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05館長の朗読日記 430

館長の朗読日記 430   (戦後65年02月21日 新規)

今年の風邪は本当にひつっこい!!

 私の風邪は大分良くなってきたが、まだ完全に治りきったというところまでは行っていない。普通の場合は、治った場合にはスッキリと風邪の気が抜け切ったという感じがするのだが、今回はまだまだそうなっていない。今年の風邪は本当にひつっこい。

○八千代「花ことば」の立ち稽古

 一昨日(2月19日)の午後1時00分から午後8時30分まで、八千代朗読サークル「花ことば」の朗読レッスンを行なった。今回は、3月に開催する朗読発表会『日本婦道記』(山本周五郎原作)のレッスンの7回目。全体を通しでやる立ち稽古である。
 今回の台本は短編集『日本婦道記』から2作を選んで、2部構成とした。第1部が「糸車」、第2部が「墨丸」である。第1部、第2部ともに、全員の出番を2回づつとした。
 「糸車」と「墨丸」は、両方とも良い作品であるが、それだけに有名でもある。今回のように、完全ノーカットでやる例は少ないとは思うが、短くカットしたものは他の朗読会でも盛んに取り上げられている。
 それだけに、会員の皆さんには、作品の内容の良さに頼らずに、自分たちの朗読表現によって、他の朗読会で聴いた以上に豊かで深い感動を、観客に味わっていただくよう努力して欲しいと思っている。
 今回も読み継ぐ形式の朗読だが、立ち稽古の一回目は、一人一人が読み終わるごとに私からダメ出しとコメントをしていった。これまでのレッスンに比べたらかなり良くなっていたが、まだまだ修正すべき点が多々あった。今回は良い機会だから、かなり「丁寧」にダメ出しとコメントをしていった。
 私が「丁寧」にやるということは、やられる方からすると「厳しい」あるいは「ひつっこい」ということにもなる。
 しかも、私からダメ出しやコメントされても、自分の朗読を直ぐ修正できる場合と、なかなか修正できない場合がある。
 なかなか修正できない場合には、私が「丁寧」やればやるほど、やられる方はパニックになってしまう場合がある。そして、一旦パニックになると、ますます修正がむずかしくなってしまう。
 それが分かっているから、通常は、そのはるか手前の線で中断してしまうのだが(そうでもないか)、何しろ今回は意識してかなり「丁寧」にやったものだから、何回かその線を踏み越えてしまった可能性がある。
 幾分、気の毒に思わないではなかったが、まあ、これまでの5年間のツケが回ってきたと観念してもらって、今回はこの「丁寧」なダメ出しとコメントをしっかりと体験してもらったわけである。
 自分で記すのも何だけれども、私の「丁寧」なダメ出しとコメントは、ものすごく内容が豊富でレベルが高い。したがって、私の「丁寧」なダメ出しとコメントを受ける側にとっては、本来は、とても有益なはずなのである。それを有益とするか、それとも「猫に小判」や「馬に念仏」あるいは「馬耳東風」とするかは、まさにその人次第ということになる。
 それを一通り終わってから、最後に、再度、全体を通しでやってもらった。残念ながら、途中で時間が足りなくなったので、第1部全体と第2部「墨丸」の前半までしかできなかった。
 このときの朗読は、私が「丁寧」にダメ出しやコメントをした部分の、半分くらいは修正できていたようであった。逆に言えば、半分くらいは修正できていなかったことになる。
 次の舞台リハーサルは、午後だけに短縮することになったので、時間が必ずしも十分ではない。そこで、私からの「丁寧」なダメ出しやコメントはなしにして、今回はできなかった全体の通し読みを優先的にやろうと考えている。
 バック音楽(BGM)と朗読の相性は、まあまあであった。本来、一般の文学作品の場合には、バック音楽(BGM)はまったく使わないか、あるいは使う場合でも控えめに使うべきだと思っている。主役はあくまで朗読表現であって、バック音楽(BGM)は脇役に過ぎないからである。したがって、相性がまあまあならば、それで十分だと考えている。

○八千代「こちの会」の朗読レッスン

 昨日(2月20日)の午後2時00分から、八千代朗読サークル「こちの会」の朗読レッスンを行なった。今回のレッスンは、朗読ステップ4の15回目。朗読発表会向けの山本真理子原作『広島の姉妹』の3回目である。
 今回も、前回と同様、欠席者が4人いた。前回、風邪をひいて欠席した会員は、今回は皆出席していた。この間、私も風邪をひき込んでしまったが、何とか持ち直すことができた。したがって、風邪の場合は、あまり問題とはならない。
 しかし、今回の欠席者の中には、当人あるいは肉親が入院する事態になった会員がいる。まだ、不確定な部分は残っているが、残念だが、読み継ぎの分担を一部組み替える必要が出てきた。
 朗読発表会の台本『広島の姉妹』は2部構成である。今回からは、練習の第2クールに入る。今回は、その第1部を一人づつ朗読してもらっては、その都度、私からダメ出しやコメントをしていった。今回は、欠席者の分担部分を抜かして、各自の分担部分だけをかなり「丁寧」にダメ出し&コメントしていった。
 今回は、読み手である会員の皆さんの視点がかなり統一されてきて、全体的な一体感が出てきたように思われた。また、作品世界の緊迫感や切迫感や恐怖感も多少は出てきたように思われた。しかし、まだまだ聴き手(観客)の胸に響くような朗読表現にはなっていない。
 緊迫感や切迫感や恐怖感を含みながら、聴き手(観客)の胸に響くような朗読表現をするためには、高く(上に)出る語り口で朗読することが必要不可欠である。
 この高く(上に)出る語り口を身につける方法を説明する中で、今回は、朗読的な耳を鍛える話しをした。きっかけは、高く(上に)出る語り口がなかなかできなかった会員が、徐々にそれが出来るようになってきたものの、まだまだ、出来たり出来なかったりの不安定状態にあることを指摘したことだった。
 その会員は、自分では常に高く(上に)出ているつもりだと言うのである。つまり、自分の耳では自分の語り口が高く(上に)出ているように聴こえているという。念のためと思って、その点をさらに「丁寧」に訊いてみると、実は、自分の語り口が高く(上に)出ているのか否かを、聴き分ける耳が、まだ出来ていないということのようなのである。
 さらに「丁寧」に、この点を確認してみると、他の会員の語り口については、高く(上に)出ているか否かを、かなり的確に聴き分けることができるという。つまり、この会員の耳は、他人の語り口についてはある程度聴き分けられるけれども、自分の語り口についてはまだよく聴き分けられない、というレベルのようなのである。
 この段階は、誰もが一度は通る道である。そして、この段階はかなり長く続く。
 しかし、この段階にとどまっている限り、自分の語り口を完全には改善できない。当然のことだが、朗読のレベルを向上させるには、先ず、自分の耳のレベルを向上させる必要があるのである。
 耳のレベルは、大雑把に言って、次の三段階をたどって向上していく。
 第一段階は、他人の朗読も自分の朗読も、高く(上に)出ているか否かを含めた「語り口」についてほとんどまったく聴き分けることができないレベル。
 第二段階は、他人の朗読(語り口)は聴き分けることができるが、自分の朗読(語り口)については聴き分けることができないレベル。
 第三段階は、他人の朗読(語り口)も自分の朗読(語り口)も聴き分けることができるレベル。
 そして、第二段階を抜け出して第三段階に進むには、やはり録音装置のお世話になる必要があるのである。くわしいことは省略するが、今回は、そういう話しをした。

○千葉「風」の朗読レッスン

 昨日(2月20日)の午後5時30分から、千葉朗読サークル「風」の朗読レッスンを行なった。今回は、いつも使用している会場が使えないので、千葉「わかば」のレッスンに利用している会場を使用した。
 今回は、朗読ステップ6の6回目、レッスン台本・宮澤賢治原作『セロ弾きのゴーシュ』の6回目。この台本の仕上げの通し読みをやった。
 会員の皆さんの通し読みを聴いていて、先ず驚いたのは、かなり着実に全員の朗読レベルが上がっていることだった。特に、従来、高く(上に)出るのが不得意だった会員、あるいは、心情表現が十分でなかった会員が、かなり自分の朗読レベルを上げて、そういう各自の不得意さや不十分さを克服しつつあった。これはとても素晴らしいことだと思った。
 朗読ステップ6は、聴き手の立場から自分の朗読をチェックし、見直す段階である。そこで、一人ひとりの朗読を録音しながら通し読みをやってもらい、その直後に一人分づつ再生し、それを全員で聴き、全員に一人づつ批評してもらった。さらに、最後にその部分を朗読した当人の自己批評をしてもらった。そういうことを全員について行なったから、全体ではかなり時間がかかってしまった。
 千葉朗読サークル「風」の会員は、皆さん、とても自己表現が上手であり、かつまた、お互いに言うべきことを遠慮せず言う物怖じしないタイプの方が多い。したがって、直接的表現か間接的表現かの違いはあっても、結局は、お互いにかなり本音の意見をぶつけあっていた。
 しかも、その本音的な相互批評は、内容的にかなり鋭く的確であり、それだけにものすごくスリリングで面白かった。会員の皆さんも、お互いに、そのスリルを楽しんでいたようである。
 この場でも、私は耳のレベルを上げる必要性についてお話しした。そして、このグループには、特に、もっと他人の話しをキチンと正確に聴く耳も鍛える必要があることも話した。また、サザエさん的な、飲み込みの半助的な聴き方ではいけないことを力説した。
 ただし、会場の時間が残り少なかったので、必ずしも十分な話しができなかった。次回に、もう少し「丁寧」に話しをするつもりである。
 このグループは、次回からいよいよ山本周五郎原作「鼓くらべ」の台本に入る。この台本は、朗読ステップ1~6全体を通して、最後の共通レッスン台本である。また、内容的にも、芸術とはいかにあるべきか、ということについて、山本周五郎が自説を展開している重いものである。その内容についての私の解説を、キチンと正確に聴いてもらう必要がある。その私の解説を、サザエさん的な飲み込みの半助的な聴き方をされてはかなわない。その点について、十分に注意を促す必要がある。
 その意味でも、次回は、まず、聴く耳のレベルを上げる話(自分の耳を鍛える話)から入ろうと思っている。しかし、会員の皆さんは、果たして、そういう話を聴く耳があるかな?

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