館長の朗読日記2074/八千代「新・みちの会」の朗読レッスン
館長の朗読日記2074 (戦後72年10月29日 新規)
○八千代朗読サークル「新・みちの会」の朗読レッスン(1)
昨日(10月28日)の13時30分から、八千代朗読サークル「新・みちの会」の朗読レッスンをおこなった。今回は、第3期・朗読ステップ3の第2回目、最初のレッスン台本・芥川龍之介原作「毛利先生」の第2回目である。今回は、改めて朗読ステップ3が地の文の朗読レッスンを中心とした段階である旨の説明をした。
また、その地の文を「語りかける語り口」で朗読することを目指した段階であり、その場合は、各文節を立てながら滑らかにつなげていくことを基本とする旨も説明した。その上で、会員1人1人に順々に「毛利先生」を朗読してもらっては、その朗読に対して各文節を立てる表現の出来不出来を中心に、ダメ出しをしていった。
もちろん各文節をただ立てただけでは不十分である。各文節によってその音声言語の表現主体が表現しているイメージ(や心情)すなわち「内容的な意味」を、朗読者自身がイメージし、それを自分の音声言語で再表現していく。これが各文節を立てる表現の本質である。従って、それが出来ているか否かを判定するわけである。
○八千代朗読サークル「新・みちの会」の朗読レッスン(2)
三浦つとむ著『日本語はどういう言語か』、特にその冒頭における絵画表現の解説を紹介した。即ち「絵画や写真は客体的表現と主体的表現という対立した二つの表現のきりはなすことのできない統一体として考えるべきものであり、主体的表現の中にはさらに位置の表現と見かたや感情などの表現とが区別される」の箇所である。
絵画や写真でさえそうだから、さらに複雑かつ高度な表現が出来る文学作品においてはさらにこの点の分析が重要である。特に、朗読においては、朗読者が表現主体として自分の音声言語で作品世界を再表現していくのだから、文学作品の主体的表現におけ「位置の表現と見かたや感情などの表現」を解析しなければ朗読にならない。
今回の台本「毛利先生」の実際の文章を実例として、さらに具体的に解説した。ところが、会員たちの反応があまりはっきりしなかった。そこで、私の解説が分かったか否か、面白いか否かを訊ねてみた。会員の回答は、よく理解できるし、こういう解説は初めてだったので新鮮で面白かった、というものであった。本当だろうか?
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