05館長の朗読日記 211
館長の朗読日記 211 (戦後63年10月14日 新規)
○千葉「風」の朗読発表会に向けた立ち稽古
昨日の午前~午後とほぼ一日をかけて、千葉朗読サークル「風」の朗読発表会に向けた立ち稽古を行なった。場所は、千葉朗読サークル「わかば」がレッスン会場としている北大宮自治会館の2階であった。
朗読発表会の演目は、藤原てい原作の『流れる星は生きている』である。
これは、先の大戦の悲劇を扱った体験記の一つであるが、こういう体験記を朗読するときには共通したポイントがある。それは、①戦後になって(戦後の視点と心情で)書かれている文章を、戦中の現場にいる当事者としての原作者自身の視点と心情に観念的に立ってその場面をイメージし、②文章に書かれている内容をあたかも現在進行形中の出来事であるかのように自分事(わがこと)として朗読表現すること、である。
これが出来ると、原作者が体験した悲劇のイメージが、圧倒的な臨場感と切迫感(緊迫感)をもって聴き手の頭と心の中に甦り、聴き手は心の底から感動してくれる。
しかし、戦後の視点と心情に立ったまま、その戦中の悲劇を、過ぎ去った過去の思い出として、ないしは、他人が体験した可哀想な出来事としてイメージし、他人事(ひとごと)のように朗読表現すると、聴き手も他人事(ひとごと)として単なるお涙頂戴式の感傷的な感動しかしてくれない。
ところが、朗読するサークルの会員たちは、だいたいが戦後の平和な時代しか知らない。戦中のことを知っている会員にしても、体験記に書かれているような極限状態を経験している人は少ない。
自分が経験したこともない極限状態の視点と心情に立って、台本の内容をイメージし、朗読表現することは、決して容易ではない。豊かな想像力と、あるレベル以上の朗読力が要求される。会員の皆さんは、自分の朗読表現にかなり苦心しているようであった。
昨日は、立ち稽古の朗読をMDに録音し、第一部、第二部、第三部が終わる毎に、その録音を再生しながら、かなり細かにダメだしをした。
このように、直前の自分の朗読を録音で聴き、私からその部分のダメ出しを受けても、自分の朗読の欠陥や不十分さが十分に聴き分けられない会員が多い。特に、第一部についてはその傾向が強かった。もっとも、第二部、第三部と同じやり方をくり返していくうちに、徐々に聴き分けられるようになってきたようだったが。やはり、自分の朗読表現を録音で聴いて、その良し悪し、あるいは、欠陥や不十分さを客観的に認識できるようになるまでには、それなりの修練と朗読力が必要なのである。
今回の立ち稽古では、全体的にかなり切迫感(緊迫感)のこもった朗読表現になってきていた。今後も、自主勉強会を行なうようだし、まだ舞台リハーサルも残っている。昨年よりは、かなりレベル・アップした朗読発表会になるのではないか、と大いに期待している。
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