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館長の朗読指導メモ 50/他人への論評は逆に当人の足元を露(あらわ)にする【後半】ーー渡辺知明さんの「論評」を論評するーー

館長の朗読指導メモ 50   (戦後68年07月10日)



他人への論評は逆に当人の足元を露(あらわ)にする【後半】
       ーー渡辺知明さんの「論評」を論評するーー

                                      東 百道

○次に渡辺知明さんの「論評」の後半部分を論評する(1)

 渡辺知明さんの「論評」の後半部分:
「実際の朗読にも理論に欠ける点がそのまま出た。問題点を列挙する。姿勢、発声、アクセント、イントネーション、プロミネンス、語り構造、語り口と感情」

 渡辺知明さんが指摘した「問題点」である「姿勢、発声、アクセント、イントネーション、プロミネンス、語り構造、語り口と感情」のことを、大まかに「語り口」という言葉で総称することにする(まあ「姿勢」は少々違うが)。渡辺知明さんは、その「語り口」において私の朗読は問題があると主張しているわけである。

 私は、一貫して、朗読における音声言語表現の基本は、人間が現実生活の場で駆使している自分の言葉で「語りかける語り口」であると主張してきた。この「語り口」をここでは「自然な語り口」と略称する。私はこれまで朗読レッスンを通して、多数の朗読サークルの会員と共に、この「自然な語り口」を研究し、修練して来た。


○次に渡辺知明さんの「論評」の後半部分を論評する(2)

 その結果、私(たち)の朗読の「語り口」は、かなり、この「自然な語り口」に近づいてきている、と自負している。私の朗読の表現レベルや芸術性などの問題はひとまず置くとして、少なくとも、この「自然な語り口」に関しては、私の自負はそう見当違いではないと考えている。渡辺知明さんに、この点で異論があるだろうか?

 もし、私の朗読が「自然な語り口」に近づいているとするなら、そして、渡辺知明さんが私の「語り口」に問題があると主張するならば、そういう渡辺知明さんが尺度とするところの渡辺知明さん自身が提唱している「語り口」の方が「自然の語り口」から外れていることになる。渡辺知明さんに、この点で異論があるだろうか?

 もちろん、朗読における「語り口」が「自然の語り口」でなければならぬ、ということはない。現実に行なわれている「自然の語り口」より朗読的に素晴らしい「語り口」があれば、そういう「語り口」を創造&提唱することは素晴らしい試みであり、大きな業績(その言語を使用する民族全体に対する大きな貢献)とさえ言える。


○次に渡辺知明さんの「論評」の後半部分を論評する(3)

 問題は、渡辺知明さんが論評の尺度とし、渡辺知明さん自身が提唱している「語り口」が、果して、日本人が現実に駆使している「自然の語り口」を、朗読的に凌駕しているか否か、という一点にある。一般的には「語り口」の基軸はイントネーションと言える。果して渡辺知明さんが提唱するイントネーションはどうであろうか?

 このイントネーションについて、渡辺知明さんが提唱するのが、前回も触れた「下り階段」のイントネーションなのである。この「下り階段」のイントネーションについて、私のこのブログの「館長の『朗読の理論』」欄に7回にわたって親切かつ丁寧に論評した。これは、とても「自然の語り口」を凌駕するような代物ではない。

【「館長の『朗読の理論』」8〜14】
「館長の『朗読の理論』」 8(http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2009/10/08-7501.html
「館長の『朗読の理論』」14(http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2009/10/08-0dd8.html

 「館長の『朗読の理論』」8〜14で論証したように、渡辺知明さんが提唱している「下り階段」のイントネーションが良いというようなことは理論的にも現実的にも成り立たない。つまり、合理性も実用性もあまりないということである。まして、朗読的な表現においてこのイントネーションの方が良い、とはとても言えない。


○次に渡辺知明さんの「論評」の後半部分を論評する(4)

 もともと、渡辺知明さんが文法的なレベル(=《語義的な意味》)の段階で思いついたにすぎない「下り階段」のイントネーションなどが、日本民族の何万年にもわたる歴史の中で自然に練り上げた「自然の語り口」、それを1人1人の日本人が自分の生涯をかけて修練し修得した「自然の語り口」を、凌駕できるはずがない。

 念のために言っておくが、私は朗読の場で「自然の語り口」を凌駕する新しい「語り口」を創造する営為を否定しているのではない。ただ、それは極めて大変でむずかしい一大事業だと思っている。また、この一大事業が必ずしも実を結ぶとは限らないとも思っている。もしそういう事業に取り組むのなら、それ相応の覚悟が要る。

 そして、もし今後も渡辺知明さんがそういう事業に取り組み続けるならば、日本民族の何万年にもわたる歴史の中で自然に練り上げられた「自然の語り口」、ひいては現実の言語(文字言語と音声言語)を、もっともっと深く研究しなければならない。文法的なレベル(=《語義的な意味》)の思いつき位では歯が立たないと思う。


○次に渡辺知明さんの「論評」の後半部分を論評する(5)

 私は、渡辺知明さんとは異なり、朗読の場における「語り口」は、ここでいう「自然の語り口」が最適だと考えている。また、芸術的な朗読のための「語り口」としても、そのための必要十分な条件を十分に備えていると考えている。したがって、朗読の場における「自然の語り口」についてこれからも極めて行きたいと考えている。

 従って、そういう「自然の語り口」から外れた「語り口」を提唱している渡辺知明さんからは「問題点を列挙」されて当然だろうし、逆にそうでなければ我が意に反するのである。他方、渡辺知明さんは、他人の朗読を論評したり、他人の朗読を指導する場合に、尺度とする「語り口」が「自然の語り口」とは違う旨を断わるべきだ。

 少なくとも、渡辺知明さんの提唱している「語り口」が良いと、理論的にも現実的にもまだ全く検証されていないという事実は自覚・自省すべきである。また、朗読に真摯に取り組んでいる人間に対し、そういう理論的にも現実的にも未検証な「語り口」を尺度に検定等を行なって、無用なコンプレックスを抱かせるべきではない。


○蛇足ではあるが念のために(1)

 前回、渡辺知明さんの私に対する今回の論評には、相手に対する敬意が全く感じられない、と記した。この場合の「敬意」とは、心にもないお世辞や褒め言葉を使うとか、相手に取り入るための美辞麗句を並べるということではない。論評するからには、自分の見解の根拠を提示し、その正しい所以を論証する真摯さを示すこと、だ。

 当然、それにはそれなりの労力が要る。もしも、論評する相手が、その労力に値しないと思ったら、そんな相手は無視して、中途半端な論評などはしない方が良い。自分の見解の根拠を提示し、その正しい所以を論証する真摯な論評にせよ、単なる悪口としか読めない半端な「論評」にせよ、論評は論評者の足元を露にしてしまう。

 また、相手を真摯に論評しようと思ったら、相手や相手の仕事内容を紹介するときに正確を期すべきである。特に、相手の文章を引用するときには、正確であるように注意を払うべきだ。例えば、渡辺知明さんが2012年4月15日付けでブログ「Blogことば・言葉・コトバ」に拙著『朗読の理論』を次のように紹介している。


○蛇足ではあるが念のために(2)

 渡辺知明さんの「紹介文」の全文:「朗読の理論について書かれた書として、朗読漫画『花もて語れ』の助言者・東百道『朗読の理論』(2008)がある。硬い理論の書である。拙著『朗読の教科書』(2012)、『表現よみとは何か』(1995)と3冊を比較して読んでみると、朗読理論へのアプローチのさまざまな角度がわかるだろう」

 ここで、私のことを朗読漫画『花もて語れ』の「助言者」と紹介している。他方、朗読漫画『花もて語れ』の発行元・小学館は私を「(朗読協力・朗読原案)東百道」と表記し、共著者として扱ってくれている。「助言」と「朗読協力・朗読原案」「共著」が違うことや、どちらが重要かということは、誰の眼にも明らかだと思う。

 また、肝心な拙著『朗読の理論』の紹介の方は、ただ「硬い理論の書である」とだけ記してある。こういう紹介は、実は紹介ではない。では何なのか。誰の目にも明らかだろう。とまれ、こういう紹介の仕方は、紹介された人間や仕事や著作よりも、むしろ逆に、紹介した方の人間や仕事や著作の足元を露(あらわ)にするのである。

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06館長の朗読指導メモ」カテゴリの記事

コメント

後半、今、ざっと読みました。
ご紹介ありがとうございました。

わたしの論評は最初に Twitter に書きましたので、140文字の制約で書かれていることをご承知願います。説明が必要なことがあれば、追加としてどこかに書きましょう。

しかし、できるなら公開対話のようなことができたらありがたいと思っております。文章の投げ合いよりもお互いが学ぶ機会になるでしょう。朗読の文化の発展にもなります。

大前提として、拙著『朗読の教科書』(2012年3月刊。パンローリング社)が、わたしの論評の根拠です。お読みでないようですので、参考にされるようお願いします。Amazonのネット書店でも買えます。

わたしの「語り口」論は10通りの「「語り口」について『朗読の教科書』の第7章、また、イントネーション論は、同じく第4章文法入門でイントネーション論として詳しく書いています。これが説明になると思います。

投稿: 渡辺知明 | 2013年7月11日 (木) 07時58分

渡辺知明様

 「ざっと」ではなく、【前半】と合わせてじっくりとお読みください。

 渡辺知明さんが自分の「論評」を「140文字の制約」のある場所で書いたのは、渡辺知明さんの勝手です。それを、私に「承知願います」というのは、筋違いもはなはだしいところです。また、今さら「説明が必要なことがあれば」というのはどういうことでしょうか。私の今回の論評そのものが、渡辺知明さんの「説明が必要なこと」を説いていることが理解できないのでは困ります。渡辺知明さん自身が「140文字の制約」があったと弁明していること自体、表現が不足していたことを認めているからでしょう。かような渡辺知明さんの認識では、何を「承知願います」といっているのかますます意味不明です。

 今度は「公開対話」の提案ですか。そのための大前提として、渡辺知明さんが真摯な心で学問的な対話をする意志があることを示すべきです。
 今までの論争(?)と今回の論評においても、渡辺知明さんはただの1度も正面から真摯に学問的な内容の回答をしたことがないではありませんか。本当に「公開対話」をご希望ならば、先ず、文章で一連の論争(?)と今回の論評について、噛み合った学問的な内容を表現してみせてください。その結果、もし「公開対話」の「必要なことがあれば」「追加としてどこか」でやることも考えましょう。
 これまでの一連の論争(?)と今回の論評において、渡辺知明さんは確かに私にただ「文章」を「投げ」ただけのようですが、私は「文章」を通して理論と道理を渡辺知明さんに「投げ」てきたのです。
 その私の理論と道理に、渡辺知明さんはただの1度も正面から真摯に応えてこなかったように思います。
 文章は、いうまでもなく、読む(認識)のにも書く(表現)にも時間を十分にとることができますから、その気になれば、とても充実した内容の学問的な論争なり応答なりができる手段になるはずなのです。そういう文章においてさえ、正面から真摯に応えてこないような相手と、「公開対話」などという手段で学問的に有益な応答が期待できると私が考えると、渡辺知明さんは本気で思っているのでしょうか?

 まして、このような場合に、自分の「論評」の根拠として自分の本を上げ、それを読めというのは、いかがなものでしょうか。そもそもの論争(?)も、今回の論評も、どちらも仕掛けて来たのは渡辺知明さんの方です。仕掛けて来た当人が、その根拠が自分の本にあるというなら、まず論争(?)や論評における文章において、該当部分を要約して相手に示すべきでしょう。それが、こういう場合の、仕掛けて来た側のエチケットなのです。
 

投稿: 「日本朗読館」館長 | 2013年7月12日 (金) 00時34分

ご返事ありがとうございます。全体を4、5回ていねいに繰り返して読ませていただきました。

Twitterというのは「つぶやき」などというように、基本的には「感想」を書くものです。わたしは140字いっぱいで自分の感じたこと理解したことを書いています。しかし、もし感想から学ぼうとする人がいるならば、役に立つだろうとその根拠となる内容も書いています。

いつでも「それはどういうわけですか」とたずねる人がいれば、より詳しく説明するつもりもあります。しかし、わたしの感想について、東さんの「他人への論評は逆に当人の足元を露(あらわ)にする」という記事では、以前のことを持ち出して、わたしを責めてご自分の理論を語っているので、わたしは戸惑いました。

正直にいいます。以前のやりとりから考えて、何回やりとりしても意味がないと思うのです。わたしはお互いの考えが、その背景となる理論から理解できればいいと考えています。理論の違いはあって当然です。相手に自分の考えを押しつける気はありません。拙著『朗読の教科書』をお薦めしたのも理解する気があるならお読みくださいというつもりです。読むことを強制はしません。

わたしは東百道さんのお考えを理解したいので、『朗読の理論』は2012年3月に読んでいます。そして、東さんの朗読理論の基本は理解したつもりです。それで、今回、講演と実際の朗読を聞いたうえでTwitterに書いたのです。(下記に引用されたとおりです)

渡辺知明さんの「論評」の全文:「東百道氏の講演と朗読を聴いた。作品を作者の言葉と解釈して、黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ。作者の伝記からの作品解釈に重点がある。実際の朗読にも理論に欠ける点がそのまま出た。問題点を列挙する。姿勢、発声、アクセント、イントネーション、プロミネンス、語り構造、語り口と感情」

というわけで、Twitterの発言の説明を依頼されたつもりで、わたしのブログに内容を詳しく書くつもりです。ただし、その前に、以前のコメントにも書きましたが、あの日の朗読を聞き直したいので、録音を公開していただきたいと思います。とくに、Twitterの後半は朗読そのものについて感じたメモなので、聴き直しの必要があるのです。もう一度、聞ければ、問題点をより具体的に指摘できると思います。

わたしのTwitterの発言のテーマは、東さんの朗読の理論がそのまま朗読の実際にも実現されていると感じたという感想です。当日の資料は手元にありますので、「黄金風景」と「高瀬舟」の録音を聞かせてください。よろしくお願いいたします。

投稿: 渡辺知明 | 2013年7月12日 (金) 09時03分

 渡辺知明さんへの応答もこれで最後にしたいと思います。

 今回のコメントで渡辺知明さんは「全体を4、5回ていねいに繰り返して読ませていただきました」などとわざわざ記述していますが、本当に相手の文章を真摯に読んで応答しようと考えたら、まして、相手と学問的な内容の応答をしようと思ったら、5~10回は「ていねいに繰り返して読」むのが当たり前です。当然、私もそうしています。逆に、今回の渡辺知明さんの記述から、渡辺知明さんはいつも相手の文章を「ざっと読み」飛ばす程度で、自らの応答文を書き流しているのではないかと推察することも可能です。これまでの文章の内容からも、そのことを推察しないわけではなかったのですが。

 私からの応答を終えるに当たって、今回の渡辺知明さんから私への一連の応答を総括してみます。結局、私が言葉(理論と道理)を尽くして、渡辺知明さんの今回の「論評」の根拠や論証を示すように説いたにもかかわらず、渡辺知明さんは言を左右にするだけで、ついに何の根拠も論証も示そうとはしませんでした。どうやら、示そうにも示せなかったようですね。まあ、これは最初から予想していたことではありますが。

 渡辺知明さんの、言を左右にしてご当人の根拠や論証の提示を回避するやり方を、ちょっとまとめてみましょう。

 先ず、渡辺知明さんは「以前の論争点まで示しているので改めて朗読について考えたい。当日の録音を聴き直したいので『黄金風景』『高瀬舟』の公開を期待している」と弁じています。「以前の論争点まで示しているので改めて朗読について考えたい」ということと、「当日の録音を聴き直したい」という「期待」がどうして結びつくのか、論旨が全く不明です。

 次に「今後のお話しのためにおうかがいしたいのですが、拙著『朗読の教科書』(2012パンローリング社)はお読みでしょうか」という「おうかがい」があり、ついで、前回のイントネーションに関する私からの批判に「答えるつもりで書かれてい」るので、それを読めば「多くの疑問が解決すると思います」と続けている。要は、私が求めている根拠と論証は自著に書いてあるから、それを読め、と言っているわけです。

 それに対して、私が、こういう応答をするに当たって、自著に根拠と論証が書いてあるからそれを読めというのはおかしい。相手の講演や朗読に対して先に「論評」を仕掛けた渡辺知明さんの方が、率先して自著の該当するところを要約して相手に示すべきだ、とコメントしました。

 すると、渡辺知明さんからは、それに対する直答は全くなく、ただ、発端となった「論評」は「140文字の制約で書かれていることをご承知願います」という弁明にもならない言い抜けと、唐突にも私と渡辺知明さんとの「公開対話」の提案がなされただけでした。また、渡辺知明さんの「論評の根拠」は自著に書いてあるので、それを読むのが「大前提」だと、今度は自著を読むことを「大前提」という条件に吊り上げて、繰り返してきました。こうやって、前提条件を吊り上げることによって、あくまで、今回の応答の中で、ご当人の「論評」の根拠や論証を書くことを回避しようとしているわけです。

 それに対して、私は、こういう理論的な内容の応答は、文章で行なうのが最適であること、それすら満足にやろうとしないで、唐突に「公開対話」などを提案するのはおかしい、と応えました。そして、「論評の根拠」は自著に書いてあるからそれを読め、それが「大前提」であるなどというのは、論評を仕掛けてきた方のエチケットに反すること、必要なら、まずその自著の「該当部分を要約して相手に示すべき」だとも繰り返して書きました。

 今回、それに対して、渡辺知明さんは、「Twitterというのは『つぶやき』などというように、基本的には『感想』を書くもの」だが、それでもわざわざ「その根拠となる内容も書いてい」るなどと書いてきました。その「論評」には根拠も論証もないと主張している私に対して、です。どの部分が「その根拠となる内容」か、を明示することも全くなく、です。いったい、あの「論評」のどこにそんな「内容」があるのでしょうか? 全くどこにもありはしません。

 そして、一方では「より詳しく説明するつもりもあります」などと書きながら、他方では私が「以前のことを持ち出して、わたしを責めて」いるなどと、学問的な応答の場にふさわしくないことを書いています。そして、呆れたことに「以前のやりとりから考えて、何回やりとりしても意味がない」などと書くにいたっています。「何回やりとりしても意味がない」ような文章しか書いてこなかったのは渡辺知明さんご当人です。私は、常に、論拠と論証を添えた文章を書いてきました。渡辺知明さんさへ、キチンとご当人の論拠と論証を添えた文章を書いてよこせば、十分に「意味」のある応答になり得たのです。

 さらに、極め付きは、渡辺知明さんの次の言い回しです。曰く「Twitterの発言の説明を依頼されたつもりで、わたしのブログに内容を詳しく書くつもりです。ただし、その前に、以前のコメントにも書きましたが、あの日の朗読を聞き直したいので、録音を公開していただきたいと思います」と。呆れたことに、結局、私が私の朗読の「録音を公開」しないかぎり、渡辺知明さんの「ブログに内容を詳しく書くつもり」は無い、と居直っているようなものです。私の朗読の「録音を公開」することが、渡辺知明さんの「ブログに内容を詳しく書く」ための前提だと言っているわけですから。渡辺知明さんは、こういう前提条件をつけるのがよほど好きな人間のようです。

 実際には、何だかんだと前提条件をつけたり、唐突に「公開対話」などという話しを持ち出したりして、相手の矛先を逸らし、ただひたすら直答することを避けているだけなのです。そういう渡辺知明さんご当人の客観的な姿が、渡辺知明さんご当人だけは、おそらくイメージできていないのではないかと思います。

 また「Twitterの発言の説明を依頼されたつもり」という受け取り方もいただけません。私の講演や朗読に対して何の根拠も論証も示さないままに「感想」=「悪口」を書いたのは渡辺知明さんご当人なのですから、渡辺知明さんが自発的にその根拠と論証を書くべきなのです。ただし、今回は、その後の私からの論評(根拠も論証もそれなりに添えています)に対し、その反論も書かなければなりません。単なる「説明」だけでその点をうやむやにしてはいけません。

 それにしても、私の朗読の「録音を公開」することを前提条件につけた理由には驚かされました。要は、もう一度「聴き直し」をしないと、例の「論評」以上のことが書けない、つまり、根拠や論証を書くことができない、というわけです。まさか、渡辺知明さんは、私の「講演と朗読の会」を朗読の初心者として、ただ楽しむために聴きに来たわけではないはずです。いやしくも『朗読の教科書』の書き手として、また、自ら他人に朗読(いや「表現よみ」でしたね)を指導する人間として聴きに来たはずです。そして、ご当人の知見と責任において、例の「論評」で私の朗読の「感想」=「悪口」を書いたはずです。もう一度「録音」を聴かないと、根拠も論証もできないような耳(音声言語を認識する技)ではないはずです。

 それにしても、相手の朗読について否定的な「感想」=「悪口」をインターネット上で書き流したご当人が、その「感想」=「悪口」の根拠や論証を書き足すために、当の相手にその朗読の「録音を公開」することを求める、という渡辺知明さんの神経が、はっきり言って、私には理解できません。もちろん、そんな無責任な「感想」=「悪口」をインターネット上に書き流したという反省も全く示さず、私に対する謝罪の言葉も全く示さないままに、です。

 まあ、それはそれとして、先日の「東百道・講演と朗読の会~感動をつくる朗読をめざして~」の録音録画はライブ盤として、いずれブルーレイにして発売するつもりです。全国の書店やインターネット書店でも手に入りますので、よかったら購入してご覧ください。

 とまれ、今回の渡辺知明さんとの応答は、文字通り「他人への論評は逆に当人の足元を露(あらわ)にする」結果になったと思います。もちろん、露(あらわ)になったのは、渡辺知明さんの足元だけではありません。この私自身の足元も露(あらわ)になったと思います。私は、いつも出来るだけ正直に書くように心がけていますから、そんなことは全く気になりません。もし、学問的に間違ったことを書いことが判明したら、素直にそれを認め、訂正するだけのことですから。

 最後に、先の「東百道・講演と朗読の会」の講演資料にも引用しておいた太宰治の次の言葉を、渡辺知明さんに供して終わることにします。

「人間は、正直でなければならない、と最近つくづく感じます。(中略) 正直に言い、正直に進んで行くと、生活は実に簡単になります。失敗という事が無いのです。失敗というのは、ごまかそうとして、ごまかし切れなかった場合の事を言うのです」(太宰治「一問一答」より)

投稿: 「日本朗読館」館長 | 2013年7月14日 (日) 21時47分

東百道さん
下記の記事を書きました。
http://khyogen.exblog.jp/20504384/

投稿: 渡辺知明 | 2013年7月15日 (月) 09時39分

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