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館長の朗読指導メモ 58/降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その5/最終回)〜渡辺知明さんの「感想文」は当人の心の内を露(あらわ)にする〜

館長の朗読指導メモ 58   (戦後68年08月05日)



降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その5/最終回)

〜渡辺知明さんの「感想文」は当人の心の内を露(あらわ)にする〜



《館長からの事前コメント》

 渡辺知明さんが、2013年6月30日付けで、彼のTwitterに私に関して書いた文章を流した。私が2013年6月28日に調布市文化会館「たづくり」で行なった「東百道・講演と朗読の会」に対する、ご当人の「感想」を書いたものだという。

 この「感想」文は短文でもあり、内容的にも論評とはとてもいえないものだったので、私はこれを「論評」とカッコをつけて略称して応答した。しかし、渡辺知明さんが繰り返しこれはただの「感想」にすぎないと弁明しているので、今後、渡辺知明さんのこの「論評」のことを「感想文」と改称することにする。

 その渡辺知明さんの「感想文」が、今回、渡辺知明さんと私との間で何回か応答を繰り返したそもそもの発端である。つまり、先に仕掛けてきたのは渡辺知明さんだという事実を、ここに明記しておく。

 渡辺知明さんは、今回、今度はご当人のブログに少々長い文章を再び流すにいたった。「『東百道の講演と朗読』についての渡辺知明のTwitter発言の解説」(http://khyogen.exblog.jp/20504384/)という標題の文章がそれである。これも内容的にはただの個人的な感想に過ぎないものなので、私はこれからコメントや反論をしていくに当たって、その文章を「少しくわしい感想文」と略称することにする。

 その「少しくわしい感想文」も、いかにも渡辺知明さんらしい言い回しによる「感想」=「悪口」が主である。しかし、前回の「感想文」に比べれば確かに「少しくわしい」。いく分かは論拠(?)らしいものも出てきている。それだけに、私の方もコメントや反論も、材料が増えてきたから、いくらかやりやすくなった。

 渡辺知明さん相手の不毛な応答は、前回で終わりにしようと思ったのだが、先に仕掛けた渡辺知明が再びこのような「少しくわしい感想文」を書き流してきたので、それに対するコメントや反論を記すことにした。とにかく「降りかかった火の粉は払わねばならぬ」のである。

 渡辺知明さんのように、事実や実体ではなく、言い回しによって読み手をミスリードさせようとする書き手に対しては、読み手の方々にその事実や実体をよく知ってもらうために、書かれている事柄の全体像を明らかにすることから始めなければならない。私のコメントが意外に長くなった理由の一つはそこにある。さらに、それだけでは私の貴重な時間を割く意味が無いので、このブログの読み手の方々のためにできるだけ朗読そのものに対する私の考えを盛り込むことに努めた。私のコメントが意外に長くなった理由のもう一つはそこにある。

       

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【前回の続き】


《渡辺知明さんの文章⑳/番外篇〜書名と宣伝文句〜》

書名『朗読の教科書』
宣伝文句①「文部科学省学習指導要領準拠」
宣伝文句②「社団法人 日本朗読検定協会公認」

《館長のコメント⑳》

 今回の私からのコメントを終えるに当たって、渡辺知明さんの「少しくわしい感想文」のベースとなっている渡辺知明さんの朗読に関する発想や考え方や精神についての問題点を指摘しておく。

 渡辺知明さんは《渡辺知明さんの文章⑧》において、私が今回の一連の渡辺知明さんの「感想文」の「根拠」を問うたのに対し、渡辺知明さんは私が「批評の根拠とする理論を示せというので、拙著『朗読の教科書』の参照ページを加えた」などと書いている。つまり「批評」の「根拠」そのものではなくて、渡辺知明さんが自分の「批評の根拠とする理論」を、ご当人の近著である『朗読の教科書』の参照ページで示しているわけである。

 すなわち、渡辺知明さんは他人の理論や朗読に対する「批評」=「評価」を、ご当人が考えた「理論」を根拠に行なっている、ということになる。一般的に「批評」の「根拠」といえば、証拠としての「事実」を示す《実証》か、あるいは論拠としての「論理」を示す《論証》か、を指すのが常識である。ところが、渡辺知明さんは、私が「根拠」を示せといった言葉を、勝手に「批評の根拠とする理論を示せ」と言い換えて、それに関するご当人の「理論」(?)を示すことでお茶を濁している。しかも、その「理論」(?)そのものではなく、それが書かれているとご当人が主張する近著のページ数で示している。

 どうやら、渡辺知明さんは、客観的な「根拠」あるいは《実証》や《論証》という言葉と、ご当人が考えたに過ぎない「理論」という言葉の区別さえつかないようである。この点を、敢えて渡辺知明さんに分かりやすいように言い換えれば、私は、今回、渡辺知明さんが主張し提示したご当人の「理論」の「根拠」を示せといっているのである。現実的な《実証》あるいは論理的な《論証》という「根拠」を、である。

 逆に言えば、渡辺知明さんはご当人の「批評」の「根拠」を示すことができず、せいぜい、ご当人が主観的に考えた「理論」を示すことしかできなかったのかも知れない。したがって、その場合には、もし渡辺知明さんが考えた「理論」に問題があれば、自動的に、その「批評」=「評価」にも問題がある、という結論にそのまま直につながっていく。さらに言えば、もし渡辺知明さんの「理論」に誤りがあれば、その「批評」=「評価」そのものが誤りであり、完全にひっくり返ってしまう、ということにもなりかねないのである。

 今回の一連の私のコメントや反論において、すでに、渡辺知明さんの「理論」は、①その根本的な概念(「本質」「語り口」など)において誤りがあること、また、②「語り口」の根幹である「イントネーション」においても大きな誤りがあること、さらに、③何よりも渡辺知明さんの文学作品に対する「認識」やそれを朗読するさいの「表現」に関する考察がほとんど文法的なレベル(=《語義的な意味》)の段階にとどまっていること、などを《論証》的に明らかにしてきた。

 この程度の杜撰で粗雑な「理論」(?)を「根拠」(?)に、他人の理論や朗読を「批評」=「評価」すること自体が問題なのだが、渡辺知明さんの場合にはまだ別の問題がある。

 渡辺知明さんがご当人の「批評の根拠とする理論」を展開しているという近著の書名は『朗読の教科書』といい、その表紙には「文部科学省学習指導要領準拠」と「社団法人 日本朗読検定協会公認」という宣伝文句が添えられている。今回の私からのコメントを終えるに当たって、番外篇として、これらについての問題点を指摘することにしたい。

 渡辺知明さんの近著の書名『朗読の教科書』と宣伝文句「文部科学省学習指導要領準拠」を組み合わせれば、渡辺知明さんの近著は、渡辺知明さんの主観においては、「文部科学省」の「学習指導要領」に「準拠」しようと意図して書かかれた「朗読の教科書」ということになる。渡辺知明さんが、このような書名と宣伝文句を使って、小学校や中学校の先生方にご当人の近著を何とか売り込みたいという、商売的な意図は分からないではない。

 しかし、こういう書名や宣伝文句は、少なくとも朗読を芸術としてとらえ、芸術としての朗読に真剣に取り組んでいる人間には、根本的な違和感をもたらすことになる。果して「文部科学省」の「学習指導要領」に「準拠」しようと意図して書かかれた「朗読の教科書」などに展開された「理論」(?)が、芸術としての朗読の理論にふさわしいか、という根本的な違和感である。芸術としての朗読のための理論書は、日本の現行の中学受験や高校受験のための教科書や参考書などとは、目的も内容も全く異なるのである。

 これを、朗読に深く関係している「文学」に置き換えて見ると、そのことがより明らかになる。すなわち、「文部科学省」の「学習指導要領」に「準拠」しようと意図して書かかれた「文学の教科書」などに展開された「理論」などが、芸術としての文学の理論にふさわしいか、というように。これに違和感を感じないようでは、感じない方の芸術的感性がよほどおかしい、と言わざるを得ない。

 少なくとも、私は、「文部科学省」の「学習指導要領」に「準拠」しようと意図して書かかれた朗読の理論(?)などは、願い下げである。渡辺知明さんは、果して、ご当人の朗読の理論(?)が「文部科学省」の「学習指導要領」に「準拠」するべきだと考えているのだろうか? さらに一般化して言うならば、文学ひいては芸術というものにかかわる理論が「文部科学省」の「学習指導要領」に「準拠」するべきだと本気で考えているのだろうか? 

 朗読を「文部科学省」の「学習指導要領」などに「準拠」させようとする発想や考え方や精神、あるいはまた、そのような発想や考え方や精神の下に書かれた朗読の理論(?)などは、朗読を「文部科学省」の文化政策の下に統制しようとする理論(?)だ、と疑われてもしかたがないであろう。芸術としての朗読に真剣に取り組んでいる朗読者の発想や考え方や精神、あるいはまた、そのような発想や考え方や精神の下に書かれた朗読の理論との間には、深くて大きな隔たりがあることは明白である。

 それだけではない。渡辺知明さんの近著には、これらに加えてさらに「社団法人 日本朗読検定協会公認」という宣伝文句がついている。私は「社団法人 日本朗読検定協会」という団体がいかなる存在かは知らない。しかし、先ず「朗読」を「検定」するというこの団体の発想や考え方や精神そのものに大きな違和感を抱かざるを得ない。芸術としての朗読は、漢字や算数や英語とは違い、そもそも「検定」などというものの対象にすること自体がふさわしくないのである。これを「文学」を「検定」する、あるいは「芸術」を「検定」すると言い換えたら、そういう発想や考え方や精神のおかしさが、より明白になるのではないか。

 とにかく、渡辺知明さんの「文部科学省」の「学習指導要領」に「準拠」しようと意図して書かかれた『朗読の教科書』なるものは、その「社団法人 日本朗読検定協会」という「朗読」を「検定」する団体から「公認」されているらしい。すなわち、この「社団法人 日本朗読検定協会」という団体が行なう「朗読」の「検定」は、「文部科学省」の「学習指導要領」に「準拠」しようと意図して書かかれた『朗読の教科書』に基づいて、すなわち、そういう発想や考え方や精神によって考案された朗読の理論(?)に基づいて、行なわれるということらしい。

 そのような「朗読」の「検定」が、あるいはまた、そのような「朗読」の「検定」を行なおうとする発想や考え方や精神が、芸術としての朗読から深く大きく隔たっていることは明白である。そんなに「検定」したいと思うなら、先ず、ご当人たちが行なっている「検定」そのもの、あるいはまた、ご当人たちが「公認」したという渡辺知明さんの朗読の理論(?)そのものを「検定」することから始めるべきであろう。もっとも、この場合は「検定」という言葉は使わない。その場合は、一般的には学問的な「検証」(これには事実的な《実証》と論理的な《論証》の2種類がある)という言葉を使うのであるが。



《おわりに〜芸術としての朗読に取り組んでいる朗読者の皆さんへ〜》

 日本の朗読文化は、まだ歴史も浅く、今のところはまだ文化的な蓄積も少ない。また、もともと朗読という芸術分野は、風呂敷のように色々なタイプやスタイルをすべて包み込むような大きな包容力があり、茫漠といっても差し支えないほどの懐(ふところ)の深さを持っている。

 そのため、朗読に真剣に取り組んでいる人間は、つい何らかの権威や基準に縋(すが)りついて、現在の自分の力量や水準や立ち位置を確認してみたい、という誘惑にとらわれやすい。特に若い世代の朗読者にはその傾向が強いと思われる。そういう気持は、若い頃から現在にいたるこれまでの長い時間帯を、一貫して独学で通して来た私には、痛いほどよく分かるつもりである。

 しかし、だからといって、つまらない虚偽的な権威や、レベルの低い不確かな基準などに、安易に縋(すが)りつくことは、学問や芸術の道を歩む人間にとって、時には致命傷を負うような大失敗につながりかねない。もっと自分の勉学や研究や修練に自信をもって、自立自尊の精神を大切にして、芸術としての朗読の道を進んでいっていただきたい。

 ただし、自立自尊というのは、自己中・自我流とは違う。その意味で、朗読の初歩的な段階では指導者に教わることも必要であろう。しかし、その場合でも、良い指導者を選ぶことが大切である。朗読が良い台本を選ぶことから始まるように、朗読の上達も良い指導者を選ぶことから始まるのである。芸術としての朗読は、未知の領域を探検することに似ている。ある段階までは、道案内人も必要だが、その場合にも、良い道案内人を選ばないと、とんでもないところに迷い込むことになりかねない。しかも、その結果は、本人自身が背負わなければならないのである。

 また、同じことは参考にすべき朗読の理論についても言える。未知の領域の探検には、ある段階までは、すでに分かっている部分の地図や案内書を参考にすることも必要であろう。しかし、その場合でも、良い地図や案内書を選ぶことが大切である。良い地図や案内書を選ばないと、とんでもないところに迷い込むことになりかねない。しかも、その結果は、本人自身が背負わなければならないのである。

 同時に、同じ志をもつ仲間と勉強会や研究会などをつくって相互啓発に努めたり、たとえ小規模であっても自前の朗読会を開催して観客の感想を真摯に聴いたりすることも大切である。そして、あるレベルまで上達したら、思い切って朗読の指導を始めることをお勧めする。朗読を指導して、自分の実力を他人(朗読的な後輩)の前にさらしてみるのである。もちろん失敗もあり得る。しかし、他人(朗読的な後輩)を指導することは、同時に、自分自身が学ぶことでもある。

 その場合、是非、心にとめておいていただきたいことは、一般の日本人は総て、日本語(の音声言語)の達人であるという事実、これである。たとえ朗読はできなくとも、朗読を聴く耳はもの凄く高いレベルにあるという事実、これである。そして、他人(観客)に自分の朗読を聴いていただくということは、さらには、他人(朗読的な後輩)の朗読を指導するということは、そういう日本語(の音声言語)の達人から自分の朗読を批評され、かつ指導されることでもある、という事実なのである。そういう一般の日本人の耳の方が、なまじ朗読家などと自称する人間の耳よりも、鋭く的確な場合が多い。なまじ朗読家などと自称する人間の耳は、ご当人の主観的な朗読観や朗読理論の先入観に邪魔されて、真っ当な耳でなくなっている場合が多いのである。

 いずれにしても、自立した地道な取り組みの方が、いいかげんな「検定」や「コンクール」などに縋(すが)りつき、その結果に一喜一憂するよりも、どれだけ本当の自分の実になるか分からない。芸術としての朗読に真剣に取り組む朗読者の皆さんには、特に若い世代の皆さんには、真の芸術は自立した精神から生まれるものだということを、是非、心にとめておいていただきたいのである。


【以 上】


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コメント

最終会まで、いろいろと学ばせていただきました。ありがとうございます。

賛同できるご意見もいくつかありました。
まずは、拙著『朗読の教科書』をお読みくださることを期待しております。

http://khyogen.exblog.jp/20504384/

投稿: 渡辺知明 | 2013年8月 5日 (月) 22時52分

 もし、渡辺知明さんが、ご当人の近著を私が読むことを本当に期待しているならば、その前に、先ず、私の方が渡辺知明さんに期待することがある。

 それは、まだ渡辺知明さんの近著が発行される前に、私が私のブログの「館長の『朗読の理論』」欄の中で渡辺知明さん宛てに書いた「館長の『朗読の理論』」8〜14、すなわち「渡辺知明さんのイントネーション論について」(1)〜(7)に対して、内容的な応答を真摯に行なうことである。そもそも、これは、渡辺知明さんから意見を求められたために、私が行なった応答だったのである。そういう私の応答に対して、渡辺知明さんは内容的な応答を何もしないままお茶を濁してしまった。

 したがって、この点に関する渡辺知明さんからの内容的な応答が、これまでの全体的な流れにおいて、先ず最初に行なうべき手順であり、また相手に対する当然の礼儀なのである。ご当人がやるべきことを放置したままで、相手に何かを期待してはならない。

 また、類似のことが、今回の渡辺知明さんの「感想」=「悪口」に端を発した応答についても言える。今回の一連の応答を、今回の渡辺知明さんの「最終会(=最終回)まで、いろいろと学ばせていただきました。ありがとうございます。賛同できるご意見もいくつかありました」といった程度のコメントでお茶を濁せると思うのは間違いである。まして、この程度のコメントを発しただけで、相手に何かを期待してはならない。

投稿: 「日本朗読館」館長 | 2013年8月 6日 (火) 23時02分

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