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館長の朗読指導メモ 59/降りかかった火の粉は払わねばならぬ(追加)〜渡辺知明さんの「感想文」は当人の心の内を露(あらわ)にする〜

館長の朗読指導メモ 59   (戦後68年08月10日)




降りかかった火の粉は払わねばならぬ(追加)

〜渡辺知明さんの「感想文」は当人の心の内を露(あらわ)にする〜



《はじめに》

 今回の一連の渡辺知明さんへの応答がやっと終わったと思っていたところ、またまた渡辺知明さんが新たな問題を引き起こしてくれたので、この追加を書かなければならなくなった。まったくやっかいな人ではある。

 私が「降りかかった火の粉は払わねばならぬ」の最終回をブログに掲載した後、渡辺知明さんのブログを介してこの記事を読みに来ている人が何人かいた。しばらく放っておいたが、一応、念のために渡辺知明さんのブログを見に行ってみた。そこで、初めて私の記事のURLがリンク処理して掲示されていることを知った。

 それはまあ良いのだが、それに加えて、次のような渡辺知明さんの【追記】と、私がかつて渡辺知明さんの独演会を聴きに行った際に記入&提出したアンケート用紙の画像が貼付けられていた。私は、これまでも、渡辺知明さんの言動には何回か驚かされ(呆れさせられ)てきたものだが、今回はそれに輪をかけての驚かされ(呆れさせられ)ようではあった。


《渡辺知明さんの【追記】の文章》

【追記】
 わたしは打ち切りましたが、東百道さんが追加を書いていますので紹介します。関心ある方はお読みください。画像(2002/9/7)は「その4」の参考資料です。(2013/08/05)

《館長のコメント》
 渡辺知明さんのこの言い回し方も、相変わらずである。何回も確認したように、今回の渡辺知明さんと私の応答の始まりは渡辺知明さんが書いた「感想文」である。その渡辺知明さんの「感想文」に対する応答を、私はこのブログの記事として記したのだが、その記事に対してコメントを書き込んできたのも渡辺知明さんの方であった。

 それが私の方からのコメントで一段落したと考えたので、その最後の私のコメントで私が打ち切り宣言をしたのである。それに対して、最初に今回の応答を仕掛けてきた渡辺知明さんが、今度はご当人のブログに「少しくわしい感想文」を書いてきたのである。そして、その「少しくわしい感想文」の中で、渡辺さんは、これでご当人も打ち切ると書いていたのである。

 応答を仕掛けられた方が、応答が一段落したとみて打ち切り宣言をするのは順当である。しかし、その打ち切り宣言を読んで、応答を仕掛けた方がまたぞろ「少しくわしい感想文」を書いた以上は、それに対して仕掛けられた方が改めて反論するのは当然である。ところが、何を勘違いしているのか、再び新たに仕掛けた方の渡辺知明さんが、ご当人のその「少しくわしい感想文」のなかで打ち切り宣言をしている。

 そして、それに対する私の反論に対して、今回の【追記】では「わたしは打ち切りましたが、東百道さんが追加を書いています」などという見え透いた言い回し方をしている。今回の私も反論は「追加」ではない。渡辺知明さんから新たに仕掛けられた「少しくわしい感想文」に対する、私からの新たな応答なのである。

 渡辺知明さんは、よほどご当人の客観的な立ち位置が分からない人らしい。あるいは、分からない振りをして、見え透いた言い回しで、あたかもご当人が受け身で応対しているかのように見せかけようとしている。そのような見え透いた言い回しが、世間で通用すると思っているのだろうか? そして、可笑しいことには、打ち切ったはずのご当人が、またぞろ「参考資料」などと称して、今回問題とする画像を新たに「追加」したりしている。語るに落ちるとは、このことをいう。



《渡辺知明さんが貼りつけたアンケートの画像についての私の要求と忠告》

1.私が手書きしたアンケートの画像を、私に無断で勝手にインターネットに流した行為は看過できない。直ちにこの画像を削除し、私に謝罪することを要求する。

2.善意で手書きしたアンケートを、今回のように、手書きした本人の承諾を得ること無く勝手にインターネットに流すことは、とりもなおさず渡辺知明さんが次のことをインターネット上に公表したに等しい。すなわち、渡辺知明さんご当人が、そのような非常識・非良識な行為をする人間であるということ、これである。

3.これは、また、渡辺知明さんが、今回の応答において、私に対して根拠をもっては何も反論できないというご当人の「論評」=「感想」の「足元」を、また、他人との応答においてこのような非常識・非良識的な行為をも厭わないという当人の「心の内」を、ご当人自らが露(あらわ)にしてしまっている、ということを意味している。

4.そういう懸念を見越していたからこそ、私は今回の応答の標題を「他人への論評は逆に当人の足元を露(あらわ)にする」とか「他人への『感想文』は当人の心の内を露(あらわ)にする」として、あらかじめ渡辺知明さんに忠告をしておいたのである。

5.今からでも遅くはないから、渡辺知明さんご当人にとってあまり好ましくない「足元」や「心の内」を、あまりにも露(あらわ)にする今回のような行為は即刻中止するよう、渡辺知明さんご当人のために忠告する。



《渡辺知明さんが掲載したアンケートの画像についての私からの解説》

 しかし、これまでの渡辺知明さんの言動を考えると、渡辺知明さんが上記の私の要求と忠告に素直に従わないことも十分に考えられる。そこで、この際、渡辺知明さんが掲載したアンケートの画像についての私からの解説をここに記しておくことにする。

 前置きとして、朗読会においてアンケートに記入を求められた場合に、私が原則としていることを記しておく。先ず、なるべくその朗読会の良いところを見い出して、その良いところを極力褒めて書くこと。また、その良いところが必ずしも十分でない場合でも、今後その良い方向に伸びていくことを期待して、その方向に沿って褒めること。次に、悪いと判断したところは、よほどのことが無いかぎりそれを書くことを控える。書く方がご当人のためだと思って書く場合でも、極力やんわりと控えめに書くこと。

 こういうアンケートを書く場合の原則は、私だけではなく、普通の常識・良識をもった人間ならば、誰でも行なっている当たり前の配慮だと思う。いわば、良い意味での大人の振舞いなのである。したがって、私は私が指導している朗読サークルの朗読(発表)会でアンケートをとる場合には、たとえ高く評価されていても、かなり割引いて受けるように、と注意している。


《アンケートの手書き文章A》

「1.牡蠣
 なめらかで心よいテンポの朗読は、とても自然な語り口として良かった。」

《館長のコメントA》

 ここで記されている「なめらかで心よいテンポの朗読は、とても自然な語り口として良かった」というのは、「降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その4)」の中の《館長のコメント⑯》における「そのとき実際に聴いた渡辺知明さんの朗読は、確かに手馴れた感じの『語り口』ではあった」という部分に対応している。

 もちろん、その時の渡辺知明さんの「手馴れた感じの『語り口』」は、私が当時から目指していた本来の「自然な語り口」にはまだまだ達していなかった。そこで、渡辺知明さんがその「自然な語り口」を目指して頑張って欲しいというエールを込めて「とても自然な語り口として良かった」と書いたわけである。

 しかし、今回の一連の渡辺知明さんの「感想文」や「少しくわしい感想文」による限り、当時の私の「とても自然な語り口として良かった」という評価とエールは、渡辺知明さんにとっては却って不本意だったのではなかったかと思っている。渡辺知明さんは、ご当人のいわば渡辺知明流の不自然な「語り口」の方に突き進んでしまったようだからである。

 また、何か良いところがあれば、極力、その点を指摘したはずの私が、この「牡蠣」の朗読においてこれ以外のことを全く何も書いていないということは、渡辺知明さんの朗読が《館長のコメント⑯》において「全体的に平板でイメージの喚起力がなく、音声言語による表現的な厚みも高さも深みもなかった。台本とした文学作品の内容的な面白さも十分に表現されていなかった。一言で言えば、芸術的な感動に欠けた面白味のない朗読だったのである」と書いたことを裏づけている。


《アンケートの手書き文章B》

「2.檸檬
 朗読は演奏(クラシック演奏)である、というコメントには全く賛同します。20分は少し長かった。」

《館長のコメントB》

 最初の「牡蠣」の朗読でかなり眠くなっていた私は、次の「檸檬」の朗読でついにウトウトとしてしまった。観客の半数近くが居眠りの姿勢でいたことに気がついたのは、この「檸檬」の朗読のときだった。朗読していた渡辺知明さんも、そういう会場の雰囲気に気がついていたようだったので、私もつい「20分は少し長かった」と本音を書いてしまったとみえる。本当は「少し長かった」どころではなく「かなり長かった」と感じたのである。

 しかし、梶井基次郎の「檸檬」のような名作を、聴き手に長く感じさせる朗読というのはいかがなものであろうか。まさに、私が《館長のコメント⑯》で書いたような「全体的に平板でイメージの喚起力がなく、音声言語による表現的な厚みも高さも深みもなかった。台本とした文学作品の内容的な面白さも十分に表現されていなかった。一言で言えば、芸術的な感動に欠けた面白味のない朗読だったのである」というような朗読だったことを裏づけている。


《アンケートの手書き文章C》

「3.浦島さん
 大変面白く聴きました。40分は必ずしも長くはなかった。作品の内容も影響するのですね。」

《館長のコメントC》

 たしか「檸檬」の朗読の後に、休憩があったと思う。それで生き返った私は、休憩後の「浦島さん」の朗読はちゃんと聴けたと思う。この《アンケートの手書き文章C》を読んで、これを書いたときの私の気持がある程度は思い出されてきた。

 今、そのときの気持を端的に表現すれば、①やはり太宰治のこの作品は面白い、②ただし渡辺知明さんの朗読はその作品本来の面白さを十分には表現できてはいない、③しかし太宰治の作品の面白さのお蔭で40分間は何とか眠くならずに保たせることができた、④文学作品の面白さに助けられた朗読だった、ということになるであろうか。

 以上のような本音を、いろいろと配慮してアンケートに書いた結果が「大変面白く聴きました。40分は必ずしも長くはなかった。作品の内容も影響するのですね」という表現になったわけである。


《アンケートの手書き文章D》

「企画全体についての感想・意見
 朗読の間に適当なトークを混える構成はとてもよかった。そのトークの中に音声で表現するだけでは理解しにくい言葉を解説するのもよかった。私も朗読の実技と理論を研究しているのですが、今回はいろいろと参考になりました。感謝しています。」

《館長のコメントD》

 この部分は、渡辺知明さんの朗読そのものには「手馴れた感じの『語り口』」以外の良いところを見い出せなかった私が、何とかそのときの独演会の中に良いところを見い出そうと、苦心して書いたような記憶がある。



《おわりに》

 渡辺知明さんは、今回のアンケート用紙の画像を、私が記した「降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その4)」の「参考資料」としてご当人のブログに貼りつけたようである。これが、いかなる意味で「参考資料」になる、と渡辺知明さんが考えたかは、私にとっていささか不可解ではある。

 このアンケートの文章を、文法的なレベル(=《語義的な意味》)ではなく、その背後にある《内容的な意味》において読み取れば、少なくとも渡辺知明さんの言い回しに有利にはたらく「参考資料」にはならないことは明白なのだから・・・。まったく渡辺知明さんは、変わった人である。

【以 上】

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