05館長の朗読日記 88
館長の朗読日記 88 (戦後63年1月05日新規)
○出向講義のリハーサル
今日は1月05日の土曜日。1月07日、すなわち来週の月曜日には、船橋マスター学院に出向して「朗読とはなにか」という講義をすることになっている。
通常の朗読レッスンなら、多少時間を延長しても許容される。それでも足りなければ次回にまわすこともできる。しかし、船橋マスター学院の出向講義は1回きりである。延べ3回やることになっているが、これは1期生~3期生に分けて講義するからで、毎回、受講生が変わるから、続きは次回で、などというわけにはいかない。しかも、時間は2時間厳守である。さらに、途中に必ず休憩時間を入れる約束になっている。
講義の内容は盛りだくさんなのに、話す時間が厳しく制約されている。よほど、手際よく進めていかないと時間不足になって立ち往生することは眼に見えている。そこで、今日の午前中に自宅でリハーサルをやってみたのだが、やはり時間に追われてしまった。内容を大幅にカットしたり、変更したりしながら再度試みたら、何とか時間内に収めるメドがついた。しかし、ちょっと油断すると、時間オーバーということになりかねない。講義のリハーサルなどはあまりやったことがないのだが、今回ばかりはしっかりとやっておく必要がある。まったく、時間というものは、どうにもならない厄介なものである。
○フィギュアスケートの太田由希奈選手についてもう少し
このブログは朗読に関するサイトであって、フィギュアスケートとは本来無縁のものである。しかし、昨年末にフィギュアスケートの太田由希奈選手についてちょっと触れたところ、いろいろなルートから「太田由希奈」で検索してアクセスしてくる方々が後を絶たない。フィギュアスケートの人気がすごいのか、太田由希奈選手の評価・知名度が上がったためなのか分からないが、いずれにせよ良いことだと思う。特に、太田由希奈選手のフィギュアスケートはもっともっと高く評価されてよいと思っている。
そこで、フィギュアスケートにはまったくの素人である私だが、もう少し太田由希奈選手のフィギュアスケートに言及してみたくなった。
○森雅章の評論文はすばらしいが若干の違和感もある
すでに「館長の朗読日記85」で記したように、太田由希奈選手に関しては森雅章の優れた評論文「浅田真央と太田由希奈」がある。
http://homepage2.nifty.com/morimasa/mao.html
その中で、森雅章は次のように記している。
「彼女(太田由希奈選手のこと・・・・・・館長)のプログラムと演技は浅田真央のそれと結構違う。浅田真央が劇音楽を多く使うのに対して、彼女はダンス音楽の使用が目に付く。浅田真央の競技用プログラムは全て古典的な三部構成だったが、彼女にはそのように決まったパターンというものはない。浅田真央の競技用プログラムは物語的であり、彼女はそれぞれの物語の主人公(少女)を演じていたが、太田由希奈のプログラムは少女的ではないし、『ダフニスとクロエ』『蝶々夫人』にはある程度物語性が感じられるものの、他のプログラムはそうではない。では彼女は一体何を重んじ、何を表現しているのか。一つ一つのフレーズとその情感だ」
論旨に、私は大方は賛同するのだが、最後の「では彼女は一体何を重んじ、何を表現しているのか。一つ一つのフレーズとその情感だ」という箇所には若干の違和感が残る。違和感の中味については後でまとめて記すことにし、森雅章の論旨の続きをまず見ていくことにしよう。
「僕が最も素晴らしい出来映えだと思う、03-04シーズンの競技用プログラムを例に見てみよう。先ずSPの『ピカソのダンス + オモタイ』は、琴や太鼓を取り入れリズムを強調した硬質の曲だが、彼女はシャープできびきびした動作でこれに応え、日本的な、凛とした美しさを表現する。アメリカ人の解説者が「日本の伝統的な舞曲だから彼女も心地好さを感じているようだ」と言っていたが、現代の日本人にとってはこうした曲のほうが西洋音楽よりも遥かに馴染みが薄く、従って演じ難いことを多分知らないのだろう。FSの『ダフニスとクロエ』は対照的に、春の暖かく柔らかい光に満ちた曲だが、彼女は今度はどこまでも優美に、繊細に音楽の情感を表現していく。『ダフニスとクロエ』と言えば、サラ・ヒューズが2002年のオリンピックで使い、栄冠を勝ち取った曲だ。が、両者の演技を見比べてみるならば、その表現力・芸術性には雲泥の差がある。なるほど、サラ・ヒューズの方がジャンプテクニックは上かもしれないが、彼女はこの素晴らしく緻密で繊細な名曲を何と粗雑に扱っていることだろう。(僕は殆ど見るに耐えない。) それに対して太田由希奈は、何と音楽を大事にし、情感を細やかに表現しているのだろう。殆どのフィギュアスケーターは、仮に音楽がなくても演技することは可能だろう。が、太田由希奈だけは音楽なしでは全く演技できなくなってしまうのではないか、という気がする」
この部分にも私は賛同を惜しまないが、若干の違和感もある。アメリカの解説者の「日本の伝統的な舞曲だから彼女も心地好さを感じているようだ」というコメントを紹介しながら、森雅章自身は「現代の日本人にとってはこうした曲のほうが西洋音楽よりも遥かに馴染みが薄く、従って演じ難いことを多分知らないのだろう」と否定的なコメントを附している部分である。しかし、森雅章の「殆どのフィギュアスケーターは、仮に音楽がなくても演技することは可能だろう。が、太田由希奈だけは音楽なしでは全く演技できなくなってしまうのではないか、という気がする」という記述には、私は大いに首肯する。
最後は、すでに「館長の朗読日記85」で引用した次の箇所であるが、ここで森雅章は「表現」について彼の考えを記している。。
「フィギュアスケーターは表現力を身に付けなければいけない、とよく言われる。が、それでは表現力とは一体何なのか。表現する、とは一体何を表現することなのか。この点について、フィギュアスケーターがよく抱いてしまいがちな誤解が二つほどあると思う。一つは、殊更に笑顔や悲しげな表情を見せることが表現力だ、というもの。もう一つは、個人的な感情や体験を演技に反映させることが表現力だ、というもの。どちらも間違いであり、それらが間違いであることはバレエダンサーを思い浮かべればすぐに判ると思う。バレエダンサーは顔の表情を殊更強調したりしないし、情感はむしろ体全体の動きやポーズで表す。また、その身体的表現は個人的な感情や体験の反映ではない。役柄やストーリーによって、あるいは音楽の要請によって自然に形作られるものだ。浅田真央のプログラムは前者を、太田由希奈のプログラムは後者を重んじている。二人の共通点は共にバレエを習っていたことで、演技にもそれが十分に生かされているのだが、浅田真央の場合にはクラシックバレエ的、太田由希奈の場合にはモダンバレエ的と言えるだろう」
この部分でも、私は森雅章の論旨におおむね賛同するのだが、次の「バレエダンサーは顔の表情を殊更強調したりしないし、情感はむしろ体全体の動きやポーズで表す。また、その身体的表現は個人的な感情や体験の反映ではない。役柄やストーリーによって、あるいは音楽の要請によって自然に形作られるものだ」という箇所のうち「その身体的表現は個人的な感情や体験の反映ではない。役柄やストーリーによって、あるいは音楽の要請によって自然に形作られるものだ」という箇所に若干の違和感を感ずる。
ここまでで、すでにかなり長くなってしまった。続きは次回に回すことにしよう。
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