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館長の朗読指導メモ 54/降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その1)〜渡辺知明さんの「感想文」は当人の心の内を露(あらわ)にする〜

館長の朗読指導メモ 54   (戦後68年07月23日)



降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その1)

〜渡辺知明さんの「感想文」は当人の心の内を露(あらわ)にする〜



《館長からの事前コメント》

 渡辺知明さんが、2013年6月30日付けで、彼のTwitterに私に関して書いた文章を流した。私が2013年6月28日に調布市文化会館「たづくり」で行なった「東百道・講演と朗読の会」に対する、ご当人の「感想」を書いたものだという。

 この「感想」文は短文でもあり、内容的にも論評とはとてもいえないものだったので、私はこれを「論評」とカッコをつけて略称して応答した。しかし、渡辺知明さんが繰り返しこれはただの「感想」にすぎないと弁明しているので、今後、渡辺知明さんのこの「論評」のことを「感想文」と改称することにする。

 その渡辺知明さんの「感想文」が、今回、渡辺知明さんと私との間で何回か応答を繰り返したそもそもの発端である。つまり、先に仕掛けてきたのは渡辺知明さんだという事実を、ここに明記しておく。

 渡辺知明さんは、今回、今度はご当人のブログに少々長い文章を再び流すにいたった。「『東百道の講演と朗読』についての渡辺知明のTwitter発言の解説」(http://khyogen.exblog.jp/20504384/)という標題の文章がそれである。これも内容的にはただの個人的な感想に過ぎないものなので、私はこれからコメントや反論をしていくに当たって、その文章を「少しくわしい感想文」と略称することにする。

 その「少しくわしい感想文」も、いかにも渡辺知明さんらしい言い回しによる「感想」=「悪口」が主である。しかし、前回の「感想文」に比べれば確かに「少しくわしい」。いく分かは論拠(?)らしいものも出てきている。それだけに、私の方からのコメントや反論も、材料が増えてきた分、いくらかやりやすくなった。

 渡辺知明さん相手の不毛な応答は、前回で終わりにしようと思ったのだが、先に仕掛けた渡辺知明が再びこのような「少しくわしい感想文」を書き流してきたので、それに対するコメントや反論を記すことにした。とにかく「降りかかった火の粉は払わねばならぬ」のである。

 渡辺知明さんのように、事実や実体ではなく、言い回しによって読み手をミスリードさせようとする書き手に対しては、読み手の方々にその事実や実体をよく知ってもらうために、書かれている事柄の全体像を明らかにすることから始めなければならない。私のコメントが意外に長くなった理由の一つはそこにある。さらに、それだけでは私の貴重な時間を割く意味が無いので、このブログの読み手の方々のためにできるだけ朗読そのものに対する私の考えを盛り込むことに努めた。私のコメントが意外に長くなった理由のもう一つはそこにある。


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《はじめに》

 私が、「他人への論評は逆に当人の足元を露(あらわ)にする【後半】」のコメント欄に「渡辺知明さんへの応答もこれで最後にしたいと思います」と書いた翌日に、渡辺知明さんはご当人のブログに「『東百道の講演と朗読』についての渡辺知明のTwitter発言の解説」という表題(以後これを「少しくわしい感想文」と略称する)で、確かに多少はくわしい「感想」を書いている。その内容は、いろいろと問題を含んでいるが、何ほどか先の「感想文」の根拠(?)らしいものもないではなかった。

 渡辺知明さんが私の朗読の録音の公開を要求し、それを渡辺知明さんが追加の文章を書く前提であるかのように書いておきながら、そして、私が「東百道・講演と朗読の会」の録音録画をブルーレイ盤で発行するつもりであること(ブルーレイの発行はもちろん録音の公開の一種である)を明記したにもかかわらず、それを待たずに、その翌日にすぐ、このような文章を再びインターネット上に流してきた。渡辺知明さんは、何をそんなに慌てているのだろうか?

 渡辺知明さんの今回の「少しくわしい感想文」の特徴は、相手の文章におけるご当人に都合の悪い部分には全く触れずに知らぬ顔の半兵衛を決め込み、場合によってはご当人の都合の良いように書き変えて表現し、ご当人の主張したいことだけを文章にするという点にある。また、事実や実体を紹介する場合でも、その全体ではなく、自分の都合の良い部分だけを取り上げ、それをさも自説の根拠であるかのように言い回している点にある。

 私は、こういう相手の文章には、逐条的なコメントや反論を丁寧に加えることにしている。そうしないと、第三者には全体の流れやことの実体がなかなか伝わらない、と思うからである。まったく「ほんとにめんどうなこと」なのである。

 私もそれほど暇ではないので、少しづつ時間を見つけながら、今後、何回かにわたってコメントや反論を書き継いでいく。それも、私の書いた文章の内容が、私のブログを読んでくださる方々にとって、少しでも役に立つように努めながら。


《渡辺知明さんの文章①》

「内田樹さんが『論争はしない』と宣言していることになるほどと思います。これまでも、わたしは『論争』にはこりごりしていました。例えば、2002年のこんな事件です。ほんとにめんどうなことです」

《館長のコメント①》

 ここでいう「こんな事件」とは、渡辺知明さんがご当人のホームページ「ことば・言葉・コトバ」の中に「掲示板事件(全記録)」という表題でその経緯を載せているある出来事のことである。それは、渡辺知明さんが、複数の変名を使い分ける投稿者に批判されたという出来事である。ただし、この出来事と、今回の渡辺知明さんと私との応答とでは、決定的に違うところがある。

①先の出来事の場合は、先に仕掛けたのは変名者の方であり、仕掛けられたのが渡辺知明さんであった。しかし、今回は、先に仕掛けたのは渡辺知明さんの方であり、仕掛けられたのは私である。しかも、私は本名で応じている。

②先の出来事の場合は、応答の主舞台となったのは渡辺知明さんのホームページの掲示板であった。しかし、今回は、応答の主舞台となったのは私のブログの当該記事のコメント欄である。

 こうして見ると、今回の渡辺知明さんと私の立場は、皮肉にも、先の出来事の変名者と渡辺知明さんの立場と類似していることが分かる。つまり、先の出来事の被害者は渡辺知明さんであったかもしれないが、今回の応答の被害者は明らかに私だということになる。もちろん、今回の応答の加害者は渡辺知明さんなのである。

 このように先に仕掛けておきながら、渡辺知明さんは「わたしは『論争』にはこりごりしていました。例えば、2002年のこんな事件です。ほんとにめんどうなことです」などと平気で書いているのは、一体どういうセンスなのだろう?


《渡辺知明さんの文章②》

「今回も残念な結果になってしまいました。他人から見れば水掛け論です。なんら論争にも何にもなっていない理論的にも意義のないやりとりですが、日本の思想に関心ある方には、この日本的なやりとりが反面教師として参考になると思います」

《館長のコメント②》

 幸い、今回の応答は、他人からは、決して単なる「水掛け論」には見えないと思う。何とかうやむやな「水掛け論」に持ち込もうとして「なんら論争にも何にもなっていない理論的にも意義のない」文章を書いているのはもっぱら渡辺知明さんの方であって、それを何とか「理論的にも意義」のある「論争」に引き戻そうとしていたのが私だということを、第三者はちゃんと読み取ってくださっているからだ。

 第一、ご当人がこれは「論争」ではない、ただ「感想」を書いただけだ、などと「論争」から逃げていながら「なんら論争にも何にもなっていない理論的にも意義のないやりとりです」などと他人事のように書いているのは、一体どういうセンスなのだろう?

 その反面、渡辺知明さんは「日本の思想」とか「日本的なやりとり」とか、大げさなことを言っている。なあに、何もそれほど大袈裟なことではない。たかだか、渡辺知明さんの個人的な「感想」の足元が露(あらわ)になっただけのことなのだから。


《渡辺知明さんの文章③》

「140字のTwitterで書いた感想について、その内容にとどまらず、わたしの人格の批評までしてくださいました。文字づらの論争のことばの激しさから、わたしのことが誤解されたら困るので説明責任として、この記事を残しておきます。東百道さんも自らのブログのコメントで打ち切り宣言をしましたので、わたしもこれで打ち切りです」

《館長のコメント③》

 もし、私が渡辺知明さんの「人格の批評」をしたように渡辺知明さんに受け取られたとするならば、それはたった「140字のTwitter」で相手の講演と朗読の「感想」=「悪口」をインターネット上に書き流した渡辺知明さんのやり方そのものと、その後の渡辺知明さんのまったく真摯さの欠けた「コメント」の書き方そのものを「批評」したからであろう。

 ところで、今回の応答を仕掛けられたのは私だから、仕掛けられた私の方には「打ち切り宣言」をする資格がある。しかし、仕掛けた渡辺知明さんの方には、一方的に「打ち切り宣言」をする資格はない。それこそ、最後まで私に対する「説明責任」がある。私は、ご当人は相手の「悪口」を勝手に書き流しておきながら、ことの是非をあいまいにして逃げをはかるような、従来の「日本的なやりとり」を看過しない。


《渡辺知明さんの文章④》

「ちなみに、この記事は、東氏のブログへのコメントとしてでなく、わたし自身のブログに書いて保存することにします。そのほうが、東氏の誇りを傷つけることが少ないだろうと思うからです。こんな文章を書くのは、正直言って、面倒なことで、何ら朗読の理論にとっても実践にとっても意味のないことです」

《館長のコメント④》

 渡辺知明さんのご懸念(?)は全くご無用である。渡辺知明さんが私のブログへコメントした文章は、特段の事情がないかぎり、第三者がいつでも見ることができるようにいつまでも保存しておく。

 さて、それにしても、渡辺知明さんが私の「誇りを傷つけること」を多少なりとも心配してくれているとは意外であった。しかし、これについても渡辺知明さんのご懸念(?)は全くご無用である。私の「誇り」は、渡辺知明さんが「傷つけ」るには、少々、剛すぎるし、高すぎるからである。

 ただし、渡辺知明さんが「東氏の誇りを傷つけることが少ないだろう」という言い回し(またしても言い回しだけ)で、何とか私の「誇りを傷つけ」ようとしている表現意図は十分に受け止めている。しかし、私は、逆に、私が渡辺知明さんの「誇りを傷つけること」の方を、本気で心配している。

 そのこともあって、私のブログの「コメント」欄で一旦は「打ち切り宣言」をしたのである。しかし、渡辺知明さんがまたぞろ続けてきたのだから、仕掛けられた方としては、それに何らかの対応をする必要がある。まさに「降りかかった火の粉は払わねばならぬ」のである。

 ちなみに、渡辺知明さんがご当人の書く文章のことを「こんな文章を書くのは、正直言って、面倒なことで、何ら朗読の理論にとっても実践にとっても意味のないことです」と自己評価している。これはまことに当然である。私は、渡辺知明さんが、初めてご当人の文章を正しく評価したものとして、この点にだけは全く異論がないことをここに表明しておく。

 しかし、私の方は、いくらそのような渡辺知明さんの「少しくわしい感想文」にコメントするにしても、少しは意味のある内容を盛り込みたいと考えている。それは、何よりもこのブログを読んでくださる読み手の方々のためであり、また、貴重な時間を使ってこの文章を書いている私自身のためでもある。


《渡辺知明さんの文章⑤》

「わたしが聞いたのは、6月28日(土)調布市で開催された「東百道・講演と朗読の会」である。当日、東氏は、前半に講演、後半に「黄金風景」と「高瀬舟」の2作品の朗読をした。朗読についての感想は、2作品に共通するものだが、「黄金風景」の朗読は前半の解説を実践したものと受け止めている」

《館長のコメント⑤》 コメント省略

   

【次回へ続く】

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