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館長の朗読日記1967/船橋「はなみずき」と習志野「茜」の朗読レッスン

館長の朗読日記1967  (戦後72年03月03日 新規)



○船橋朗読サークル「はなみずき」の朗読レッスン(1)

 昨日(3月02日)の午後3時00分から、船橋朗読サークル「はなみずき」の朗読レッスンを行なった。会場は船橋市海神公民館ではなく船橋市中央公民館である。今回は第2期・朗読ステップ5の第14回目。本来なら4月に開催すべき朗読発表会を2ヶ月先の6月に延期したが、その朗読勉強会に向けた2回目の朗読レッスンである。

 このサークルの朗読発表会は、長い作品を会員全員が少しづつ読み継ぐ形式で上演する。今回は、前半と後半に別々の作品を上演することにしている。いわば2本立て公演である。今回は、後半に上演する作品のレッスンをした。今回は、特に、文学作品の表現主体が誰に向って表現しているのか(語りかけているのか)とを問題にした。

 文学作品の表現主体は2種類しかない。作品世界の中に登場してセリフを表現する登場人物。そして、原作者(作品によっては原作者の分身である登場人物の1人)として地の文を表現する原作者。この2種類である。登場人物が表現するセリフには2種類ある。他の登場人物に語りかけるセリフと、自分自身に語りかける独り言である。



○船橋朗読サークル「はなみずき」の朗読レッスン(2)

 原作者が表現する地の文にも2種類ある。1つは、原作者が観客に直に語りかける地の文である。他の1つは、原作者が登場人物の1人に視点(心情)を転換し、あたかも登場人物自身であるかのように観客に語りかける地の文である。今回レッスンした作品は、その4種類の表現が明確に区別されて表現されている。その事実を指摘した。

 したがって、朗読する方も、その各々を明確に語り分けて表現することに今回のレッスンの重点を置くことを提案した。このサークルの会員たちは、それぞれかなり上達してきている。それに加えて、この4種類の語り分けが明確に出来れば、その朗読表現はかなり立体的になって、聴き手をひきつけることができるると考えたわけである。

 しかし、これはなかなかむずかしい。セリフにしても、地の文にしても、朗読者が自分の言葉として、自分の心情として、自分のイメージとして、朗読表現できなければ、この4種類の語り分けが明確にできないからである。当然、これに《間》の問題もからんでくる。今回はレッスン歴10年を超すベテラン会員でもかなり苦労していた。



○習志野朗読サークル「茜」の朗読レッスン(1)

 昨日(3月02日)の午後6時10分から、習志野朗読サークル「茜」のレッスンを行なった。今回は第2期・朗読ステップ3の14回目、今回は、今年6月に開催するこのサークルの朗読発表会に向けたレッスンの2回目である。このサークルの上演形式は1人1作品を原則にしている。ただし3人の会員が1つの作品を読み継ぐ場合もある。

 このサークルは、もっとも新しいサークルである。それでも、現在は第2期の朗読ステップ3である。最古参の1期生はレッスン歴が9年目に入っている。2期生のレッスン歴はまだ3年目だが、新しく入った会員のレッスン歴はさらに短い。したがって、各文節、特に始めの文節(主語)や終りの文節(述語)が下がり気味の会員もまだいる。

 最古参の1期生でも、私がいつも指導している「語りかける語り口」の重要性を本当に理解していない会員は、ときどきこれらの文節(主語や述語)の部分が下がってしまう。あるいは、下げずに上げる場合でも、不自然な上げ方をしてしまう場合がある。指導しても、結局は本人が本当にその気にならなければ身につけることができない。



○習志野朗読サークル「茜」の朗読レッスン(2)

 1人1作品形式の朗読は、朗読者の個性と作品の個性が絡み合い、ぶつかり合い、相互反映し合うものである。そこに語り口や解読の仕方がからんでくるから、なかなか一筋縄ではいかない。作品によってさほど神経質になる必要のない場合もあるが、反対にものすごく繊細に試行錯誤して最適解を探っていかなければならない場合もある。

 この問題は、朗読者の上達レベルにも深く関係している。初心者の場合やレッスン歴がさほど長くない会員の場合は、それほど神経も使わない。神経を使って試行錯誤しながら指導しても、それが朗読表現に反映される度合いが少ないからである。レッスン歴が長いベテラン会員の場合には、こちらの試行錯誤的な指導もいささか気合が入る。

 ただ、相手が自分の言葉で「語りかける語り口」を修得できている場合には、この試行錯誤的な指導もかなり効果があるのだが、それを修得できていない場合には、こちらの独り相撲に終わってしまうことが無きにしもあらずということになる。相手が、こちらの試行錯誤について来れないという状況になりかねないからである。むずかしい。




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