館長の朗読日記1476/千葉「風」の朗読レッスン
館長の朗読日記1476 (戦後68年8月03日 新規)
○千葉朗読サークル「風」の朗読レッスン(1)
昨日(8月02日)の9時30分から、千葉朗読サークル「風」の第2期・朗読ステップ4の17回目のレッスンを行なった。今回は、今秋10月に開催する第7回「小さな朗読館・ちば」に向けた、共通レッスン台本「六の宮の姫君」A班、と自由課題(1人1作品)B班の4回目である。今のレッスン台本も後半に入った。
レッスン台本の4回目ともなると、会員の皆さんの朗読表現も慣れてくるし、それぞれの立場においてそれなりに仕上げてくる。それだけに、現時点におけるその会員の到達点と要指導点も鮮明になってくる。指導する立場からは、いく分かやりやすくなる。それぞれの会員に対して指導すべきポイントが絞りやすくなるのである。
レッスンの前に、他のサークルの例を上げて、改めて「高く上に出る」ことと「語りかける語り口」の重要性を強調しておいた。その重要性を本当に理解し納得するには、他人の朗読を聴く耳のレベルを上げなければならないこと。そのためには、自分より上手な朗読者だけでなく、下手な朗読者の朗読を聴くと効果的であること。
○千葉朗読サークル「風」の朗読レッスン(2)
私は朗読する場合のいわゆる「声」や「発声」にはあまりこだわらない。しかし、その朗読者が自分の心情と自分のイメージを自分の言葉で表現する場合の「声」や「発声」になっていない場合には、その意味においてその「声」や「発声」にダメ出しを行なうことはある。気取ったり本気でないような「声出し」には注意をする。
朗読が厳しいのは、聴き手が総て日本語の達人である点である。ピアノ演奏に例えると、聴き手が総てプロのピアノ演奏者であるようなものである。朗読の聴き手は、生まれたときからずっと日本語の音声言語を聴いたり話したりして育ってきた達人である。従って、日本語の音声言語を語り、かつ、聴く耳は正にプロ級なのである。
朗読すべき文学作品の内容をキチンと理解していない朗読。作品世界のイメージと表現主体の心情を自分事(わがこと)として表現する意志を持たない朗読。文学作品の文字言語を自分のイメージと自分の心情において自分の言葉で表現していない朗読。それらは総て聴き手に見抜かれている。朗読は恐い、と自覚すべきである。
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