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06館長の朗読指導メモ 28

館長の朗読指導メモ 28   (戦後64年7月02日)

蜷川幸雄演出『コリオレイナス』の録画放映を観て
                   東 百道


 テレビで、シェークスピア原作・蜷川幸雄演出の『コリオレイナス』の録画放映を観たことがある。
 舞台全面に幅の広い(かなり高い)階段を設定し、その舞台設定で始めから最後まで押し通す場面造形、その代わり鏡の効果を持たせた簾のような幕を多用して場面転換を鮮やかに行なうなど、舞台上における視覚的な工夫がさまざまになされていた。これらは奇抜で斬新なアイデアであり、さすが蜷川幸雄だと感心させられた。
 しかし、役者たちのセリフ表現には、まったく感心できなかった。まるで機関銃を速射するような猛烈なしゃべり方で、肝心な「間とメリハリ」がまったく取れていなかった。このセリフ表現は、まさに典型的な日本の新劇系の悪しき伝統をただ踏襲しているだけのものである。
 役者は必死になって、自分に与えられたセリフを早口でまくし立てる。口だけを猛烈にパクパクと動かしているため、その他の役者の表情や身振りの演技が極端に制約されてしまっていた。結果として、観客は、役者の独りよがりで観客不在のセリフ表現だけを、延々と聞かされる羽目になる。
 朗読の場合が典型的なのだが、下手な朗読表現を延々と聴かされるのは、聴き手にとってはまさに拷問である。出演者の中に白石加代子の名前があったので、彼女のセリフ表現にはかなり期待していた。しかし、残念ながら、この舞台に限っては、他の役者とほとんど変わらないセリフ表現であり、せっかくの彼女本来の持ち味が消滅していた(少なくとも、私が観ていたところまでは)。
 全体に、役者のセリフが観客の心に響いてこない。私はだんだんイライラしてきて、出だしには斬新に見えた舞台設定や場面転換の方も、何回も繰り返されるうちに鼻につくようになってしまった。やはり、演劇の演技の中心となり、その良し悪しを決定づけるのはセリフ表現なのである(演劇に込められた思想や論理の水準については敢えて記さない)。
 あとはセリフ表現の欠点だけが耳につくだけになってきたので、ついに耐えきれずに途中で観るのをやめてしまった。蜷川幸雄の演出が、海外で評判が良いのは、このセリフ表現の欠陥が外国人には分からないからではないだろうか。もっぱら、舞台上における視覚的な奇抜さや斬新さが評価されているのではないだろうか。なにせ、海外の観客は、日本語が理解できないが、舞台上の色々な仕掛けは理解できるからな、などと蜷川幸雄にはかなり失礼なことまでいろいろと考えてしまった。
 演出者や出演者その他の舞台関係者が、良い演劇を造り上げようと、皆一所懸命なのはよく分かるのだが、それだけに惜しい気がする。日本の新劇系の人たちは、舞台におけるセリフ表現について、何か根本的に誤った観念や因習にとらわれているのではないか。私には、そのように思われてならない。

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