05館長の朗読日記 196
館長の朗読日記 196 (戦後63年9月17日 新規)
○品川「あやの会」の朗読レッスン
昨日の午前は、品川朗読サークル「あやの会」の朗読レッスンを行なった。
今回は、芥川龍之介原作『トロッコ』の初日である。朗読表現においてもっとも重要かつ基本的な問題である、視点(と心情)の転換についての復習と、『トロッコ』の前半の朗読表現的解説を行なった。朗読ステップ1~3においてもっとも大切なところなので、今回は私からの話しで終始した。
私の『朗読の理論』を熱心に読み込んでいる会員が何人かいて、『トロッコ』に関する記述部分と重ね合わせて聴いてくれていたようである。あらかじめ眼で読んでおいたものを、改めて耳で聴くと、内容がよく理解できる。これは何の場合でも同じである。
レッスンの合間に、八千代でやった朗読発表会『クリスマス・キャロル』を視聴した感想とか、来年の朗読発表会の準備についての話しが出た。このグループは、前回から「あやの会発表会通信」というものを発行している。今回は第2号が配られた。A4判の紙一枚の簡単なものだが、とてもよい試みだと思う。よい記録になるし、良い記念にもなる。とにかく、このグループは、朗読そのものについても、サークル運営についても、熱心である。何ごともそうだが、熱心に勝るものはない。
○三鷹「さつきの会」の朗読レッスン
昨日の夜間は、三鷹朗読サークル「さつきの会」の朗読レッスンを行なった。
今回は、有島武郎原作『小さき者へ』の仕上げの通し読みであった。
一人一人について見ると、それぞれ着実に上達していた。述語部分を高く(上へ)上げて表現するのが、若干、ギゴチなかったものが、心情のこもった自然な表現になっていたり。あるいは、アクセントに難があったものが、かなり是正されて、自信をもって堂々とした感じの心情表現になってきていたり。文字を読み進むテンポ(リズム)と、途中に挿入する間(ま)のバランスがよくなって、聴き手が自然に聴き入ることができるような朗読表現になってきていたり。読み急ぐあまり、文の末尾をはしょっり、ズルズルと続けて読んでいたものが、適度な区切りや間(ま)をとって読むことができるようになってきたり、等々。
しかし、それにしても、この『小さき者へ』という作品は、激しくも深い心情表現を必要とするむずかしい内容である。今回は、4人一組で作品を読み継いでもらったので、一人が読む時間は9分前後であったが、その9分が長く感じられた。
作品に表現されている意味や内容や心情はそれなりに認識できているのだろうが、それだけでは表現につながらない。文学作品(台本)を読み込んで自分なりの「認識イメージ」をつくるだけでは表現につながらないのである。その「認識イメージ」を基に、それを実際に自分の音声言語でどのように表現して行ったらよいのか。いわば、表現作戦といったようなものを、文ごとに、フレーズごとに、単語ごとに、練りこんでいかなければならない。つまり、具体的な「表現イメージ」を自分の頭と心の中でつくり上げていかなければならないのである。
この「表現イメージ」を抜きにして。自分の「認識イメージ」から直ちに朗読表現をしてしまうと、十分な心情表現が出来ないことになる。自分では心情を込めたつもりでも、客観的にはそれが表現されていない、という事態になってしまう。そういうことが、この『小さき者へ』のような作品を朗読する場合には、はっきりと浮き彫りにされてくるのである。
こちらでも、レッスンの合間に、朗読発表会『クリスマス・キャロル』を視聴した感想と、来年の朗読発表会の台本のことが話題になった。気に入った台本でないと、なかなか練習に身が入らない、などという発言もあったが、それに対して私は「そういうことを言うのは10年早い」と言っておいた。自分の気に入らない台本であればあるだけ、身を入れて練習しなければならない。第一、気に入らない台本を、いい加減な練習しかしないで、聴き手に聴かせるなどは、とんでもないことである。朗読は、聴き手に聴いていただく、という気持ちでやらないと、なかなか本物にはならない。
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