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05館長の朗読日記 205

館長の朗読日記 205  (戦後63年10月03日 新規)

○船橋「はなみずき」の朗読レッスン
 昨日の午後には、船橋朗読サークル「はなみずき」の朗読レッスンを行なった。
 今回は、芥川龍之介原作『トロッコ』の全体練習である。
 そもそも、このレッスン台本における本来の課題は、地の文を視点(と心情)の転換を意識して朗読表現することにある。しかし、まだ完全に語りかける語り口が身についていない場合には、まずその語り口になるように指導することが先に立ってしまう。
 これも不可思議な現象なのだが、会員一人一人を順々に指導していくと、前半分くらいの会員までは少々ギゴチない読む語り口で朗読している。そこで、もっぱら語りかける語り口になるような指導を行なうことになる。ところが、後半分くらいの会員の番になると、だいたい語りかける語り口ができてくるので、ようやく、本来の課題である視点(と心情)の転換を意識した表現の指導ができるようになる。
 これは、別に、前半分の会員の方が語りかける語り口が出来ず、後半分の会員の方が語りかける語り口が出来る、ということではない。後半分の会員は、前半分の会員の朗読表現と私の朗読指導を間近に聴いているため、知らず知らずのうちに語りかける語り口に馴染んでくる。その結果、自分の番になるころには、語りかける語り口ができるような状態になっているのである。
 これは、一見すると不可思議な現象に見えるが、実は不思議でもなんでもない当たり前のことに過ぎない。なぜならば、語りかける語り口は、どの会員も自分の日常会話においては、無意識にできているからである。つまり、会員(=人間)は全員が、潜在的にそういう表現能力を身に着けている。その潜在的な表現能力が、前半分の会員の朗読レッスンを傍聴しているうちに、徐々に顕在化してくる。そして、それが顕在化しさえすれば、語りかける語り口などはたちまちのうちに出来てしまうのである。
 なにせ、普段、自分がやり慣れている語り口なのだから、これは当然のことであろう。これが、日常会話をベースとする朗読表現の最大の特長といってよい。ピアノレッスンとか、舞踊レッスンなどのように、通常的にはやりつけない行為を身につけるレッスンとは、根本的に異なる点なのである。
 
○習志野「茜」の朗読レッスン
 昨日の夜間には、習志野朗読サークル「茜」の朗読レッスンを行なった。
 今回は、宮沢賢治原作『蟻ときのこ』について私からの解説と会員の朗読練習である。
 このグループはこの夏の八月にレッスンを始めたばかりで、現在は朗読ステップ1の最初のレッスン台本として宮沢賢治原作『やまなし』と『蟻ときのこ』を2本立てで練習している。
 朗読ステップ1の本来のテーマは、イメージづくりにある。原作をよく読み込んで、そこに文字言語で表現されている作品世界を、できるだけ豊かに、立体的に、臨場感あふれるようにイメージすることを身に着けてもらう段階である。
 したがって、前半分の会員には、表現の仕方そのものよりも、その表現の基になっているイメージをどのように抱いているか、という手問題を中心とした指導を行なう。そして、後半分の会員には、、前半分の会員に指導したイメージづくりを前提としてどのように表現するか、ということを指導する。まあ、この段階では、表現の仕方といっても、どうしても「高く上に出る」表現の指導が中心になってしまうが。

○グループによる朗読レッスンで大切なこと
 グループによる朗読レッスンの場合には、このように前半分と後半分の会員に対する指導内容がかなり異なってくる。したがって、自分以外の会員の朗読表現とそれに対する私の指導内容を、自分事(わがこと)のようにして注意深く熱心に聴く態度が望まれる。
 これは、グループによる朗読レッスンの場合に、非常に大切なポイントなのである。それを継続してやるかやらないかで、当人の朗読の上達ぶりがまったく違ってくる。
 短い間は、その違いはそれほど目立たない。しかし、数年間も経つと誰の眼にも明らかなほど鮮明になってくる。そうなると、その差を取り戻すことは、まったく不可能ではないにしても、相当にむずかくなってしまう。会員の皆さんは、そのことに十分に留意していただきたい。
 

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