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館長の朗読指導メモ 55/降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その2)〜渡辺知明さんの「感想文」は当人の心の内を露(あらわ)にする〜

館長の朗読指導メモ 55   (戦後68年07月25日)



降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その2)

〜渡辺知明さんの「感想文」は当人の心の内を露(あらわ)にする〜


《館長からの事前コメント》

 渡辺知明さんが、2013年6月30日付けで、彼のTwitterに私に関して書いた文章を流した。私が2013年6月28日に調布市文化会館「たづくり」で行なった「東百道・講演と朗読の会」に対する、ご当人の「感想」を書いたものだという。

 この「感想」文は短文でもあり、内容的にも論評とはとてもいえないものだったので、私はこれを「論評」とカッコをつけて略称して応答した。しかし、渡辺知明さんが繰り返しこれはただの「感想」にすぎないと弁明しているので、今後、渡辺知明さんのこの「論評」のことを「感想文」と改称することにする。

 その渡辺知明さんの「感想文」が、今回、渡辺知明さんと私との間で何回か応答を繰り返したそもそもの発端である。つまり、先に仕掛けてきたのは渡辺知明さんだという事実を、ここに明記しておく。

 渡辺知明さんは、今回、今度はご当人のブログに少々長い文章を再び流すにいたった。「『東百道の講演と朗読』についての渡辺知明のTwitter発言の解説」(http://khyogen.exblog.jp/20504384/)という標題の文章がそれである。これも内容的にはただの個人的な感想に過ぎないものなので、私はこれからコメントや反論をしていくに当たって、その文章を「少しくわしい感想文」と略称することにする。

 その「少しくわしい感想文」も、いかにも渡辺知明さんらしい言い回しによる「感想」=「悪口」が主である。しかし、前回の「感想文」に比べれば確かに「少しくわしい」。いく分かは論拠(?)らしいものも出てきている。それだけに、私からのコメントや反論も、材料が増えてきた分だけ、いくらかやりやすくなった。

 渡辺知明さん相手の不毛な応答は、前回で終わりにしようと思ったのだが、先に仕掛けた渡辺知明さんが再びこのような「少しくわしい感想文」を書き流してきたので、それに対するコメントや反論を記すことにした。とにかく「降りかかった火の粉は払わねばならぬ」のである。

 渡辺知明さんのように、事実や実体ではなく、言い回しによって読み手をミスリードさせようとする書き手に対しては、読み手の方々にその事実や実体をよく知ってもらうために、書かれている事柄の全体像を明らかにすることから始めなければならない。私のコメントが意外に長くなった理由の一つはそこにある。さらに、それだけでは私の貴重な時間を割く意味が無いので、このブログの読み手の方々のためにできるだけ朗読そのものに対する私の考えを盛り込むことに努めた。私のコメントが意外に長くなった理由のもう一つはそこにある。


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【前回の続き】


《渡辺知明さんの文章⑥》

「まず、2013年6月30日に、わたしは Twitter に下記のような感想を書いた。前半は東氏の理論の理解のしかた、後半は2作品の朗読についての感想である。
●『東百道氏の講演と朗読を聴いた。作品を作者の言葉と解釈して、黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ。作者の伝記からの作品解釈に重点がある。実際の朗読にも理論に欠ける点がそのまま出た。問題点を列挙する。姿勢、発声、アクセント、イントネーション、プロミネンス、語り構造、語り口と感情』」

《館長のコメント⑥》 コメント省略


《渡辺知明さんの文章⑦》

「これに対して、東氏は『他人への論評は逆に当人の足元を露(あらわ)にする』という積極的な意気込みのあるタイトルをつけて、前半・後半と2回、反論の記事を書いた。(内容に関心ある方は、下記のサイトを参照。お互いのコメントも書かれている)
 前半
http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2013/07/post-866c.html
 後半
http://nipponroudokukan.txt-nifty.com/blog/2013/07/post-a08d.html」

《館長のコメント⑦》

 ここにも特にコメントすべきものはない。

 しかし、私のつけたタイトルについて「積極的な意気込みのあるタイトル」などと書いているところに、渡辺知明さん特有の他人の文章の受け止め方とご当人の言い回し方が現われている。

 私がこういうタイトルをつけたのは、呆れ果てたという気持と共に、渡辺知明さんに多少でも自戒する心を持ってもらいたいという気持を込めたからである。

 渡辺知明さんが書いたような「積極的な意気込み」など、私にあるわけがない。何せ私は「降りかかった火の粉は払わねばならぬ」ので、やむを得ず貴重な時間を割いて「反論の記事を書いた」のだから。


《渡辺知明さんの文章⑧》

「わたしは今回のTwitterの内容について、東氏からどういう意味なのか問われたものとして、より詳しく書いておくことにした。理論についての論争などではない。あくまで朗読から感じた理論の感想である。感想の正確さ確認するために、実際の朗読「黄金風景」と「高瀬舟」の録音の公開をお願いしたが、公開の意志はないということなので聞き直さないまま書かざるをえない。ただし、基本的な評価に変化はない。また、わたしが批評の根拠とする理論を示せというので、拙著『朗読の教科書』の参照ページを加えた」

《館長のコメント⑧》

 ここにも、いかにも渡辺知明さんらしい言い回しが典型的に現われている。この文章で、渡辺知明さんが言いたいのは、今回の文章は「理論についての論争などではない」のだから、すなわち、ただの「少しくわしい感想」なのだから、根拠を示す必要もなければ論証する必要もない。ご当人の感じたままを好きなように書いてよいのだ、ということであろう。まさに、内容が「水掛け論」に終始することのみを目的とした、まさに「日本的なやりとり」のやり方の典型である。

 また、渡辺知明さんは、私が自分の朗読の「公開の意志はないということなので聞き直さないまま書かざるをえない」などと書いている。しかし、私は「公開の意志はない」などと一言も書いていない、それどころか、あの「講演と朗読の会」の全体を録音録画したブルーレイの発行を予定している、と書いているのだ。

 渡辺知明さんは、私がそういうことを当該記事の「コメント」欄に書いている事実を、ご当人のブログに書いたこの「少しくわしい感想文」にはおくびにも出さない。書く場所を変えたことをよいことに、自分を正当化するために、自分に都合の悪いことは、何とか無視して、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。まさに、言い回しとホッカムリだけで保っているような文章なのである。

 さらに、渡辺知明さんは「わたしが批評の根拠とする理論を示せというので、拙著『朗読の教科書』の参照ページを加えた」などと書いている。ご当人の文章を「批評」と書いたり「感想」と書いたりさっぱり安定していない。私は、渡辺知明さんの「批評の根拠とする理論を示せ」などとは書いていない、ただ「根拠」あるいは「論拠」を示せと書いているのだ。

 そこで、ご当人の「批評」の「根拠」として、ご当人の近著の「参照ページ」を示すとは、いかにも渡辺知明さんらしい。渡辺知明さんから「批評」された方が、渡辺知明さんの近著の該当箇所を読んで勉強しろ、と言わんばかりのやり方である。渡辺知明さんは、何でそんなに上から眼線でものを言いたがるのか? あるいは、逆に、渡辺知明さんは、いったい何をそんなに怖がっているのか? こういう場合は「批評」した方が、ご当人の「批評」の根拠を、その「批評」の中で、的確に要約して相手に示すのが常識ではないか。そして、これまでの渡辺知明さんは、相手から真っ当な反論をされて、ご当人の都合が悪くなると、いやこれはただの「感想」でございます、などと言い回して逃げを図ってきたのである。

 何度でもいうが、渡辺知明さんの文章は、こういう言い回しとホッカムリだけで保っているような文章なのである。これまで、ただの一度たりとも、正面から、本格的に、真摯に、私に対して文章を書いてきたことはない。



《渡辺知明さんの文章⑨》

「●東百道氏の講演と朗読を聴いた。(1)作品を作者の言葉と解釈して、黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ。(2)作者の伝記からの作品解釈に重点がある。(3)実際の朗読にも理論に欠ける点がそのまま出た。問題点を列挙する。(4)姿勢、(5)発声、(6)アクセント、(7)イントネーション、(8)プロミネンス、(9)語り構造、(10)語り口と感情」

《館長のコメント⑨》 コメント省略


《渡辺知明さんの文章⑩》

「(1)作品を作者の言葉と解釈して、黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ。〜〜作品全体が、作者の書いたものとして読むから、原稿を読み上げることになる。せっかくのイメージの分析が生かされない。そもそも「イメージ」の概念がアイマイなのだ。つまり、読み手が作品を分析してイメージしたイメージが、どのようにして聞き手のイメージとなるのか、そのイメージはどんなかたちで伝わるのか、根本的な検討が必要なのだ。つまり、イメージの媒介としての音声言語の理論がないから、イメージが朗読の実践に「直結」させられる。『朗読の教科書』310ページ」

《館長のコメント⑩》

 いかにもただ書き流したような、杜撰で粗雑な「感想文」である。

 冒頭の「作品全体が、作者の書いたものとして読むから」云々と書いてあるところからすると、逆に、渡辺知明さんは、文学作品というものは、その「作品全体」を「作者の書いたものとして読」み取ってはいけない、と言っていることになる。それでは、文学作品というものは、ゴーストライターが部分的に「書いたものとして読」み取るべきなのか? 他の作家の文章を無断引用したものとでも「読」み取るべきなのか? それとも、何者かが作者の頭と心の中に侵入して、作者に文章を書かせた「ものとして読」み取るべきなのか? 

 もちろん、正解は、渡辺知明さんとは反対に、文学作品というものはその全体を「作者の書いたものとして読む」べきものなのである。こんなことは当たり前ではないか。渡辺知明さんは、作家が創作過程で行なう観念的な「視点の転換」のことが全く分かっていない。だから、こんな生半可なことを書く羽目になってしまう。作家は、さまざま「視点の転換」を観念的に行ないながら、自分の作品を創作して行く。

 あるときは、登場人物の「視点」に「転換」したり、あるときは原作者の「視点」に「転換」したり、あるときは読者の「視点」に「転換」したりしながら、文学作品を創作していくのである。その創作的な精神活動(創作的な認識過程)の凄まじさは、ときには作家に精神的な障害をひき起こす場合があるくらいの大変な作業なのだ。

 また、渡辺知明さんは、そういう作家の創作的な精神活動(創作的な認識過程)のことが全く理解できないから、私の朗読表現を「原稿を読み上げる」ようだ、というようにしか聴くことができない。私の朗読が渡辺知明さんにそのように聴こえてしまうのは、逆に、聴いた方の渡辺知明さんの耳のレベルを露(あらわ)にしている。もう少し丁寧にいうと、もっぱらご当人が提唱しているだけで全く未検証なままの渡辺知明さんの「音声言語の理論」などが先入観となってしまい、渡辺知明さんご当人が他人の朗読表現を客観的に聴き取ることを邪魔しているのである。これは一種の職業病といえるかも知れない。

 一般の観客は、私の朗読をどう聴いたであろうか。6月の「東百道・講演と朗読の会」の後、主催者のところには電話やメールでとても嬉しい感想がいろいろと寄せられたそうである。その中には、たとえば「先日のセミナーは本当に良い企画だったと思います。・・・・・・朗読は実に奥深いですね」「高瀬舟に入り込み涙が流れました」などという文言があったそうである。また、主催者自身も、私の朗読について「人間が人間を語っている。心にじんじんと入り込んでくる。そんな気持にさせられました」という、大変に見事な感想を書き送ってくださっている。念のために断わっておくが、私が見事というのは、私の朗読を高く評価してくださったからではない。朗読の聴き方が見事だと言っているのである。

 さらに、今後、この「東百道・講演と朗読の会」の開催をシリーズ化していくことも検討している、ということも書き添えてくださった。観客の皆さんの声を受けて、今後のシリーズ化を検討してくださっているというその事実こそが、今回の私の講演と朗読に対する何よりもありがたい評価である、と私は受けとめている。

 ただし、ここで一般の観客と言ったが、当日の観客の皆さんはそのほとんどが自ら朗読をやっている経験者であったらしい。主催者自身も、朗読を10年〜20年やってきている経験者である。したがって、これまでにも色々な朗読理論や朗読表現を熱心に勉強したり聴いてきた方々であったようだ。その上で、このように評価してくださったわけである。

 しかし、いずれにしても、渡辺知明さんの聴き方とは何と違うことであろうか! 渡辺知明さんは、今回のような見当違いの主観的な「感想文」を書き流すよりも、もっともっとご当人の「音声言語を認識する技」を磨いた方がよいと思う。

 ただし、渡辺知明さんのこの部分の言い回し、すなわち「作品全体が、作者の書いたものとして読むから、原稿を読み上げることになる」という部分には、若干ではあるが興味をひく部分がある。それは、渡辺知明さんがついウッカリと「原稿を読み上げる」というように書いた部分である。

 一般的に考えて、ある文学作品の「原稿を読み上げる」のは、読者ではない。素直に考えれば「原稿を読み上げる」立場の人間は「作者」である。つまり、渡辺知明さんの耳には、私の朗読が、あたかも「作者」自身が自分の作品の「原稿を読み上げ」ているかのように聴こえたのではないだろうか。そこでついウッカリと「原稿」と書いてしまったのだと思われる。

 現に、後に出てくる《渡辺知明さんの文章⑱》のところでは、改めて「全体の印象は、文学作品の表現ではなく、書かれた作品の『文章』を読み上げている感じである」というように書き直している。すなわち《渡辺知明さんの文章⑩》における「原稿」という言葉を、後の方では「文章」という言葉に置き換えているのである。逆にいえば、ここの「原稿を読み上げる」という言い方には、渡辺知明さんの本音がついチラッと出てしまったのだろう、と私は受けとめている。

 つまり、渡辺知明さんは、無意識のうちに、私が「作者」の視点と心情に基づいて、あたかも「作者」自身が自分の「原稿を読み上げる」ような「自然な語り口」で朗読していた、というような印象を持ったのではないか。そういう事実を、ここで思わず無意識の内に表現してしまったのだと思われる。もちろん、そのような渡辺知明さんの無意識の聴き方では、まだまだ全く不十分なのではあるが。

 それはともかく、結局、渡辺知明さんはここで、私には「イメージの媒介としての音声言語の理論がない」から「イメージが朗読の実践に『直結』させられ」てしまい、その結果、ただ「原稿を読み上げる」ような朗読になってしまっていた、と主張したいわけである。こういう渡辺知明さんの主張そのものが、私が常に朗読表現の最高水準の「語り口」は「自然な語り口」であると主張している理論的・現実的な意味を、全く理解できていないことの明らかな証拠になっている。さらに言えば、渡辺知明さんが、現実の人間が現実の場で現実に表現している「自然な語り口」のことを、これまで全く研究してこなかった、ということの明らかな証拠にもなっている。

【次回へ続く】

   

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