05館長の朗読日記 245
館長の朗読日記 245 (戦後63年12月18日 新規)
○太田由希奈選手の現役引退に寄せて(その5)
この際、今季のグランプリ・シリーズをテレビ観戦して、改めて感じたことをいくつか記しておきたい。
一つは、解説者や実況アナウンサーが、演技する選手の顔の表情や身体の柔軟性(脚の開き具合とか背骨の背後への曲がり具合など)を、評価のポイントとして過大に取り上げていた点である。
フィギュアスケートのように舞踊系の表現を評価する場合、根幹は演技者が心に抱くイメージや心情を身体全体の動きや形でいかに表現できているかにある。顔の表情などは、その一部ではあっても、いわば枝葉にすぎない。
また、身体の柔軟性そのものは、表現そのものではないし、スケート技術でもない。もちろん、演技者が心に抱くイメージや心情を身体全体の動きや形で表現するために、身体の柔軟性は必要不可欠な大事な条件である。しかし、それは表現のために必要な要素ではあっても、決してそれそのものを売り物(評価の対象)とすべきではない。身体の柔軟性そのものを売り物(評価の対象)にするのは、曲芸である。フィギュアスケートの表現とサーカスなどの曲芸とを混同してはならない。
二つは、ジャンプの精度が非常に厳しく判定されるようになった点である。
もちろん、精度を厳しく判定すること自体は、いわば当然であって、問題はない。しかし、それがジャンプそのものの評価、あるいは全体的な演技評価の中でどのような意味を持ち、それが選手の演技に今後どのような影響を与えるか、という点が問題なのである。私は、フィギュアスケートの門外漢であって、その演技評価の全体がどうなっているかまでは、くわしく知らない。しかし、ジャンプに関する評価の仕方が、フィギュアスケートの曲芸化につながることのないように願っている。
三つは、世界全体で見ると、フィギュアスケート選手の表現力ははなはだ低いレベルにある、という点である。
言ってしまえば、スケート技術は一流だが、表現力は素人に毛が生えた程度、という選手が大部分である。太田由希奈選手、鈴木明子選手、浅田真央選手、あるいは、村主章枝選手、キム・ヨナ選手などは例外中の例外といってよい。
これは、表現という点では、フィギュアスケートがまだまだ発展途上の競技だということの現われであろう。何せ、顔の表情や身体の柔軟性、あるいは、ジャンプの回転数などを過大に評価するテレビ解説が、堂々とまかり通っている有様なのだから。
以上の点から、私はフィギュアスケートが女子体操の二の舞を踏んでしまう危険性を感じざるを得ない。言ってしまえば「未成熟な子どもの曲芸」に堕ちてしまうことを危惧するのである。これは、事実、コマネチ以後の女子体操がたどったコースなのである。今季のグランプリ・シリーズにも、すでにその兆候は出ていたように思われる。
太田由希奈選手、鈴木明子選手、村主章枝選手、イリーナ・スルツカヤ、サーシャ・コーエンその他のように、大人の本当の女性美をフィギュアスケートを通して芸術的に表現することを目指して努力している選手たちを、偏った演技評価によって不当に淘汰してはならない。また、まだ未熟な段階の少女たちの心身を酷使して、本来なら豊かな将来性をもった彼女たちの、選手寿命を縮めたり壊したりしてはならない、と切に思う。
そういう危険性を取り除き、フィギュアスケート的な表現をさらに発展させるためにも、太田由希奈選手のように大きな才能をもった人間が、さらに研究研鑽を重ね、タラソワ・コーチをも上回る高いレベルとスケールをもった振付師やコーチ(指導者)に成長することを、私は心から期待するのである。(おわり)
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