館長の朗読日記1518/朗読に関する同じような内容の話しを2つ聴いた
館長の朗読日記1518 (戦後68年10月05日 新規)
○朗読に関する同じような内容の話しを2つ聴いた(1)
1つは、遠隔の地で優れた朗読活動を展開している、ある朗読家から聴いた話しである。先日、その方から久しぶりに電話がかかってきた。その電話におけるその方の話題の中心は、最近その方が開催した朗読会であった。そのときは何人かの朗読者と組んで朗読会をやったのだが、ご本人以外は演劇俳優系の朗読者であったという。
ご本人は、朗読で大切なのは文学作品をいかに深く読み込むかである、という考えを持っている。しかし、いっしょにやった他の朗読者たちの関心は、もっぱら音声をいかによく表現するかという点にあったという。朗読でもっとも大切なのは、文学作品を深く読み込むことですよねえ、と私に同意を求めるかのような口ぶりであった。
もちろん、私はその方の考えに全面的に賛同した。もちろん、朗読の基本は、文学作品を解読してその作品世界をいかに深く豊かにイメージするかです、と。それを聴いたその朗読家は、そういうことをすぐに言って下さるのは東さんだけですよ、とため息まじり慨嘆するのであった。その方の慨嘆は日本の朗読の現状に対する慨嘆である。
○朗読に関する同じような内容の話しを2つ聴いた(2)
2つは、ある朗読サークルの会員から聴いた話しである。最近、その会員が10年ほど前に所属していた朗読グループの朗読会を聴いたという。その朗読グループの指導者は、演劇的な朗読を志向している朗読家である。昨年までは、その朗読グループが上演する朗読と自分たちが上演する朗読の違いが、あまりよく分からなかったという。
しかし、その朗読グループの今年の朗読会を聴いて、彼我の朗読の違いが凄くよく分かるようになったらしい。結局、その違いは、文学作品の解読を十分にしないままただ演劇的な表現をしている朗読と、文学作品の深い解読を土台にしてその作品世界を表現している朗読との違いであるという。その違いが、今年は鮮明であったという。
彼我の朗読の違いが、今年になって急に鮮明になったということは考えにくい。昨年までも、彼我の朗読の違いはあったのだが、その会員の耳にはその違いがピンとこなかっただけのことにちがいない。今年になって、その会員の耳のレベルが急速にアップしたために、彼我の朗読の違いが鮮明に聴き分けられるようになったのであろう。
○朗読に関する同じような内容の話しを2つ聴いた(3)
この2つの話しから、次のことが言える。文学作品の解読を基本とする本格的な朗読文化をつくっていくためには、そういう朗読を志向するレベルの高い朗読者や朗読指導者を育成する必要があると共に、そういう本格的な朗読を聴き分け評価することができるようなレベルの高い朗読の聴き手をも育成する必要があること、これである。
私が朗読協力・朗読原案でかかわってきた朗読漫画『花もて語れ』は、そういう文学作品の解読を基本とする本格的な朗読をメインに据えたものである。文学作品をキチンと解読していくと、従来とはまったく違った作品世界が見えてくる。内容の面白さ、ダイナミックな凄さ、そこに籠められた作家の思想の深刻さは驚くばかりである。
この朗読漫画『花もて語れ』を読んだ漫画ファンだけではなく、若い朗読者たちも、文学作品をキチンと解読していくことの面白さ、凄さ、大切さを感じ取ったのではないだろうか。嬉しかったのは、文学者や文芸編集者や文芸評論家や教育関係者(小中学校の国語教師など)の方々にも読まれ、いずれからも高く評価されたことである。
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