館長の朗読日記1326/春並みに暖かな日
館長の朗読日記1326 (戦後69年01月27日 新規)
○春並みに暖かな日(1)
昨日(1月27日)は、春並みに暖かな日だった。朝、雨戸を開けたときに感じた外の空気が、とても柔らかだった。暖かいと感じるまではいかないが、冬の外気の冷たさはなかった。昼が近づくにつれて寒さが薄れ、寒がりの家人でさえ、居間のエアコンを止めるほどであった。ただし、足許を温める電気ストーブは欠かせなかった。
一昨日(1月26日)までに、筑摩全集類聚『太宰治全集』(小説篇は第1巻〜第9巻)の第6巻を読了した。最後に収録されていた『新釋諸國噺』の通読を終えたのである。早速、昨日から、第7巻に突入した。第7巻は「津軽」「惜別」という長編が2作品、それに「お伽草子」という標題の下に中編の4作品が収録されている。
私は、いわゆる文学少年でも文学青年でもなかったから、太宰治の作品もあまり読んでいなかった。ある朗読サークルで、うっかりそのことを話したら、かつて熱烈な文学少女であり、大学の文学部に進み卒論で太宰治を取り上げたという会員に、すっかり(悪い方に)見直されてしまったことがある。まったく、口は禍いの元である。
○春並みに暖かな日(2)
別に、それを意識したわけではないが、今年から始める太宰治シリーズの準備の一環として、太宰治の全作品を通読しているわけである。全作品を通読するのだから、読者としてこれ以上の読書はできない。かつての文学少女で、大学の卒論に太宰治を取り上げたその会員にも、遅ればせながら何とか顔向けが出来ると言うものである。
改めて考えると、朗読に関係する前に私が一人の作家の全作品を読んだといえるのは、夏目漱石くらいのものだろうか。なぜ、夏目漱石の作品に惹きつけられたのか分らない。しかし、若い頃の私が、夏目漱石の作品に惹きつけられたことは、紛れもない事実である。その理由はいずれ解き明かさなければならないと、強く思っている。
後は、宮澤賢治くらいであろうか。否、宮澤賢治はまだ全作品を読んだとは言えない。その他の作家では、ここ4年間の「東百道・講演と朗読の会」で取り上げた芥川龍之介の全作品は確かに読了した。ただし、これは「読んだ」というよりは、必要に迫られて「調べた」という方が適当な読み方ではあるが。実は、太宰治もそうである。
○春並みに暖かな日(3)
必要に迫られて「調べた」という読み方は、本来の文学作品の読み方ではないかも知れない。その意味では、全作品を読んだといっても、必ずしも良い読書とはいえないと思う。しかし、ひと口に「調べた」というような読み方といっても、色々の読み方がある。どのような必要に迫られたのか、その内容にもよる。一概には言えない。
私は、夏目漱石〜芥川龍之介〜太宰治の流れを、明治維新から先の日米大戦にいたる時代における、日本文学の主軸に相応しい存在だと把握している。そして、樋口一葉と宮澤賢治の2作家が、その主軸の両脇で燦然と輝いている存在だと把握している。そういう全体像の下に、それらの作家の全作品を徐々に読み込んでいるのである。
つまり、それらの作家の全作品を辿ることによって、それらの作家の文学思想を読み込んでいっているのである。さらに、そうすることによって、明治維新から先の日米大戦にいたる時代の意味と、その時代を生きた日本人の心のあり様を読み込んでいっているのである。こういう文学作品の読み方があっても良いと私は確信している。
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