05館長の朗読日記 112
館長の朗読日記 112 (戦後63年2月17日 新規)
○八千代朗読サークル「こちの会」が『燈籠』の通し読み
昨日は、午後2j時から八千代朗読サークル「こちの会」のレッスンを行なう。レッスンの内容は太宰治原作『燈籠』の通し読みである。
通し読みに入る前に「おさらい会」向けの台本を配った。「おさらい会」では、一人一人が別の台本を朗読するから、台本の数が会員数分ある。それを一セットづつ全員に配布するのだから、大変である。特に「こちの会」は会員数が多いから、とても手では運べない。車に積んで運び込まなければならない。
なぜ、このような苦労をしてまで全員に一セットづつの台本を配布するのか。それは、少しでも多くの台本に触れてもらい、たとえ自分が「おさらい会」で朗読しなくとも、その台本の朗読の仕方を学んで、いつかは自分のレパートリーとして欲しいからである。
さて、肝心の『燈籠』の通し読みであるが、皆、それぞれ着実に進歩している。
一人、かなり頑固に下から(低く)出る朗読をしていた会員が、今回は上から(高く)出る朗読をしていた。本人の話では、自宅で自分の朗読を録音して聴きながら、相当練習をしたということである。録音して聴くと、下から(低く)出る朗読が不自然な感じで良くないこと、上から(高く)出る朗読の方が自然な感じで良いことが、よく分かったという。朗読ステップ2のこの段階で、ここまで直れば上出来である。
別の会員は、共通語(標準語)的なアクセントがなかなか出来ないのだが、今回の通し読みではそれがあまり気にならなかった。なぜなら、上から(高く)出る朗読がかなりキチンとできていたからである。上から(高く)出る朗読ができると、その分、日常会話的な語りかける表現に近くなる。そうすると、共通語(標準語)的なアクセントから多少はずれていても、それほど気にならない。それと言うのも、共通語(標準語)的なアクセントはそれ自体で存在しているわけでもなければ、それ自体で意味があるわけでもない。音声言語の表現は、あくまで、日常会話の場において、自分のイメージや心情を相手に伝え、納得してもらうために存在する。上から(高く)出る音声言語表現は、その最も基本的な要件なのである。共通語(標準語)的なアクセントなどは、それに比べれば、二義的な要件にしかすぎない。逆に、上から(高く)出る音声言語表現さえできるようになっていれば、共通語(標準語)的なアクセントは「東式アクセント記号」で比較的簡単に直すことができるのである。
すでに上から(高く)出る朗読ができている会員には、文章と文章の「つなぎ」、文と文の「つなぎ」、文節と文節の「つなぎ」についても指導を開始した。これは、本来は朗読ステップ3以降に本格的に指導する問題なのだが、最近は、少し先行して教え始めている。
○千葉朗読サークル「風」の朗読レッスン
昨日のレッスンは、山本周五郎原作『夕靄の中』の後半であった。しかし、レッスンの前に、いくつかの問題を相談した。
一つは、この6月に三鷹朗読サークル「さつきの会」が行なう朗読発表会『ガラスのうさぎ』に、原作者の高木敏子先生が聴きに来てくださることに関して、千葉朗読サークル「風」にもサポートして欲しいという件についての打診である。この件は、当然、三鷹朗読サークル「さつきの会」に相談すべき内容なのだが、あらかじめ千葉朗読サークル「風」に打診をしておかないとなかなか話しが進まない。千葉朗読サークル「風」の皆さんは快くサポートをしてくれるということだった。そうなると、高木敏子先生のご住所は千葉市であるから、場合によってはご自宅からご案内できる態勢も組めることになる。
二つは、今秋に開催する朗読発表会の台本についてである。この件は、藤原てい原作『流れる星は生きている』の一部を台本化することで、決着した。
肝心の朗読レッスンの方は、今回は一人一人を少し丁寧に指導した。さすがに、朗読ステップ4に進んでいるだけあって、皆、比較的早く自分の朗読表現を修正・改善できるようになっている。それだけの表現力がついているだけでなく、耳も良くなってきているのである。人間は修練次第では、表現力だけでなく、認識力もレベル・アップするものなのである。
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