは、それで良いと思っている。



○今年もとうとう大晦日となった(4)

 今年12月に開催した第6回「東百道・講演と朗読の会〜芥川龍之介の文学とその軌跡(後期)〜」で、4年間で4回行なった芥川龍之介シリーズを完結した。自分で言うのは気がひけるが、なかなか良いシリーズではなかったかと思っている。来年からは「太宰治の文学とその航跡」という副題の太宰治シリーズを始めることになる。

 繰り返しになるが、今年はとうとう『朗読の上達法』を発行することができなかった。発行どころか、原稿執筆さえまだ完了していない。また『芥川龍之介の文学的軌跡』も原稿執筆を本格化させるはずだったが、できていない。再び来年に持ち越しとなったが、これまでのことを振り返ると、まさに「オオカミ少年」そのものであった。

 朗読漫画『花もて語れ』は、今年、単行本の第7集〜第10集が発行された。そして、第10集(11月末発行)の巻末に「完結まであと3冊!」という予告がなされ、愛読者の大きな反響を呼んだ。最終の第13集は来年8月末に発行の見通しであり、漫画雑誌『週刊スピリッツ』の連載は来年7月頃までには終了する見通しである。



○今年もとうとう大晦日となった(5)

 朗読指導は、ほぼ計画通りにいったと考えている。サークル会員の朗読レベルも、順調に、あるいは驚くほど急速に、向上してきている。朗読(発表)会の開催も、きわめて順調にいった。朗読サークルの運営も、大体はうまくいっているようである。かなり厳しい状況になった朗読サークルもあるが、それなりに対応していけると思う。

 私の朗読公演は、予想外の出演機会が2つあった。反面、ネット上にレベルの低い感想(=悪口)を書き流されたこともあった。私は厳しくそれに対応した。朗読サークルの会員は、そんなレベルの低い感想(=悪口)は歯牙にもかけなかったようだ。私が親しくしている少数の朗読家たちも、全く問題にしないか、猛烈に怒っていた。

 6月に初めて「全朗読サークル会員総会」を開催した。全会員の約8割が出席して活発な意見交換も行なわれたが、総会そのものの定例化や、全体的朗読会を開催する方向には行かなかった。そこで、それらの変則的な代替物として、年2回「感動をつくる・小さな朗読館」を開催することを考えている。なに「駄目で元々」なのである。

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館長の朗読日記1303/久しぶりの書斎・・・・・・

館長の朗読日記1303  (戦後68年12月28日 新規)



○久しぶりの書斎・・・・・・(1)

 久しぶりに書斎にこもり、ライフワークの準備をした。私は「携帯手帳」と自称する手帳を常時携行し、スケジュールや様々なメモを書き込んでいる。記憶力が減退している近年は、まさに外に出した頭脳のような存在である。そこに書き込んだメモの中で、ライフワークに関することは別の「研究ノート」に書き写すことにしている。

 その「研究ノート」にまだ書き写していない「携帯手帳」が10冊ほどたまっていたので、年末ではあるし、ライフワークの準備かたがた書き写し始めたのである。つまらないメモもあるが、我ながらなかなか大した内容のものもある。それらを取捨選択しながら書き写していくと、頭や心が少しづつライフワーク・モードになっていく。

 近年は朗読関係の知人友人がかなりできて、けっこう社交的な機会も増えてきたが、本来、私は孤独を好む書斎人なのである。書斎の机に向って、こういう作業をしていると、頭や心が落ち着いてくる。ただし、近年は集中力が減退してきているから、長時間は保たない。かなり頻繁に隣りの居間に出て行き、気分転換を図るのである。



○久しぶりの書斎・・・・・・(2)

 テレビは、まさに愚民政策さながらの低劣な番組がほとんどだから、スポーツ中継とか音楽演奏とか往年の名画とか、あるいは、気の張らないドラマの他はあまり見ないことにしている。勢い、パソコンに向ってインターネットを見ることが多くなる。それも、定期的に見ているいくつかのホームページを一巡するくらいのものである。

 午後に配達される郵便物を受け取りに行くのは私の役目である。夕方には、来年の1月「『東百道の朗読館』納めの会」や3月「小さな朗読館 in ソルシエール」で朗読する太宰治原作「貧の意地」の練習をした。まだ口慣らし程度の軽い練習ではあるし、ただ朗読しても楽しく面白い作品なので、気分転換にはもってこいなのである。

 夕食後には、朗読漫画『花もて語れ』の担当編集者・高島雅さんから電話があった。以前にレクチャーし、現在ネームを造っている文学作品についての、視点の転換に関する問い合わせである。片山ユキヲさんと高島雅さんは、この年末の夜間においても、ネーム造りなどの仕事をしているようだ。私も仕事をしなければ、と思った。

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館長の朗読日記1302/朗読漫画『花もて語れ』のネームチェックその他

館長の朗読日記1302  (戦後68年12月27日 新規)



○朗読漫画『花もて語れ』のネームチェックその他(1)

 昨日(12月26日)の15時00分に、八千代市東南公共センターの3階ロビーで、小学館の高島雅さんと待ち合わせ、朗読漫画『花もて語れ』のネームチェックを行なった。今回のネームチェックも4〜5話分をまとめてやった。内容については何も書けないが、今回は第12集に収録する部分の朗読的かつ物語的な山場であった。

 朗読的には朗読ステップ5〜6について、特に朗読ステップ6についてかなり突っ込んだ説明がなされていた。前回も記したが、朗読ステップ5〜6の説明は、片山ユキヲさんと高島雅さんが相当に議論を重ね、漫画表現的にも内容的にも、まさに錬りに錬った展開になっている。また、物語的にも極めて熱くて重厚な展開になっている。

 先日(12月19)の「小学館コミック局感謝の会」について、私から高島雅さんのお心遣いにお礼を言った。高島雅さんの話しでは、レクチャーのときはあまり話しをしない片山ユキヲさんが、あの場では私にかなり話しが出来たと喜んでいたという。本来は話し好きの人らしい。アシスタントの7人もあの場の空気を楽しんだらしい。



○朗読漫画『花もて語れ』のネームチェックその他(2)

 ネームチェック終了後、高島雅さんと八千代台駅までいっしょに歩いた。駅ビルの本屋に寄るという高島雅さんと別れ、家人に車で迎えに来るよう携帯電話をかけたが出てこない。天気予報では雨のはずだったが、空を見ると青空が見えていた。最近、歩くことを心掛けているのを思い出し、かなり寒かったが、徒歩で帰ることにした。

 帰宅後は、夕食まで、年賀状書きの後整理をした。年賀状を書くには、それなりに広い場所を要するので、居間のテーブルを使い、用具類や資料類を居間の隅にゴチャゴチャと置いていた。それらを整理し、元の場所に戻したのである。ついでに、朗読発表会用のバック音楽を構想する作業も、この辺でそろそろ一段落させようと思った。

 バック音楽の構想も広い場所を要する。年賀状書きと同じく、居間のテーブルを使い、用具類や資料類も居間に置き続けである。年末までには、朗読発表会『白旗の少女』のバック音楽まで構想しておけば十分だから、夜間にそれをやった。この『白旗の少女』は再演だから、一応のバック音楽は出来ている。再確認と微修正で済んだ。

 

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館長の朗読日記1301/年賀状の投函その他の年末のアレコレ

館長の朗読日記1301  (戦後68年12月26日 新規)



○年賀状の投函その他の年末のアレコレ

 昨日(12月25日)は、ついに来年の年賀状を最寄の郵便局に行って投函した。一昨日中に一応は全部を書き終えていたのだが、昨日、念のために最終的なチェックをしたら、ミステイクしていた1枚を見つけた。その1枚を書き直し、徒歩で3分くらいの近距離にある「八千代台西郵便局」まで行き、局員に直に手渡したのである。

 そのついでに八千代台駅(京成本線)の向うにある駅ビル「ユア・エルム」まで行き、本の注文と眼鏡用の洗浄液を買い、さらに最寄のガソリンスタンドまで戻って車のガソリンを補充し、さらに最寄のホームセンター「ロイヤル」の方に廻って障子紙と正月飾り一式その他の買物をした。年賀状投函後のホッとした気分での買物である。

 夕方〜夜は、懸案の朗読発表会『グスコーブドリの伝記』用のバック音楽の選定作業を行なった。前半はクラシックのピアノ曲を軸としたメルヘンチックな曲想で、後半は朗読発表会『銀河鉄道の夜』で使った電子楽器を交えて演奏されたSF調の曲を軸としたファンタジックな曲想でまとめてみた。まあまあのバック音楽だと思う。



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館長の朗読日記1300/朗読漫画『花もて語れ』の第88話

館長の朗読日記1300  (戦後68年12月24日 新規)



○朗読漫画『花もて語れ』の第88話

 昨日(12月23日)は、小学館から『週刊スピリッツ』2014年4・5合併号が届いた。この号には朗読漫画『花もて語れ』の第88話「風博士⑦」が掲載されている。今回は、坂口安吾が「風博士」に込めた思想を解説すると共に、その思想と、朗読という芸術において主人公・佐倉ハナが突き進んでいく道筋を、重ね合わせている。

 ステージ朗読において大切なことは、単に上手に朗読することではない。朗読者が1人の人間として裸の自分をさらけ出し、文学作品の作品世界を認識し、人間としての聴き手にその作品世界を表現(語り、訴え、説得)していく。そして、朗読する文学作品の作品世界(心情とイメージ)を共に認識し、感動を共有することなのである。

 朗読漫画『花もて語れ』の主人公・佐倉ハナは、ついにその道に突き進む段階にまで到達した。これは芸術としての朗読を目指す朗読者の本道である。朗読ステップ1〜6をたどる過程で、坂口安吾原作「風博士」を朗読することを通して。この「風博士」篇を、朗読漫画『花もて語れ』の読者は、果してどのように受けとるであろうか?


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館長の朗読日記1299/八千代「新・みちの会」の朗読レッスン

館長の朗読日記1299  (戦後68年12月22日 新規)



○八千代朗読サークル「新・みちの会」の朗読レッスン(1)

 昨日(12月21日)の13時30分から、八千代朗読サークル「新・みちの会」の朗読レッスンを行なった。今回は第2期・朗読ステップ5の第5回目、レッスン台本・三浦哲郎原作「みちづれ」の第5回目。本来は前回が今年最後のレッスンだったが、私の都合で11月09日のレッスンを昨日(12月21日)に変更してもらった。

 朗読者は、作家がその文字言語に込めた心情&イメージを、すなわち、その文字言語の「内容的な意味」を、自分の言葉として、自身の音声言語でもって聴き手に伝えるように表現する。前回のレッスンで、この私の指導を受けて、あるレッスン生の朗読表現がグッと良くなった。そのレッスン生に、一つの飛躍が訪れた瞬間であった。

 今回のレッスンでは、そのレッスン生に、さらに、作家が表現した文字言語の各音節の末尾の助詞を下げないこと、一つながりの音節は「高止めて、次を盛り上げる」ようにつなげていくことを指導した。その直後のそのレッスン生の朗読は、ほとんど私が提唱する「自然な語り口」に近づいていた。飛躍が次の飛躍を呼んだのである。



○八千代朗読サークル「新・みちの会」の朗読レッスン(2)

 私の朗読レッスンは、会員の1人1人に順々にレッスン台本を1〜2頁づつ朗読してもらう。そして、その1人1人の朗読に対して、私がその時点で必要と思われるダメ出しやコメントをする。私のダメ出しやコメントは、直接にはその1人の会員に向って言っているのだが、間接にはそのサークルの全員に向って言っているのである。

 その私の1人1人に対するダメ出しやコメントを、他人事(ひとごと)として聴き流すか、自分事(わがこと)として聴き込むか。また、すでにそれらの点をクリアした先輩会員が、後輩への私のダメ出しやコメントを、将来の朗読指導者になるために聴き込むか、否か。その聴き方によって、グループ・レッスンの意義が生き死にする。

 最後に、次回の朗読発表会の演目を、先週に続いて検討した。候補作を読んできた会員から、その内容と台本としての良し悪しが報告され、実質的な絞り込みが行なわれた。年明けのサークル新年会で、さらに検討を重ね、遅くとも来年の初レッスン日には結論を出すことになった。候補作を3作まで絞り込み、順位づけをするのである。






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