« 05館長の朗読日記 458   | トップページ | 特別なお知らせ 54 »

05館長の朗読日記 459

館長の朗読日記 459   (戦後65年04月25日 新規)

○八千代「新・みちの会」の朗読レッスン

 昨日(4月24日)の午後1時30分から、八千代朗読サークル「新・みちの会」の朗読レッスンを行なった。
 今回は第2期・朗読ステップ1の12回目、自由課題の台本のレッスンの6回目である。新規加入の会員は共通仮題・宮沢賢治原作「やまなし」の6回目となる。
 今回で、これらの台本についての通常のレッスンは終わりである。次回のレッスンは、本来なら、5月8日(土)に行なうところであるが、5月10日(月)に開催される「小さな朗読館・やちよ」に代替させることにしている。
 今回のレッスンは、先ず新規加入の会員の共通台本「やまなし」のレッスンを行ない、次に5月の「小さな朗読館・やちよ」に出演する会員の自由課題(上演作品)のレッスンを行ない、最後に5月の「小さな朗読館・やちよ」には出演しない会員の自由課題のレッスンを行なった。

○朗読レッスンの第1期と第2期の内容について

 私の朗読レッスンの第1期と第2期の内容についての、最近の私の考え方を記しておく。
 私の朗読レッスンは大きくとらえると2本立てで進行している。一つは、語り口の実力を向上させること。二つは、台本(文学作品)の作品世界を朗読する際にたどるプロセス、認識~表現~認識の実力を向上させること。
 一つ目の、語り口の実力を向上させることについては、次のように考えている。
 第1期では、先ず「読むような語り口」から「語るような語り口」への向上を目指す。この場合「読むような語り口」というのは、少々矛盾した言い方だが、ひと口に言えば、ただ文字言語を読んでいるような音声言語で朗読している場合の「語り口」のことを指している。
 第2期では、この「語るような語り口」で聴き手に語りかける朗読表現を目指す。これも、少々した言い方である。しかし、仕方がない。最近になって気がついたことなのだが、せっかく「語るような語り口」ができるようになったのに、その「語り口」で読むような朗読表現をしている段階があるのである。第1期の間に、大部分のレッスン生は「語るような語り口」ができるようになるのだが、そのレッスン生のかなりの部分が、その「語るような語り口」で台本を読むような朗読表現をしてしまっているのである。それを「語るような語り口」で聴き手に語りかけるような朗読表現めで向上させなければならない。
 二つ目の、台本(文学作品)の作品世界を朗読する際にたどるプロセス、認識~表現~認識の実力を向上させることについては、次のように考えている。
 第1期では、朗読ステップ1~6の基本的な内容を理解すること(学びとること)を目指す。
 第2期では、朗読ステップ1~6の基本的な内容を修得すること(身につけること)を目指す。

○「語るような語り口」を身につけることが大切

 朗読には、大まかに分けて、読むような朗読と語るような朗読とがある。これは朗読の表現のタイプの違いであって、どちらが良くてどちらが悪いとか、どちらが上でどちらが下とか、そういう違いではない。いわば、両者は対等の関係にある。朗読者の朗読表現の実力、や台本(文学作品)によって良くもなれば、悪くもなるのである。
 しかし、朗読の表現力という点で考えると、つまり「読むような語り口」と「語るような語り口」という点から考える、この両者には雲泥の開きがある。つまり、朗読の表現力という点では「読むような語り口」より「語るような語り口」の方が、はるかに上なのである。
 現に「読むような語り口」でしか朗読できない朗読者は、読むような朗読はできるが、語るような朗読は絶対にできない。しかし「語るような語り口」ができる朗読者は、語るような朗読ができるだけでなく、読むような朗読も十分にできるのである。しかも、読むような朗読が単にできるだけでなく、その読むような朗読はきわめて味わい深いものになるのである。
 したがって、少なくとも「感動をつくる朗読」を目指している私のレッスン生の皆さんは、一つ本気になって、この「語るような語り口」を修得する(身につける)ように頑張って欲しいものである。

|

« 05館長の朗読日記 458   | トップページ | 特別なお知らせ 54 »

05館長の朗読日記(戦後65年/西暦2010年)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 05館長の朗読日記 458   | トップページ | 特別なお知らせ 54 »