05館長の朗読日記 172
館長の朗読日記 172 (戦後63年7月13日 新規)
○昨日は、例のごとく、午前は遠方でのアルバイト仕事、午後は八千代市に帰ってきて八千代朗読サークル「みちの会」の朗読レッスン、夜間は同じく八千代朗読サークル「ことのは」の朗読レッスン、と朝から晩まで働きどおしの一日であった。
○八千代「みちの会」と同「ことのは」の朗読レッスン
八千代朗読サークル「みちの会」と同「ことのは」の両サークルは、今秋9月に合同の朗読発表会『クリスマス・キャロル』を開催する。
朗読レッスンの都合も考えて、第1章と第3章を「ことのは」が、第2章と第4~5章を「みちの会」が、というように振り分けている。両サークルとも同じペースでレッスンを進めているので、今回は第3クルーの前半部分を、すなわち「ことのは」が第1章、「みちの会」が第2章を朗読練習した。
第3クルーともなると、皆それなりに仕上ってくる時期である。そこで今回は、各グループごとに全員で一通り通して朗読してもらった。私の方も、一応、BGMの構想ができているので、皆の朗読を通しで聴きながら、頭の中でBGMとの相性をチェックすることなどもした。
朗読表現的には、まだまだ不満な点が多いので、後でまとめて一人一人にダメ出しをした。レッスンが進むにつれて、また、仕上げが進んでくるにつれて、ダメ出しの内容がきつくなっていくのは当然である。
最初はどうなることやら、と心配していたのだが、今回の通し練習を聴いて、9月まであと二ヶ月間この調子で仕上ていけば、まあ何とかなるかも知れないと、思えるようになってきた。
先日、この『クリスマス・キャロル』の映画のビデオを2本借りてきて観たのだが(1本は実写、1本はアニメ)、そのあまりのレベルの低さにあきれ返ってしまった。やはり、映像とセリフだけで表現する映画では、文字言語で表現された文学作品の味は出せないのだ、とつくづく痛感した。あたりまえの話だが、文学作品における「地の文」の役割は絶大であり、この部分を映像でしか再表現できない映画は、その点だけでも致命的な限界があるのである(その点は演劇も同じだが)。
映画のビデオを観て、改めて、やはり、文学作品を文字言語以外で再表現しようとする場合に、朗読に勝るものはない、と再確認することが出来た。私が観た2本の映画に比べたら、まだまだ十分な仕上りにはほど遠いけれども、今回のレッスンにおける朗読表現の方がはるかにマシだと思ったものである。
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