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05館長の朗読日記 209

館長の朗読日記 209  (戦後63年10月10日 新規)

○千葉「わかば」の朗読レッスン
 昨日の午後は、千葉朗読サークル「わかば」の朗読レッスンを行なった。
 今回は、来年の2月に予定している朗読発表会向けの台本『白旗の少女』の2回目の朗読練習である。この『白旗の少女』は3部構成であり、毎回1部づつの朗読練習を2回くり返す予定である(2クルー)。その後、全部通しの立ち稽古を1回、実際の会場を使った舞台リハーサルを1回行なって、本番に臨むことになる。
 前回は出演メンバーの一人が欠席していたが、今回は全員が顔をそろえた。
 この台本のような先の大戦の悲劇を扱ったもの、特に、当事者が自分の生々しい体験を記したものの場合は、朗読している方が表現しながら涙ぐんでしまうことがある。涙ぐまないまでも、つい、その内容に同情してしまう。そうすると、朗読表現としては、どうしても他人事(ひとごと)になってしまうのである。
 どんなに涙しても、どんなに同情しても、それは第三者の視点と心情で台本の内容(作品世界)を認識していることになる。それではダメなのである。第三者ではなく、当事者の視点と心情で作品世界を認識し、当事者の視点と心情で表現しなければならない。
 そうしないと、切迫感や臨場感が出てこないまま、単なるお涙頂戴的な甘い朗読になってしまう。
 これまでのどのグループもそうであったが、台本を一通り全部練習し終わるまでは、つまり、第1クルーが終わるまでは、どうしてもこのお涙頂戴的な甘い朗読表現になりがちなのである。問題は、第2クルーで、どれだけその甘さが払拭できるかである。

○八千代「花ことば」の朗読レッスン
 昨日の夜間には、八千代朗読サークル「花ことば」の朗読レッスンを行なった。
 今回は、宮沢賢治原作のレッスン台本『注文の多い料理店』の全体練習の2回目である。
 私は、朗読指導する場合の自分の説明の仕方や解説の仕方をいつも考え、改良を加えるべく努めている。そうしていると、いろいろな発見をすることもできるし、漠然としか認識できていなかったものが明確に認識できるようになることもある。
 最近では、次のことを再認識し、さっそく自分の朗読レッスンの説明に使っている。
 従来、私は、音声言語が文字言語と決定的に違う特長として、音声言語は表現主体の心情を直接表現できる、という点を強調していた。その反面、音声言語は、場面の中に登場するさまざまな形象(特に視覚的な形象)を直接表現することはほとんど出来ない、と説明してきた。その点では、文字言語と同じであることも強調してきた。
 しかし、実は、音声言語は、その形象(特に視覚的な形象)についても、ある程度は直接表現することができるのである。例えば、遠近の差、つまり、距離感については、声の出し方によってある程度は直接表現することができる。また、面的な広さや立体的な大きさについても、声の出し方によってある程度は直接表現することができる。さらに、相手がどこにいるかということも、つまり、表現主体の前にいるのか、横にいるのか、後ろにいるのか、あるいは、上方にいるのか、下方にいるのか、ということも声の出し方によってある程度は直接表現することができる。つまり、その場面の立体的な状況を、声の出し方によってある程度は直接表現することができるのである。
 場面の立体的な状況というのは、一種の形象(特に視覚的な形象)である。したがって、音声言語は、その形象(特に視覚的な形象)についても、ある程度は直接表現することができる、と言い得るわけである。
 今回の台本『注文の多い料理店』の中にも、山猫の子分二人(二匹)が、お互い同士横向きでボソボソ相談し合ったり、前方にいる二人の紳士に呼びかけたり、あるいは、後方にいる山猫の親分に返事をしたりする場面がある。その場面を例にとって、そのような説明をしてみた。
 すると、さすがは朗読ステップ4の段階までレッスンを積んできた会員たちである。山猫の子分二人がお互いに横向きで話すところは、実際に横を向いて、後方の親分に返事するところは、実際に後ろを向いて、セリフ表現を試みるのである。そして、周りの会員たちと「うん。たしかに横を向いたときと、後ろを向いたときでは、声の出し方が違っている」などと話し合っている。
 まあ、ここまでくると、真面目なのか、ただ面白がって楽しんでいるだけなのか、いささか疑わしくなってくる。しかし、とにかく、レッスンの間中、笑いが絶えなくなることだけは事実である。

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