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館長の朗読指導メモ 57/降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その4)〜渡辺知明さんの「感想文」は当人の心の内を露(あらわ)にする〜

館長の朗読指導メモ 57   (戦後68年08月02日)



降りかかった火の粉は払わねばならぬ(その4)

〜渡辺知明さんの「感想文」は当人の心の内を露(あらわ)にする〜


《館長からの事前コメント》

 渡辺知明さんが、2013年6月30日付けで、彼のTwitterに私に関して書いた文章を流した。私が2013年6月28日に調布市文化会館「たづくり」で行なった「東百道・講演と朗読の会」に対する、ご当人の「感想」を書いたものだという。

 この「感想」文は短文でもあり、内容的にも論評とはとてもいえないものだったので、私はこれを「論評」とカッコをつけて略称して応答した。しかし、渡辺知明さんが繰り返しこれはただの「感想」にすぎないと弁明しているので、今後、渡辺知明さんのこの「論評」のことを「感想文」と改称することにする。

 その渡辺知明さんの「感想文」が、今回、渡辺知明さんと私との間で何回か応答を繰り返したそもそもの発端である。つまり、先に仕掛けてきたのは渡辺知明さんだという事実を、ここに明記しておく。

 渡辺知明さんは、今回、今度はご当人のブログに少々長い文章を再び流すにいたった。「『東百道の講演と朗読』についての渡辺知明のTwitter発言の解説」(http://khyogen.exblog.jp/20504384/)という標題の文章がそれである。これも内容的にはただの個人的な感想に過ぎないものなので、私はこれからコメントや反論をしていくに当たって、その文章を「少しくわしい感想文」と略称することにする。

 その「少しくわしい感想文」も、いかにも渡辺知明さんらしい言い回しによる「感想」=「悪口」が主である。しかし、前回の「感想文」に比べれば確かに「少しくわしい」。いく分かは論拠(?)らしいものも出てきている。それだけに、私の方もコメントや反論も、材料が増えてきたから、いくらかやりやすくなった。

 渡辺知明さん相手の不毛な応答は、前回で終わりにしようと思ったのだが、先に仕掛けた渡辺知明が再びこのような「少しくわしい感想文」を書き流してきたので、それに対するコメントや反論を記すことにした。とにかく「降りかかった火の粉は払わねばならぬ」のである。

 渡辺知明さんのように、事実や実体ではなく、言い回しによって読み手をミスリードさせようとする書き手に対しては、読み手の方々にその事実や実体をよく知ってもらうために、書かれている事柄の全体像を明らかにすることから始めなければならない。私のコメントが意外に長くなった理由の一つはそこにある。さらに、それだけでは私の貴重な時間を割く意味が無いので、このブログの読み手の方々のためにできるだけ朗読そのものに対する私の考えを盛り込むことに努めた。私のコメントが意外に長くなった理由のもう一つはそこにある。

       

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【前回の続き】


《渡辺知明さんの文章⑯》

「(7)イントネーション、〜〜文の単位では、主部・述部も、修飾語と被修飾語の関係も、抑揚として表現されていないから、全体が単調になって眠くなる。実際に眠っている人を数人見かけた。『朗読の教科書』153ページ」

《館長のコメント⑯》

 いよいよ、問題の「イントネーション」のところまで来た。ここで、渡辺知明さんがかつて私に提示した「下り階段」のイントネーションについて、さらなる展開を要約して書いてくれるのかと思ったが、それはなかった。しかし、その基本的な考え方は、次の渡辺知明さんの言葉「文の単位では、主部・述部も、修飾語と被修飾語の関係も、抑揚として表現されていない」などと書いているところから、さして進展していないことがうかがわれる。

 こんなことでは、渡辺知明さんが《渡辺知明さんの文章⑮》でアクセントについて書いた「アクセントが高低か強弱かという理念」という言い方にひっかけて、渡辺知明さんには「イントネーションが高低か強弱かという理念」がないようだが、それでよろしいのか? などと思わず半畳を入れたくなってしまう。

 まあ、そんな冗談はともかく、ここでも渡辺知明さんが内容的に「下り階段」のイントネーションと似たような間違ったことを主張していることは明らかである。私は、当然「自然な語り口」の一環として「主部・述部も、修飾語と被修飾語の関係」をも、状況に応じて「抑揚として表現」してもいた。ただし、それは、渡辺知明さんの独善的な理論(?)に沿ったものではなかったはずである。そんなことは当然である。したがって、渡辺知明さんの独善的な耳には「主部・述部も、修飾語と被修飾語の関係も、抑揚として表現されていない」ように聴こえただけに過ぎない。

 したがって、この部分の渡辺知明さんの「感想」に対しては、前回の《館長のコメント⑮》で書いた部分の「アクセント」を「イントネーション」に差し替えるだけで十分だと思う。

 すなわち、当日の私の朗読の「語り口」が「自然な語り口」であったとするならば、渡辺知明さんがこういうことを主張すればするほど、渡辺知明さんの主張する「イントネーション」の考え方が、われわれ日本人が現実の場で表現している当たり前の日本語の「イントネーション」から遊離していることを示している、と。

 それよりも、ここで私が問題にしたいのは、渡辺知明さんが書いた、その次の文章である。曰く「・・・、全体が単調になって眠くなる。実際に眠っている人を数人見かけた」と。この文章も、渡辺知明さんの言い回しによって、事実が歪められ、渡辺知明さんの都合の良いように使われている。その種明かしをしてみよう。

 朗読会を聴きに行った人間ならよく体験していると思うが、どのように優れた朗読を上演する朗読会でも、観客が100人以上も集まれば、たいていその「数人」くらいは居眠りをしているものである。その時に、いろいろの事情でたまたま心身が疲れている人もいるだろう。また、朗読の観客には高齢者の比率が高いから、それに応じて居眠りする人間の比率が高くなっている可能性もある。さらには、その朗読会の朗読がご当人の朗読観や朗読理論に合わないために無意識の拒絶反応を起こしているうちに、いつの間にか眠くなって眠ってしまう人もいるだろう。あるいは、もともと、人間の穏やかな声は、眠気を誘う作用があるのかも知れない。母親が子守唄を歌う声には、明らかにそういう作用がある。

 この傾向は、音楽会や能狂言、演劇(新劇や旧劇を問わず)などの演奏会でも同じである。こういう演奏会では、観客が100人以上も集まれば、たいていその「数人」くらいは居眠りをしている。私なども、かつて、人間国宝であった鼓の名手の演奏を聴きながら、実に心地よく眠ってしまったことがある。

 そういう事実は、永年、朗読や朗読会にかかわってきた渡辺知明さんなら、体験的にも十二分にご承知のはずである。そういう一般的な事実を知っていながら、渡辺知明さんは「実際に眠っている人を数人見かけた」という事実を、渡辺知明さんの個人的な朗読観ないしは朗読理論に基づいて感じた「全体が単調になって眠くなる」ということと、あたかも因果関係があるかのように結びつけて書いているのである。

 他方では、先に紹介したように、渡辺知明さんとはまったく違って「高瀬舟に入り込み涙が流れました」「先日のセミナーは本当に良い企画だったと思います。・・・・・・朗読は実に奥深いですね」「人間が人間を語っている。心にじんじんと入り込んでくる。そんな気持にさせられました」というように、私の朗読を熱心に、精神を集中して聴いてくださった観客が多数いたのである。

 それにしても、まったく、渡辺知明さんもついにこんなことまで、かなりきわどい言い回しによって書くようになったかねえ、という想いもある。そこで、この際、私もこの渡辺知明さんの「感想」のレベルに自分を合わせて、以下の思い出をここに書いてみようと思う。このようにレベルの低いことを書くのは、全く私の意に沿わないのだが、まあ「歯には歯を、目には目を」という諺もある。ここまで書かないと、渡辺知明さんはご当人が他人に対してどういうレベルの「感想」を書いているのか自覚できないのではないか、という懸念もあって書くのである。

 約10年ほど前であろうか、まだ私が本格的な朗読指導を始める前のことだったと思う。そのころ交流していた朗読の先達に誘われて、初めて渡辺知明さんの朗読の独演会を聴きに行ったことがある。それ以前から、渡辺知明さんは「イントネーション」とか「プロミネンス」とかいう言葉を多用して他人の朗読の批評(?)をやっていたはずだから、現在のご当人の朗読観や朗読理論(?)の大筋はすでに当時も出来ていたのではないかと思う。

 さて、そのとき実際に聴いた渡辺知明さんの朗読は、確かに手馴れた感じの「語り口」ではあったが、全体的に平板でイメージの喚起力がなく、音声言語による表現的な厚みも高さも深みもなかった。台本とした文学作品の内容的な面白さも十分に表現されていなかった。一言で言えば、芸術的な感動に欠けた面白味のない朗読だったのである。

 そこで、しばらくするうちに、私は眠るのをこらえるのに必死になってしまった。何しろ、そのときの会場は40人前後の観客数だったし、会場の照明は通常の明るさだったから、眠ったりしたら目立ってしまい、朗読している渡辺知明さんに失礼だと思ったからである。しかし、ついウトウトとしてしまったとみえる、フッと気がついて慌てて眼を開け、思わず周りを見回したのである。周囲の観客に不快な思いをさせたのではないかと、懸念したからである。

 ところが、私が心底驚いたことには、その会場の40人前後の観客の半数近くが、背中を丸くして、頭を前の方に垂らしていたのである。それはちょっと異様な光景であった。観客の大半は、私と違って、渡辺知明さんの朗読観に賛同するいわゆる渡辺知明さん的朗読の同調者であったはずである。したがって、渡辺知明さんの朗読観や朗読理論(?)に反発して居眠りする観客などは圧倒的な少数派であったはずである。そういう観客の半数近くが、明らかに居眠りの姿勢を示していたのである。その時は、渡辺知明さんも観客のそういう様子を感知していたことが、朗読しているときの渡辺知明さんの顔つき(顔の表情)にかなり露(あらわ)に出ていた。

 その事実からも、その日の渡辺知明さんの朗読がいかに感動がなく、面白味もないものだったか、ということが想像してもらえると思う。私は、それ以前にも、それ以後にも、何回となく他の朗読者の朗読会を聴きに行ったことがある。しかし、あのときのように異様な光景には、それ以前にも、それ以後にも、全く遭遇したことがない。

 私は、それ以外には、一度も渡辺知明さんの朗読を聴いたことがない。また、それ以来、私は渡辺知明さんの朗読にほとんど関心を持つことがなくなったから、なぜそのときの朗読には感動も面白味もなかったかを分析することもしなかった。当然、私の感想をネットに書き流すこともしなかった。

 しかし、今回の渡辺知明さんとの一連のやりとりを通じて思い当ったことがある。それは、渡辺知明さんの文学作品の読み込み(認識)が、文法的なレベル(=《語義的な意味》)にとどまっているということである。当然、それは渡辺知明さんの朗読(表現)そのものも、文法的なレベル(=《語義的な意味》)にとどまっているということに密接につながっている。そのことが、渡辺知明さんの朗読には、芸術的な感動や面白味が全く欠けている原因になっているのではないか、と思われるのである。

 とまれ、私は、その後の約10年間で、渡辺知明さんの朗読がどのくらい上達したかを全く知らない。あるいは、ひょっとして当時のレベルからは飛躍的に上達しているのかも知れない。しかし、今の渡辺知明さんの朗読が約10年前のあのときに比べてたとえどんなに上達していようと、観客が100人以上も集まれば、そのうちの「数人」くらいは、きっと今でも渡辺知明さんの朗読を聴きながら「眠っている」だろうということは容易に想像できるわけである。

 まったく、いくら「歯には歯を、目には目を」といっても、今回のように渡辺知明さんの「感想」のレベルに自分を合わせて文章を書くことなど、決して私の本意ではない。今後、私は二度とこの手の文章を書いて自分のブログの品格を落すことのないように、心がけたいと思っている。



《渡辺知明さんの文章⑰》

「(8)プロミネンス、〜〜「黄金風景」で作者の考え方についての解説があったが、実際のよみでは、何れかの語句や文が強調されて、作品の展開の伏線になるはずであるが、ほとんどなかった。『朗読の教科書』255ページ」

《館長のコメント⑰》

 この点も、渡辺知明さんの他人の朗読を聴く場合の耳の問題である。現実には、私の朗読において「実際のよみでは、何れかの語句や文が強調されて、作品の展開の伏線にな」っていた、というように聴いていただいた観客の方が圧倒的に多かったと思われる。


《渡辺知明さんの文章⑱》

「(9)語り構造、〜〜全体の印象は、文学作品の表現ではなく、書かれた作品の「文章」を読み上げている感じである。というのは、作品は作者が書いた文章であるということから脱しないからだ。「語り手」が自らの思いを語り、登場人物の思いも語るということになれば、作品の立体的な表現になるだろう。『朗読の教科書』277ページ」

《館長のコメント⑱》

 こういう基本的な点については、当日の私の講演の最後に「朗読の上達ステップ」として説明しておいたし、何よりも拙著『朗読の理論』のなかでも体系的に論じている。すなわち、ステップ1「読者の立場に立った朗読」、ステップ2「登場人物の立場に立った朗読」、ステップ3「原作者の立場に立った朗読」、ステップ4「演出者の立場に立った朗読」、ステップ5「朗読者の立場に立った朗読」、ステップ6「聴き手の立場に立った朗読」である。

 渡辺知明さんが今回の「少しくわしい感想文」で書いたような、断片的かつ言葉足らずの表現で「『語り手』が自らの思いを語り、登場人物の思いも語るということになれば、作品の立体的な表現になる」などというレベルは、とうの昔に、しかもはるかに高く超えてしまっている。渡辺知明さんも、相手の音声言語や文字言語の《内容的な意味》を、そして、何よりも相手の朗読をもう少しキチンと客観的に認識することができるようになれば良いのだが。


《渡辺知明さんの文章⑲》

「(10)語り口と感情〜〜作品の書き出しから作品の展開において、「語り手」の感情は揺れ動いて、変化していくものである。その感情の変化を「語り口」というわけである。日常の話し方で作品を読んでも作品が、「語り手」によって語られるという表現はできないのである。『朗読の教科書』314ページ」

《館長のコメント⑲》

 この渡辺知明さんの文章を読むと、先ず第一に、渡辺知明さんは「語り口」という言葉の意味を全く間違ってとらえていることがよく分かる。

 渡辺知明さんは「語り口」を次のように定義づけている。曰く「作品の書き出しから作品の展開において、『語り手』の感情は揺れ動いて、変化していくものである。その感情の変化を「語り口」というわけである」と。これをつづめていえば、渡辺知明さんは「語り口」を「感情の変化」ととらえていることになる。
   「語り口」=「感情の変化」

 このように「語り口」を「感情の変化」と解釈するのは渡辺知明さん特有の珍説としか言いようがない。渡辺知明さんは、理論的にも現実的にも滅茶苦茶なこんな珍説を、いったいどうやって思いついたのであろうか。あるいは、他人のどういう論文から引っ張ってきたのであろうか。まったく、信じられない論理感覚であり、現実感覚である。

 ところが、その同じ渡辺知明さんが、その次に「語り口」に比較的近い言葉を使っている。曰く「日常の話し方で作品を読んでも作品が、「語り手」によって語られるという表現はできない」と。ここで渡辺知明さんが書いている「話し方」という言葉、実は、この言葉の方が「語り口」に近い意味をもった言葉なのである。

 おそらく、ここで渡辺知明さんは「日常の語り口」という意味のことを無意識に書きたくて、思わず「日常の話し方」と書いてしまったのだろう。つまり、この「話し方」が「語り口」に近い言葉だということを、渡辺知明さんは無意識に表白してしまっているのである。この「話し方」が「語り口」に近い言葉だということが分かれば、
  「話し方」=「感情の変化」
ということの間違いは誰でも分かるであろうから、
  「話り口」=「感情の変化」
などという珍説が全く見当違いであることも誰でも判定できるはずである。

 それでは、本当の意味での「語り口」とは何であろうか? 犯罪者の犯罪方法の《具体的なあり方》のことを、一般的に「犯人の手口」あるいは「犯行の手口」という。それと同じように、人間が音声言語を表現する方法(これが渡辺知明さんがここで書いている「話し方」である)の《具体的なあり方》のことを「語り口」というのである。
  「話し方」=「音声言語を表現する方法」
  「話り口」=「音声言語を表現する方法の《具体的なあり方》」

 さて、以上のような混乱し切った論理感覚の持ち主である渡辺知明さんが、さももっともらしく「日常の話し方で作品を読んでも作品が、『語り手』によって語られるという表現はできないのである」などと書いている。いったい何を言っているのだろうか。

 ここで渡辺知明さんが書いている「日常の話し方」という言葉は、果してどのような「話し方」として渡辺知明さんはイメージしているだろうか。大まかに、二通りのイメージが考えられる。一つは、①まったく普通の日常会話である。親しい知人友人と、普通の状態でとりとめのない会話を楽しむときの「話し方」である。他の一つは、②私がいうところの現実の場に即して「自然な語り口」で語る「話し方」である。

 たとえば、文学作品でも時代小説の場合は、殺人や斬り合いなどは、さほど珍しくはない。そういう場面を①の「話し方」で語ってしまったら、確かに文学作品の朗読表現にはならないであろう。しかし、その場面を②の「話し方」で語った場合には、それこそ真っ当な朗読表現になるのである。

 すなわち、あたかも現実に殺人や斬り合いが行なわれている場で、あたかも現実にその殺人や斬り合いの様子を自分が目撃しつつテレビで実況中継するような「話し方」で語った場合には、それこそ真っ当にその場面を表現したような朗読になるのである。そういう②の「話し方」の《具体的なあり方》のことを、私は《自然な語り口》と呼んでいるわけである。

 この《自然な語り口》を、さらに厳密な言い方で表現すると、人間が現実の場で、自分のイメージを、自分の心情に基づいて、自分の言葉で表現するような「語り口」ということになる。私は、文学作品を朗読する際は、このような「自然な語り口」に基づかないかぎり、文学作品を「『語り手』によって語られるという表現はできない」と確信しているわけである。


【次回に続く】

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