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館長の朗読指導メモ 49/他人への論評は逆に当人の足元を露(あらわ)にする【前半】――渡辺知明さんの「論評」を論評する――

館長の朗読指導メモ 49   (戦後68年07月08日)



他人への論評は逆に当人の足元を露(あらわ)にする【前半

――渡辺知明さんの「論評」を論評する――

 
       

                                      東 百道


○世間的に朗読の専門家とみなされている人からの「論評」

 私は日本の朗読界とはほとんど無縁の人間である。また私は朗読的に全く無名でもあったから、世間的に朗読の専門家とみなされている人からの論評を受けることもほとんど無かった。しかし、拙著『朗読の理論』や朗読漫画『花もて語れ』の影響だろうか、徐々にそういう人が私の朗読を聴きに来たり、論評をするようになった。

 6月28日に上演した「東百道・講演と朗読の会〜感動をつくる朗読をめざして〜」には、以前から少し交流のあった渡辺知明さんが聴きに来ていた。朗読界と無縁だったから、そういう世界の人間に招待券を送る習慣もほとんど無かった。渡辺知明さんにも招待状を送っていないから、わざわざ自費で聴きに来てくれたのである。

 その後、渡辺知明さんは自分のブログに、私の講演と朗読に対する「論評」を書いている。それを読んだ私は、つくづく、他人の朗読への論評は逆に当人の朗読の足元を露(あらわ)にする、と思った。その内容は、私の講演や朗読を論証抜きに全否定しているのだから、私も率直にその「論評」に対して論評することにする。


○まず渡辺知明さんの「論評」の全文を紹介する

 その「論評」は、渡辺知明さんが2013年6月30日付けでブログ「Blogことば・言葉・コトバ」に掲載した下記のような短い文章である。歴然としているのは、論評の相手に対する敬意が全く感じられないことだ。論評の根拠を示すという最低限のエチケットさえ無い。従って、論評としては問題だらけの内容なのである。

 渡辺知明さんの「論評」の全文:「東百道氏の講演と朗読を聴いた。作品を作者の言葉と解釈して、黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ。作者の伝記からの作品解釈に重点がある。実際の朗読にも理論に欠ける点がそのまま出た。問題点を列挙する。姿勢、発声、アクセント、イントネーション、プロミネンス、語り構造、語り口と感情」

 論評とも言えない文章なので、私はこの文章を「論評」と表記する。ネットの検索中に偶々この「論評」を見つけた私は、一読して、渡辺知明さん自身の問題点、つまり、他人の言語表現の《内容的な意味》を読み取れないという問題点、当人が提唱するだけで全く未検証の理論を尺度にするという問題点を読み取ることができた。


○まず渡辺知明さんの「論評」の前半部分を論評する(1)

 渡辺知明さんの「論評」の前半部分:
「東百道氏の講演と朗読を聴いた。作品を作者の言葉と解釈して、黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ。作者の伝記からの作品解釈に重点がある」

 渡辺知明さんの「作品を作者の言葉と解釈して」という「解釈」はまあよいとして、その次に「黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ」というように私の朗読理論を「解釈」している。渡辺知明さんは、拙著『朗読の理論』や先日の私の講演の論理展開のどこから、私の朗読理論をこのように「解釈」したのだろうか?

 渡辺知明さんは、これを受けた「論評」の後半部分において「問題点を列挙する。姿勢、発声、アクセント、イントネーション、プロミネンス、語り構造、語り口と感情」と続けているから、前半部分の「黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ」という趣旨は、後半に「列挙」した諸点が抜けているということなのであろう。


○まず渡辺知明さんの「論評」の前半部分を論評する(2)

 渡辺知明さんは拙著『朗読の理論』を読んだそうだが、たとえば第二章第三節「文字言語を音声言語で再表現するということ」をどう読んだのだろうか? また、先日の講演で私が「音声言語を表現する技」の基本として「人間が現実生活の場で駆使している自分の言葉で『語りかける語り口』」を強調したのをどう聴いたのか?

 これらを読み、かつ、聴いて、なおかつ私の理論を「黙読でのイメージを朗読に直結させる理論」というようにしか理解できないのなら、渡辺知明さんは他人の言語に表現された論理展開の《内容的な意味》を読み取ることがよほど苦手か、または、他人の論理展開を意図的に歪曲して紹介しているか、のどちらかであろうと思う。

 渡辺知明さんが、他人の論理展開を意図的に歪曲して紹介している、とは思いたくない。従って、私は、渡辺知明さんは他人の言語に表現された論理展開の《内容的な意味》を読み取ることが苦手な人だと判断している。渡辺知明さんは、言語表現の《語義的な意味》は読めるが、肝心の《内容的な意味》を読むのが苦手なようだ。


○まず渡辺知明さんの「論評」の前半部分を論評する(3)

 過日、渡辺知明さんからご当人のブログに書かれた「朗読と文のイントネーションの原理」を紹介され、これについての論評を促されたことがあった。そこで、私のこのブログの「館長の『朗読の理論』」欄に7回にわたって、私としてはかなり親切かつ丁寧に論評したことがある(「館長の『朗読の理論』」8〜14)。

「館長の『朗読の理論』」 8(http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2009/10/08-7501.html

「館長の『朗読の理論』」14(http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2009/10/08-0dd8.html

 この「朗読と文のイントネーションの原理」においても、私が従来から主張していた「『高く(上に)出る』ような語り口」の問題を、渡辺知明さんはイントネーションの問題に短絡させていた。しかも、私の「高く(上に)出るような語り口」を、ご当人が提唱する「下り階段」のイントネーションと同一視する誤読をしていた。

 渡辺知明さんが提唱している「下り階段」のイントネーションとは、単純化していうと、初めは上げるが徐々に下げていく、というものである。私が提唱する「『高く(上に)出る』ような語り口」はそれと全く異なる。それは、私がこの問題をくわしく記した「館長の朗読指導メモ」10〜15を読めば一目瞭然のはずである。

「館長の朗読指導メモ」10(http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2008/07/06_2b06.html
「館長の朗読指導メモ」15(http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2008/08/06_f2f4.html


○まず渡辺知明さんの「論評」の前半部分を論評する(4)

 この一事からも、渡辺知明さんが他人の言語に表現された論理展開の《内容的な意味》を読み取ることが苦手なことが分かる。とまれ、そのときの私は、かなり丁寧に、渡辺知明さんが提唱する「下り階段」のイントネーションが理論的にも現実的にも成り立たないことを論証しておいた(「館長の『朗読の理論』」8〜14)。

 しかし、この私の論評に対し、渡辺知明さんからは理論的な応答が全くなかった。渡辺知明さんの書いた「朗読と文のイントネーションの原理」を私に紹介し、それについての論評を促しておきながら、それに対する私の論評に対して理論的な応答をしないということは、どういうことだろうか。これは単に礼を欠くだけではない。

 一般的に、こういう行為は、理論的な回答ができない、つまり、理論的な根拠をもって反論できない、というように受け取られるべきものである。少なくとも、自分の理論が学問的であると考えるならば、それを公開する場合には社会的な責任を自覚すべきであって、都合が悪くなると知らん顔してやり過ごすのは、無責任となる。


○まず渡辺知明さんの「論評」の前半部分を論評する(5)

 また、その「朗読と文のイントネーションの原理」において、渡辺知明さんが例文として提示していた「たっぷりの/水を/与えた」を使って、言語表現における《内容的な意味》の読み方についても、私はかなり丁寧に説明しておいた。渡辺知明さんの読み方が文法的なレベル(=《語義的な意味》)に止まっていたからである。
「館長の「朗読の理論」13(http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2009/10/08-348e.html

 渡辺知明さんの言語表現の読み方が文法的なレベル(=《語義的な意味》)に止まっているのは、必ずしも個人的な資質の問題ではないと思う。渡辺知明さんが理論的な土台にしている、大久保忠利さんの言語論に根ざしている問題ではないかと思われる。この機会に、渡辺知明さんには是非その点に気づいて欲しいと思っている。

 三浦つとむ言語論と大久保忠利言語論の差は、言語の背後に認識の過程を読み取ることができているか否か、という点にある。言語の背後に認識の過程を読み取ることは、言語表現の《内容的な意味》を読み取ることに通じている。そこが欠けていると、言語表現の読み取りは文法的なレベル(=《語義的な意味》)に止まってしまう。


○まず渡辺知明さんの「論評」の前半部分を論評する(6)

 また、私の講演における太宰治原作「黄金風景」の解読を、渡辺知明さんは「作者の伝記からの作品解釈に重点がある」と概括している。こういうところにも、渡辺知明さんが他人の言語表現における論理展開を読み取ることが苦手だという問題点が露(あらわ)になっている。私の講演資料の当該部分の小見出しを以下に記そう。

【文学作品の朗読的な読み方】〜〜「文字言語を認識する技」を求めて〜〜
 1.文学作品の朗読的な読み方のポイント
 2.実際の《解読》例 〜〜太宰治原作「黄金風景」を題材にして〜〜
  ○太宰治原作「黄金風景」の作品構成
  ○太宰治原作「黄金風景」における主な二つの謎
  ○パート1の作品世界
  ○パート2の作品世界 「一昨年の」の太宰治の窮状を自分事(わがこと)としてイメージ(太宰治の年譜から当時の太宰治の窮状を確認
  ○パート3の作品世界 巡査の言葉と太宰治の受け取り方の喰い違い
  ○パート4の作品世界 太宰治の心情と実際に発した言葉との食い違い
  ○パート5の作品世界
 3.太宰治の思想の根本
  ○「燈籠」の思想:1937年10月(28歳/「黄金風景」世界の直後)
  ○「一問一答」の思想:1942年4月(33歳/日米開戦の翌年)
  ○「かくめい」の思想:1948年1月(39歳/この年の6月に自殺)

 渡辺知明さんの「作者の伝記からの作品解釈」という言い方は誤解を招きやすい。しかし、敢えてその言い方を借りるなら、私が「作者の伝記からの作品解釈」をしたのは、上記の2項の中の「パート2の作品世界」の部分のみである。これを「作者の伝記からの作品解釈に重点がある」と概括するのは、渡辺知明さんだけだろう。

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コメント

丁寧な反論ありがとうございます。
これから丁寧に読ませていただきます。
Twitterに下記の記事を書きました。

 6月28日(金)東百道氏の講演と朗読についてTwitterで発言した。それに丁寧な批評を書いて下さった。以前の論争点まで示しているので改めて朗読について考えたい。当日の録音を聴き直したいので「黄金風景」「高瀬舟」の公開を期待している。http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2013/07/post-866c.html

投稿: 渡辺知明 | 2013年7月 9日 (火) 20時07分

渡辺知明様

 これはまだ前半です。後半も近々載せますから、じっくりとお読み下さい。

 「以前の論争点」とありますが、以前のは論争になっていません。論争とは、内容的な応答があって初めて成り立つものです。以前のは、渡辺さんからは問題提起だけで、それに対する私の批判に対しての内容的な反論がないまま、一方通行の尻切れ蜻蛉になっています。

 3日前に「小さな朗読館 in ソルシエール」でトークと朗読をした際、観客の1人から見事な感想をいただきました。ほめられたからではなく、着眼点とセンスが素晴らしいから、見事というのです。その感想の要旨も近々に載せますから、こちらもお読み下さい。世の中には、こういう優れた聴き手がいるから楽しいのです。

投稿: 「日本朗読館」館長 | 2013年7月 9日 (火) 23時27分

さっそくのご返事ありがとうございます。
では、後半を読ませて頂いてから考えます。

今後のお話しのためにおうかがいしたいのですが、拙著『朗読の教科書』(2012パンローリング社)はお読みでしょうか。

前回のお話しがたいへん参考になって、それに答えるつもりで書かれています。多くの疑問が解決すると思います。

投稿: 渡辺知明 | 2013年7月10日 (水) 07時37分

渡辺知明様

 渡辺知明さんは、本当の意味での学問的な論文や論争や応答に、あまり馴染みがないようですから、敢えて記します。

①相手との学問的な論争あるいは応答をしている過程で、相手に応えるための表現場所を次に書く自分の著作に変えた場合には、そう決意した時点で相手にその旨を連絡するべきです。

②その次自著を執筆する際に、相手の「お話しがたいへん参考」になったということが本当なら、その自著の中でその旨を何らかの形で明記するべきです(相手の名前を明記するのはもちろん)。

③その自著を相手に贈呈するべきなのは当然です。

 学問的な論文執筆や論争や応答は、学問的な真理を求めて行なうものであり、個人的な利得や権威(権力)を求めて行なうものではありません。したがって、論争相手にも自分の学問的成果を無償で公開します。その代わり、その学問的成果に貢献した功績者には、その貢献内容や名前を明記することによって学問的に報いるのです。こういうことを理解し実践できない人間に、学問的な論文執筆や論争や応答を行なう資格はありません。

 渡辺知明さんが、今後も相手との学問的な論争や応答を真に求めるなら、それらの上に、相手がその自著を読んでいようがいまいが、自著において、相手の「前回のお話し」にどう「答え」たのかということを、改めて学問的に丁寧に記し、相手の批判に公然と応えるべきです。

 最後に、渡辺知明さんの言葉遣いについて、敢えて蛇足をつけ加えます。この間、私は渡辺知明さんの理論に対して別に「疑問」があったわけではありません。ただ、学問的な「問題」を見い出し、指摘しているに過ぎません。つまり、渡辺知明さんの理論について、ある意味では、渡辺知明さん以上に良く分かった上で「批判」しているのです。したがって、渡辺知明さんの本を読んで「多くの疑問が解決」するというようなことでは全くないのです。

投稿: 「日本朗読館」館長 | 2013年7月10日 (水) 23時41分

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