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館長の朗読日記2028/吉本隆明の「なめとこ山の熊」論について

館長の朗読日記2028  (戦後72年07月20日 新規)



○吉本隆明の「なめとこ山の熊」論について(1)

 一昨日(7月18日)に品川朗読サークル「あやの会」で宮澤賢治原作「なめとこ山の熊」の朗読レッスンをおこなった。そのとき会員の一人が私に吉本隆明の著作『宮澤賢治』の1部を紹介してくれた。吉本隆明が「なめとこ山の熊」について論及しているところである。ざっと通読したが、つい色々なことを考えてしまった。

 私は、学生時代から吉本隆明をかなり読んで来た。そして、多くのことを学んだ。朗読に関することでも、吉本隆明の主著『言語にとって美とはなにか』はもちろん、三浦つとむ著『日本語はどういう言語か』に吉本隆明が寄稿した「解説」も大いに参考になった。吉本隆明の文学作品論や文学評論や作家論もほとんど読んでいる。

 当然、この『宮澤賢治』も通読している。しかし、会員が紹介してくれた「なめとこ山の熊」に関する部分はすっかり失念していた。今回、この会員が紹介してくれたお陰で、改めて読むことができた。吉本隆明の優れた部分だけではなく、今の私にとってはもの足りない部分もあることを感じ、ある種の感慨めいたものが湧いた。



○吉本隆明の「なめとこ山の熊」論について(2)

 かつて小林秀雄の『無常といふ事』を初めて読んだとき、当時の私の感性とは隔絶した鋭さを感じて、およびがたしという感慨と同時に、自分とはまったく異質なものに触れたような違和感をもった。この小林秀雄に対する「およびがたし」という感慨と異質的な違和感という想いの原因は、吉本隆明の次の文章で明らかになった。

「いままでなされてきた文芸批評は、どう名づけようと理論ではない。これは、批評としての出来栄とも、主観や党派性とも、かかわりがないことである。文学に関する理論は、言語の解析からはじまるか、具体的な作品の逐次的な解析からはじまる以外にはない、というのが、わたしの到達した結論であった。この結論は、すでに、小林秀雄によって、言及されていた。ただ、それを、実行していないだけだ」三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)所収の吉本隆明寄稿「解説」より

 つまり小林秀雄『無常といふ事』などの文芸批評は、出来栄としては素晴らしいかも知れないが、理論(理論的)ではなかったのである。私は、たとえささやかであっても『朗読の理論』や『宮澤賢治の視点と心象』を初めとする「朗読のための文学作品論」シリーズによって、その「具体的な作品の逐次的な解析」を試みている。



○吉本隆明の「なめとこ山の熊」論について(3)

 今回、品川朗読サークル「あやの会」の会員が紹介してくれた吉本隆明の「なめとこ山の熊」論に対して、私がいささかもの足りないものを感じたのは、この作品に関する吉本隆明の解析が、必ずしも「具体的な作品の逐次的な解析」ではなく、あの小林秀雄ばりの文芸批評の段階にとどまっているように感じられたからである。

 もちろん、私は、現在、私が私の朗読レッスンで作品解説しているレベルの「なめとこ山の熊」論に満足しているわけではない。いつかは、私の「朗読のための文学作品論」シリーズの一環として構想している『宮澤賢治の宗教と文学』(仮題)のなかで、現在の「なめとこ山の熊」論を全面的に補正&拡充しようと考えている。

 既刊の私の単著『朗読の理論』『宮澤賢治の視点と心象』(共に木鶏社発刊)や、私が朗読協力&朗読原案を担当した朗読漫画『花もて語れ』(片山ユキヲ&東百道共著/小学館発刊)を読んで下さった方には、吉本隆明のいうような「具体的な作品の逐次的な解析」が多少なりとも実行されていると感じていただいていると思う。


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