05館長の朗読日記 243
館長の朗読日記 243 (戦後63年12月16日 新規)
○太田由希奈選手の現役引退に寄せて(その3)
2008年11月28日~30日にフィギュアスケートNHK杯が開催された。太田由希奈選手の現役引退という事実が念頭にあったせいか、特に女子シングルスの競技を関心をもって観た。
今回は日本人選手の活躍がめざましく、1位~3位を独占した。しかも、浅田真央選手(1位)、鈴木明子選手(2位)、中野友加里選手(3位)のフィギュアスケートは、タイプがそれぞれ鮮明に異なっていたので、その意味でも大変に興味深かった。もちろん、どのタイプが良いだの悪いだの、あるいは、どのタイプが上だの下だのという話ではない。金子みすずの詩ではないが、「みんなちがって、みんないい」のである。
中野友加里選手(3位)は、自分のスケート技術をコツコツと追究するタイプである。三回転半ジャンプなどのジャンプ技術、ドーナツスピンなどスピン技術など、技術的に卓越したものをいくつももっている。振り付けや舞踊的な要素は、あくまで、スケート技術の延長上というか、補完的なものと考えてやってきたと思う。近年は、表現力の強化を課題にしているそうだが、根が生真面目な性格なのだろう、表現力をも技術的にとらえ、そういう方向で苦心しているらしい様子が伺え、そのいささかトンチンカンな一所懸命さがまことに微笑ましい。日本人選手にはこのタイプが多く、かつての伊藤みどりや荒川静香、安藤美姫なども基本的にはこのタイプに入ると思われる。
鈴木明子選手(2位)は、摂食障害のために長いブランクがあったが、昨年あたりはほぼ完全に復活したようであった。ところが、今回のNHK杯の出来は、昨年をさらに大きく上回っていいた。私の眼には、出場した全選手の中でもっとも光り輝いているように見えた。ショート「ラ・カンパネラ」における気品ある女性の美的表現、フリー「黒い瞳」におけるコケティッシュな女性の美的表現、エキシビジョン「リベル・タンゴ」におけるダンスに心身ともに打ち込み自己陶酔する女性の美的表現、それぞれが実にすばらしかった。鈴木明子選手は、フィギュアスケートを通して、人間(の内面)そのものを美的に表現することを追究しているのであろう。氷上を滑走するというフィギュアスケートならではの特性も、良く研究し、表現的に良く活用しているようである。イリーナ・スルツカヤ(ロシア)やサーシャ・コーエン(アメリカ)やキム・ヨナの演技にも、これらの側面が多分に伺えるが、この側面に関しては鈴木明子選手の今回の演技の方が数段上回っているように思われた。
浅田真央選手(1位)は、高いスケート技術を基に、さまざまなドラマの主人公を演じることを、主に追究してきたように思われる。それに加えて、音楽の楽想を想像・創造的にイメージして、それをフィギュアスケートを通して表現する、という太田由希奈選手と同様の方向をも追究しているようである。
今季のフリー「仮面舞踏会」に私が瞠目させられたのは、ドラマの主人公を演じる表現と、音楽の楽想を想像・創造的な表現とが、高いレベルで統一されていたからである。
さらに、重要なことは、その結果、大勢の貴族たちが仮面舞踏会で踊り狂っている場面全体をリンク上に表現できていたことである。これは、タラソア・コーチの振付と指導に負うところが大きいのであろうが、爛熟した貴族社会において催された一夜の仮面舞踏会、そこで踊り狂っている若き貴婦人、浅田真央選手はその貴婦人の踊りをフィギュアスケート的に表現しつつ、実は貴婦人を含む仮面舞踏会の場面全体、いや、当時の爛熟した貴族社会の世相総体をも表現し得ていたように思われた。
こういう全体的な表現を、私は今までフィギュアスケートの場で観たことがない。こういう振付と指導をしたタラソア・コーチを、今回、私は大いに見直さざるを得なかった。もちろん、それを懸命に演じた浅田真央選手も。
フィギュアスケートの、しかもシングルで、こういう表現もできるのか。このことに、私は大いに驚き、フィギュアスケートのもつ可能性の大きさ、フィギュアスケートの振付と指導のもつ可能性の大きさに改めて気づかされたのである。(つづく)
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