05館長の朗読日記 183
館長の朗読日記 183 (戦後63年8月10日 新規)
○八千代「みちの会」「ことのは」の立ち稽古
昨日は、八千代朗読サークル「みちの会」と「ことのは」が合同で開催する朗読発表会『クリスマス・キャロル』の立ち稽古を行なった。
9時30分に集合して準備をし、10時00分から立ち稽古を始め、途中の昼食時間(45分程度)を挟んで、16時45分まで立ち稽古をした。15分で後片付けを行ない、17時00分には会場を撤収した。
ほぼ一日がかりの長時間にわたる立ち稽古だったが、暑い最中、会員の皆さんは頑張って通し読みを二回もくり返して稽古した。まだ不十分な点が多々あるが、この調子で行けば、本番までには、ある程度は仕上げることができるのではないか、という手ごたえを感じることが出来た。また、その他の点でもいろいろと収穫があった。今回はかなり有益な立ち稽古だったと思う。
そこで、今回の立ち稽古で、私の気のついた点をいくつか簡単に記しておくことにしたい。くわしいことは、いずれ「館長の朗読指導メモ」に書くつもりである。
○朗読ステップ5修了間近のグループの実力
午前中にやった一回目の通し読みのときには、三人の会員が都合により欠席であった。全体の流れを見るためにも、また、バック音楽(BGM)をチェックするためにも、欠席した会員の分を前後を読む会員に代役で朗読してもらい、とにかく全体を読み通してもらった。
実際にやってみると、練習をしていないはずの代役部分を、代役者がかなりしっかりと朗読してくれた。本来の自分の持分の朗読と区別がつかないくらいであった。これには、ちょっとビックリした。
まあ、皮肉な見方をすれば、本来の持分の方が、逆に、まだ十分には仕上がっていないからだ、と言えないこともない。しかし、それにしても、初めて朗読する文章を、ある程度は聴ける程度には朗読表現できていたことは確かである。これは、朗読表現の技術がかなり身についてきてきた証拠である。
朗読ステップ5修了間近のグループの実力、すなわち、私の朗読レッスンを約五年間継続してきたグループの実力、その一端を垣間見た気がした。
○朗読に必要なのは優れた認識力と優れた表現力
朗読に必要なのは、音声言語に関する優れた表現力である。しかし、それと同等、あるいは、同等以上に必要なのは、文字言語に関する優れた認識力である。
どんなに優れた表現力で朗読しても、台本(=文学作品)に書かれている文章を的確に認識できていなければ、その不的確さが増幅されて表現されるだけのことである。そういう朗読に、聴き手は感動することは出来ない。
逆に、台本(=文学作品)に書かれている文章が的確に認識できていれば、多少下手な朗読であっても、文章の意味に助けられて、聴き手は感動することができる。
もちろん、不的確な認識に基づいた、下手な表現は聴けたものではない。朗読のレベルを上げるためには、音声言語の表現力はもちろんのこと、文字言語の認識力の方も真剣に磨かなければならないのである。
○朗読表現の重要ポイントは地の文をどう表現するか
セリフは、慣れてくれば、そうむずかしいものではない。少なくとも、朗読ステップ5修了間近になると、そうそう表現力に差がつかなくなってくる。
しかし、地の文の方はなかなかそうはいかない。地の文を心情を込めて朗読するには、音声言語の表現力はもちろんのこと、文字言語の認識力の方に、かなり高度な実力が要求されるからである。
セリフに比べて地の文は、文章内容が複雑で豊富なだけでなく、文章構造そのものが立体的であり、表現されている意味が立体的・重層的である場合が多い。それらを的確に認識し、的確に表現することはかなりむずかしい。そこで、朗読表現のレベルが上がって来るに従って、朗読者の認識力と表現力がもろに問われてくるのである。
もっとも、ディケンズくらいの作家になると、シェークスピアと同じように、短いセリフに重層的な意味や万感の想いを込めている場合が多い。そういう場合は、セリフ表現が易しいということにはならない。現に『クリスマス・キャロル』の場合でも、ごく短いセリフの表現がうまくいかずに、四苦八苦している会員が多いのである。
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