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館長の朗読指導メモ 56/降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その3)〜渡辺知明さんの「感想文」は当人の心の内を露(あらわ)にする〜

館長の朗読指導メモ 56   (戦後68年07月27日)


降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その3)

〜渡辺知明さんの「感想文」は当人の心の内を露(あらわ)にする



《館長からの事前コメント》

 渡辺知明さんが、2013年6月30日付けで、彼のTwitterに私に関して書いた文章を流した。私が2013年6月28日に調布市文化会館「たづくり」で行なった「東百道・講演と朗読の会」に対する、ご当人の「感想」を書いたものだという。

 この「感想」文は短文でもあり、内容的にも論評とはとてもいえないものだったので、私はこれを「論評」とカッコをつけて略称して応答した。しかし、渡辺知明さんが繰り返しこれはただの「感想」にすぎないと弁明しているので、今後、渡辺知明さんのこの「論評」のことを「感想文」と改称することにする。

 その渡辺知明さんの「感想文」が、今回、渡辺知明さんと私との間で何回か応答を繰り返したそもそもの発端である。つまり、先に仕掛けてきたのは渡辺知明さんだという事実を、ここに明記しておく。

 渡辺知明さんは、今回、今度はご当人のブログに少々長い文章を再び流すにいたった。「『東百道の講演と朗読』についての渡辺知明のTwitter発言の解説」(http://khyogen.exblog.jp/20504384/)という標題の文章がそれである。これも内容的にはただの個人的な感想に過ぎないものなので、私はこれからコメントや反論をしていくに当たって、その文章を「少しくわしい感想文」と略称することにする。

 その「少しくわしい感想文」も、いかにも渡辺知明さんらしい言い回しによる「感想」=「悪口」が主である。しかし、前回の「感想文」に比べれば確かに「少しくわしい」。いく分かは論拠(?)らしいものも出てきている。それだけに、私の方もコメントや反論も、材料が増えてきたから、いくらかやりやすくなった。

 渡辺知明さん相手の不毛な応答は、前回で終わりにしようと思ったのだが、先に仕掛けた渡辺知明が再びこのような「少しくわしい感想文」を書き流してきたので、それに対するコメントや反論を記すことにした。とにかく「降りかかった火の粉は払わねばならぬ」のである。

 渡辺知明さんのように、事実や実体ではなく、言い回しによって読み手をミスリードさせようとする書き手に対しては、読み手の方々にその事実や実体をよく知ってもらうために、書かれている事柄の全体像を明らかにすることから始めなければならない。私のコメントが意外に長くなった理由の一つはそこにある。さらに、それだけでは私の貴重な時間を割く意味が無いので、このブログの読み手の方々のためにできるだけ朗読そのものに対する私の考えを盛り込むことに努めた。私のコメントが意外に長くなった理由のもう一つはそこにある。

       

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【前回の続き】

《渡辺知明さんの文章⑪》

「(2)作者の伝記からの作品解釈に重点がある。〜〜「黄金風景」の内容をすべて作者=太宰治の経験的な事実に置き換えて作品を解釈している。作品そのものの構造、とくに作者と人物との距離の分析が欠けている。つまり、文学作品の基本構造についての考えがない。『朗読の教科書』277ページ」

《館長のコメント⑪》

 渡辺知明さんは、私の作品解読に対して「『黄金風景』の内容をすべて作者=太宰治の経験的な事実に置き換えて作品を解釈している」などと、これまた全く見当違いの「感想」を書いている。まったく、お里が知れるとはこのことを言うのだ。渡辺知明さんは、かつて流行して、今は消え果ててしまった、単純でレベルの低い「リアリズム論」や「反映論」などのような「文学理論」に、今どき、私が陥っていると、本気で考えているのだろうか? 私は、そういう悪名ばかり高く、学問的なレベルの低い「文学理論」などからは、初めからはるかに離れた地平で私なりの文学作品論を展開している。

 そういう私が、文学作品の《作品世界》を太宰治が実際に生きていた《現実世界》と混同して理解するわけがない。渡辺知明さんは、私がなぜ《作品世界》という言葉を使っているか、ということすら理解できていないのだと思う。だから「作品そのものの構造」「作者と人物との距離」「文学作品の基本構造」などといった、初歩的で内容のない言葉を並べるしかないのだ。

 太宰治の「黄金風景」の《作品世界》は、本質的な意味では総てフィクション(文学的な空想)である。そんなことは改めて言うまでもないことだ。文学作品論を考える際の大前提なのだ。

 文学作品「黄金風景」の《作品世界》に登場する「お慶」だって「お巡り」だって、そして太宰治の分身である主人公の「私」だって、さらには、この作品の「地の文」を語っている原作者としての「私」ですら、実在の人物ではない。そんなことは、当たり前ではないか。

 ただし、その《作品世界》は他人ならぬ太宰治(原作者)が総て文学的に創造したもの(文学的な空想)なのだから、太宰治の思想なり人生などがその《作品世界》に色濃く浸透している。その色濃く浸透している内容を探っていくことが、文学作品に書かれた文字言語の《内容的な意味》を読み解いていくための重要な手掛かりの一つなのである。

 この《内容的な意味》は、文法的なレベル(=《語義的な意味》)の解釈にとどまっている渡辺知明さんには、なかなか手がつけられない領域であるかもしれないが。

 それにしても、当初の渡辺知明さんの「作者の伝記からの作品解釈に重点がある」という文章の何と杜撰で粗雑であることか。渡辺知明さんがこういう文章を書いてしまうと、私の講演の内容すら正確に聴き取れていないということまでが、歴然と露(あらわ)になってしまう。


《渡辺知明さんの文章⑫》

「(3)実際の朗読にも理論に欠ける点がそのまま出た。問題点を列挙する。〜〜朗読の理論とは、いい朗読をするための理論であろう。理論で語ることを実際の朗読にどう生かすかという実践として評価される。朗読には不可欠な音声表現の基礎である(4)(5)(6)(7)(8)の表現理論がない。身体運動と観念が音声言語を媒介にして結びつくことが朗読の本質なのである。『朗読の教科書』第2章姿勢・発声・撥音、第3章リズムある朗読の仕方」

《館長のコメント⑫》

 ここにも渡辺知明さんの学問的な厳密さが欠ける面が露(あらわ)になっている。

 たとえば、渡辺知明さんは「理論で語ることを実際の朗読にどう生かすかという実践として評価される」というように書いている。これは「理論」と「実践」をただ直結させた、典型的な誤謬である。

 ここで渡辺知明さんが書いた「理論」と「実践」の間には「技術(=技)」という媒介がある。すなわち「理論」と「実践」とは、直ちに結びつかないものなのである。

 こういうことは、ただの言い回し的なやりかたでは通用しない、現実の産業分野を例にとるとより明白となる。現実の産業分野では、学問的な理論が、直ちには応用的な技術に結びつかないし、まして、産業的な生産には直ちには結びつかない。こんなことは、今や世間的な常識であろう。学問的な理論と応用的な技術と産業的な生産は互いに深く関連してはいるが、それぞれは相対的に独立した関係にある。

 渡辺知明さんがここで書いている朗読の「理論」が「学問的な理論」に相当し、朗読的な「実践」が「産業的な生産」に相当することは、改めて言うまでもない。

 渡辺知明さんは、論理的(学問的)な意味における「理論」も「技(技術)」も「実践」も、ほとんど何も理解していないように思われる。それらが互いに、どう関係しているかも。ただ、言葉だけを言い回しているだけのように思われる。

 また、渡辺知明さんは「身体運動と観念が音声言語を媒介にして結びつくことが朗読の本質なのである」などと書いている。渡辺知明さんは「本質」という言葉の意味を、果してどのくらい理解できているのだろうか?

 朗読の「本質」とは、朗読の根本を規定したところの、朗読にだけ当てはまる特性のことを意味する。朗読の「本質」が、同時に他のものの「本質」であってはならない。これが、論理的(学問的)な「本質」の意味である。

 たとえば、人間(人類)の本質はなにかという問題を考えてみよう。この場合、たとえば「肺で呼吸する」などというのは、人間(人類)の本質とは言わない。確かに、人間(人類)が「肺で呼吸する」ことは事実である。しかし、人間(人類)以外の猿や犬などの哺乳類や鳥類や爬虫類なども「肺で呼吸する」のである。そういう場合には「肺で呼吸する」ことを、人間(人類)の本質とは言わない。

 ここで渡辺知明さんが書いた「身体運動と観念が音声言語を媒介にして結びつく」などという朗読の性質も、決して朗読だけに当てはまる特性ではない。声楽だって、講談、語り、演劇、あるいは、その他の人間の言語表現を伴うありとあらゆる活動にだって、そのまま当てはまる特性なのである。すなわち、人間の社会的な活動は、皆、ほとんど「身体運動と観念が音声言語を媒介にして結びつく」という性質をもっていることになる。

 このように他にも含まれる性質を「朗読の本質なのである」などと表現しているところに、渡辺知明さんの論理的(学問的)に杜撰で粗雑な側面が露(あらわ)れている。渡辺知明さんは、朗読の本質をこのように杜撰かつ粗雑にとらえるから、次の《渡辺知明さんの文章⑬》に書いているように、「朗読が声による表現であるなら、文字の言語の解釈ではなく声が問題だ」などというとんでもないことを言い出してしまうのである。

 以上のような杜撰で粗雑な論理感覚で思いついた「(4)(5)(6)(7)(8)の表現理論」(?)などが、どの程度の学問的レベルにあるか。こんなことは、おおよその見当がついてしまうものなのである。



《渡辺知明さんの文章⑬》

「(4)姿勢、〜〜朗読が声による表現であるなら、文字の言語の解釈ではなく声が問題だ。姿勢からつくる必要がある。だが、イスに腰かけて、足を前に投げ出し、背を丸めて、マイクに声を乗せるするような姿勢では声が出なくなる。むしろ、東氏の講演のときの発声法のほうがよかった。『朗読の教科書』36ページ」

《館長のコメント⑬》

 ここにも、決定的な論理の杜撰さと粗雑さが見られる。渡辺知明さんは「朗読が声による表現であるなら、文字の言語の解釈ではなく声が問題だ」などと書いている。

 ところが「朗読」は、単なる「声による表現」などではない。文学作品に表現された「文字の言語」を自分の「声」を使った「音声言語」で再「表現」する芸術である。その場合には「文字の言語の解釈」が最重要な「問題」であることは自明でなければならない。そのように最重要な問題を、渡辺知明さんは「文字の言語の解釈ではなく声が問題だ」などと書いている。すなわち「文字の言語の解釈」は「問題」ではなく、ただ「声」の方が「問題」なのだと書いている。全く何を考えているのだろうか?

 また、私の朗読姿勢を「イスに腰かけて、足を前に投げ出し、背を丸めて、マイクに声を乗せるするような姿勢」と表現している。これは、渡辺知明さんの全くの錯覚か、あるいは、全く出鱈目な言いがかりである。その種明かしをしていこう。

 まず「足を前に投げ出し」ているというところから始める。渡辺知明さんが「足を前に投げ出し」ているというように書くと、私がいかにも無作法でだらしのない姿勢で朗読していたような印象を読み手に与える。しかし、これが、先ず、渡辺知明さんの全くの錯覚であるか、全く出鱈目な言いがかりなのである。

 実際の舞台では、私はむしろ、足の先を膝頭よりも後方に引き気味にして「イスに腰かけて」いた。この点は、いずれ公開を予定しているブルーレイ盤の録音録画を観てもらえば歴然としている。私がいずれ公開すると書いているのに、渡辺知明さんは慌てて「少しくわしい感想文」を書くから、こういう錯覚したことを書いてしまう。あるいは、こういう出鱈目な言いがかりを書き流すために、ブルーレイが公開される前に慌てて書いたのかも知れないが。

 その次に書いている「背を丸めて」という表現も当たっていない。私は、台本に集中するために、上半身をいくらか前傾させ、顔を台本の方にいくらか伏せ気味にしているに過ぎない。すなわち、少し浅めに腰かけてはいるが、ごく普通にイスに腰かけて眼を台本に落してその文字言語を読み取っている、ごく当たり前の朗読姿勢である。

 これを、渡辺知明さんは「足を前に投げ出し、背を丸めて」というように表現しているわけである。どうやら、渡辺知明さんの先入観は、耳だけでなく、目にも影響を与えているらしい。

 また、後でくわしく書くことになるが、朗読していたときに、実は、私はマイクを使っていなかった。私の前にマイクは置いてあったが、それはもっぱら録音のためであった。しかも、前に置いたマイクはコンデンサー・マイクだったから、かなり広い範囲の声を拾ってくれる。

 したがって、あのときの私は「マイクに声を乗せるような姿勢」をとる必要など全くなかったのである。すなわち、当日の私は、マイクのことは一切気にせず、もっぱら台本に眼を落しながら、会場の観客に訴えかけるような姿勢で朗読しようとしていたのであり、また録画を見てもまさにそういう姿勢で朗読していたのである。

 さて、このように、当時の私の朗読姿勢に関する渡辺知明さんの表現が、渡辺知明さんの錯覚に基づいたものか、あるいは、出鱈目な言いがかりだということになると、残る私の姿勢上の問題は、渡辺知明さんが最初に書いた「イスに腰掛けて」という点だけになる。つまり、ここで渡辺知明さんが問題にしている私の姿勢は、実質的には「イスに腰掛けて」いる姿勢、というところに還元されてしまうのである。

 朗読をするときに、立って朗読するべきか、イスに座って朗読するべきか、という問題。逆にいえば「イスに腰掛けて」朗読してはいけないか否か、という問題である。この問題は、朗読の「姿勢」論としてはあまりにも初歩的に過ぎ、これ以上はまともに応ずる気が起こらない。渡辺知明さんが、ここで持ち出している「姿勢」の問題は、結局、この程度の内容だったのである。渡辺知明さんのここの文章は、以上のような種明かしをすると、まことにつまらないことをもっともらしく書いているだけだ、ということが明らかになってしまう。



《渡辺知明さんの文章⑭》

「(5)発声、〜〜(4)の結果として、声がでていない。声に強さがない。息がコントロールされていない。あの会場ならば、マイクなしでも表現できる声が必要である。『朗読の教科書』47ページ」

《館長のコメント⑭》

 この点については、確かに、私の方でも、若干の失敗があった。開場前のミニ・リハーサルのときに、講演も朗読もマイクなしでやることを試してみたのである。すると、朗読の声は最後列の座席まで十分に届くが、講演の声は若干聴き取りにくいことが分かった。そこで、急きょ、講演のときにはマイクを使うことに変更したのである。

 そのときに、朗読の際にもマイクを使うことを一応は考えたのである。本番の前々日まで風邪をひいていたから、当日の声出しも今ひとつ本調子ではなかった。したがって、第1部の90分間の講演をした後、第2部の朗読において、最後まで声が保つかどうかという不安があった。

 しかし、私の「自然な語り口」による声が、どのくらいの広さの会場までマイクなしでやれるものか、それを実際の公演の場で確かめてみたい、という誘惑には勝てなかったのである。

 ただし、断わっておくが、私は、マイクを使わないで朗読することに、さほど価値があるとは考えていない。マイク無しで不自然な「語り口」の朗読をするよりも、マイクを使って「自然な語り口」の朗読をする方が、よほど価値があると考えている。しかし、マイク無しで「自然な語り口」が観客に十分聴こえるなら、それに越したことはない。マイクの借り賃が不要になるし、マイク・テストなどの面倒な準備も不要になるからである。

 そこで、結局は、講演のときはマイク&スピーカーを使い、朗読のときはマイクは録音用のみとし、会場内のスピーカーのスイッチは切ることに決めたのである。今回の客席数100席の会場の観客に、果してマイク無しで「自然な語り口」を聴いてもらうことができるかどうかを試みるために。

 ところが、前半の講演のとき、つい話しに力が入りすぎ、かなり声を張ってしまった。第2部の朗読に備えて、第1部の講演は声を抑えていくつもりでいたのだが、そのことを途中からすっかり失念してしまったのである。これが、先ず、私の舞台演出上の失敗であった。

 朗読関係者なら、誰でも経験して知っていると思うが、マイクを使った声を聴いた後で、マイクなしの声を聴くと、耳が無意識に両方の声を比較してしまうせいか、どうしてもマイクなしの声の方が「声がでていない。声に強さがない」というように感じられてしまう。

 まして、今回の場合は、第1部の講演のときに思わず声を張ってしまったのだから、なおさらであった。渡辺知明さんでさえ「東氏の講演のときの発声法のほうがよかった」などと書いているのだから、第1部の講演での私の声はかなりしっかり出て、しかも強く、会場内に届いていたに違いない。

 それだけに、その後にマイクなしでやった第2部の朗読の声の方が、第1部の講演のときの声に比べて「声がでていない。声に強さがない」ように感じられてしまったのは、まあ無理もないのである。第1部でマイクを使ったならば、続く第2部でも同じようにマイクを使うべきであった。これは、私の舞台演出上の大失敗であった。

 それにしても、渡辺知明さんは、第2部の朗読のとき、場内のスピーカーを切っていた事実(マイクを拡声用に使っていなかった事実)に全く気がつかなかったようだ。もっともらしく、他人の「発声」を問題にする割には、かなり杜撰で粗雑な耳である。

 しかし、また、このことは逆に、第1部の講演のときの声に比べてこそ「声がでていない」とか「声に強さがない」ように感じられたらしいが、第2部の朗読のときの声も、あたかもマイク&スピーカーを使って拡声していると渡辺知明さんに勘違いされるくらいには、私の「声がでて」いたし、その「声に強さ」もあったということを物語っている。

 また、そういう事実を、渡辺知明さんは無意識の内に(意図せずに)、ご当人自らが認めて書いてしまった、とも言えるのである。このように全体像を明らかにしていくと、渡辺知明さんが「発声」について書いた内容やイメージがかなり違って見えてくると思う。

 ところで、その2週間後に、私は「朗読日和」という朗読会を聴きに行った。

 この「朗読日和」に出演した7人の皆さんは、NHKの朗読番組「日曜名作座」で森繁久弥さんと永年コンビを組んで有名だった加藤道子さんに20年ほど朗読を習った方々である。加藤道子さんが亡くなってからしばらく経って、この「朗読日和」を始め、今回で7回目(7年目)になるという。

 今回、私は初めてこの方々の朗読を聴いたのだが、さすが加藤道子さんに習っていただけあって、とても「自然な語り口」の朗読だった。会場は「なかの芸能小劇場」で客席数は110席であった。この「朗読日和」では、出演者の皆さんは、それぞれピンマイクを使っていた。やはり「自然な語り口」で朗読する場合には、座席数100席くらいの会場であっても、マイク&スピーカーを使った方が良いということを、私は暗黙の内に教えていただいた。



《渡辺知明さんの文章⑮》

「(6)アクセント、〜〜一言一言のことばにリズムもメリハリも感じられないのは、アクセントによることばの意味の明確化に関心がないようだ。また、アクセントが高低か強弱かという理念もないようだ。『朗読の教科書』90ページ」

《館長のコメント⑮》

 当日の私の朗読の「語り口」が「自然な語り口」であったとするならば、渡辺知明さんがこういうことを主張すればするほど、渡辺知明さんの主張する「アクセント」の考え方が、われわれ日本人が現実の場で表現している当たり前の日本語(音声言語)の「アクセント」から、いかに遊離しているかを示している。

 そういう渡辺知明さんが、私について「アクセントによることばの意味の明確化に関心がない」と主張している。ということは、百歩譲って、そのようにアクセントした言語表現は「ことばの意味の明確化」(ことばの《語義的な意味》の明確化)ができるとしても、それ自体がきわめて不自然な音声言語になってしまうだろう、ということは容易に推察できる。

 また、渡辺知明さんは、私に「アクセントが高低か強弱かという理念もないようだ」などと書いている。アクセントに関して「理念」を持てとは、一体どういう考え方なのであろうか? 渡辺知明さんは「理念」という言葉をちゃんと理解して使っているのだろうか? それとも、ただの言い回しの調子で使っただけなのか?

 それにしても、特定の「理念」などによって「アクセント」の問題が云々されることの愚かさと恐ろしさが、渡辺知明さんには全く分からないらしい。まったく、日本語の「アクセント」が、渡辺知明さんの思いつきによる「理念」などに影響されてはたまったものではない。こういう考え方の人間に、日本の文化や芸術(朗読は芸術の一種である)に関する諸問題を左右されては本当にたまらない。そういう「アクセント」のような問題に関する、本来の「理念」や「思想」のあるべき立ち位置すらも、渡辺知明さんは分からなくなってしまっているようだ。

【次回に続く】

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