05館長の朗読日記(戦後63年/西暦2008年)

05館長の朗読日記 250

館長の朗読日記 250  (戦後63年12月31日 新規)

○皆さんどうぞ良いお年をお迎えください
 今日で、今年もとうとう大晦日となりました。私が試用している戦後歴で申しますと、今日で戦後63年は終わり、明日から戦後64年になります。
 世間的には、戦後63年はいろいろと大変な出来事が起こりました。戦後64年も大変な年になりそうですが、私はこのブログを孜孜として継続していくつもりです。このブログを読んでいただいている皆さん、どうもありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。

○改めて朗読関連の出来事をふり返ってみますと
 近年は一年経つのがとてつもなく速く感じられるのですが、その点は今年も同じでありました。しかし、改めて朗読関連の出来事をふり返ってみますと、けっこういろいろのことがあった年でした。
 私が指導している朗読サークルについてだけ考えてみましても、この一年に起こった出来事はたくさんあり過ぎて、とてもここには書き切れません。一回一回の朗読レッスン、各朗読サークルの「おさらい会」や「朗読発表会」について、数え切れないくらい多くの出来事が起こりましたし、たくさんの貴重な想い出ができました。
 それらの中から敢えて一つだけを挙げるとしますと、それは習志野市に新しい朗読サークルが立ち上がったことでしょうか。これによって、八千代市、千葉市、船橋市、習志野市という近隣の四都市総てに、私が提唱する「感動をつくる朗読」を追究する朗読サークルができたことになり、一応の地域的なまとまりができたように思われるのです。さらに、それに東京の三鷹市と品川区の朗読サークルが加わっておりますので、全体として、さらに展開性というか、構成的な厚みが出来てきたように思われ、とても心強く感じられます。
 私自身の朗読公演という点でも、2月「小さな朗読館・山桜」、4月「東 百道・講演と朗読の会――宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』の世界」(八千代市公演)、6月「東 百道・講演と朗読の会――宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』の世界」(千葉市公演)がありました。どれも、予想以上の盛況でした。来場してくださった観客の皆様、ご協力いただいた皆様に、心から感謝の意を表します。
 そして、何よりも特筆したいのは、3月に単行本『朗読の理論――感動をつくる朗読をめざして――』(木鶏社刊)を出版したことです。この本を出したことで、日本の朗読に初めて理論的な基礎(土台)を提供し得た、と私は確信しています。

○来年は新たな展開を志します
 今年までで、私の朗読活動の基礎固め(土台造り)はほぼ出来上がったと考えています。
 来年からは、いよいよ、その基礎(土台)を基にした、新たな展開期に入っていきたいと思っています。このブログを読んでいただいている皆さん、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

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05館長の朗読日記 249

館長の朗読日記 249  (戦後63年12月29日 新規)

○今年も残すところあと3日
 今年もいよいよ押し詰まって、残すところあと3日となった。
 私も年末の忙しさに巻き込まれてしまっている。朗読日記を優雅にしっかり書いている時間がとれない。
 私の年末の任務は以下のとおり。
 今日(29日)はこれから障子紙の張替え。
 明日(30)は正月飾りの飾りつけ、その後に家内の実家まで出かけて義父の一周忌の集いに参加。
 明後日(31日)は書斎と書棚の整理等々。
 とても朗読どころではない。
 本当は、この年末に、来年の朗読発表会に使うバック音楽(BGM)の編集をするつもりだったのだが、気分的にも、時間的にも、とてもそこまで手が回らなかった。
 というのも、朗読発表会に向けた台本について、朗読分担の組み換えをしなければならない事情が2件も起こったからである。急きょ、朗読分担の組み換えをして、そのグループ全員に連絡した。
 実は、朗読以外にも、私が大切に思っている仕事があって、この仕事に関してもこの時期にやりたいことがいくつかあった。しかし、それについても、そのある部分を年明けに回さなければならなくなりそうである。
 まあ、年の暮れというものは、そんなものなのであろう。

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05館長の朗読日記 248

館長の朗読日記 248  (戦後63年12月27日 新規)

○黒澤明没後10周年記念番組
 NHKのBS2で、黒澤明没後10周年記念として、黒澤明が監督した映画全30作を放映する番組が今年の初めから断続的に組まれていた。私の家では、今年の途中からようやくNHKのBS1とBS2が観れるようになったので、この番組も途中からしか視聴できなかった。
 それでも、「悪い奴ほどよく眠る」「七人の侍」「天国と地獄」「赤ひげ」「夢」「まあだだよ」などを、改めてジックリと鑑賞することができた。
 私は黒澤明が監督した映画が好きで、高校生時代から、封切りを楽しみにして映画館に観に行ったものだ。しかし、「影武者」においてオーディションで登用した素人のセリフが、あまりに下手くそだったので、まず最初にがっかりした。その次の「乱」でも、一部の役者のセリフがキャーキャーと耳障りだったことと、画面作りの一部があまりに作り物的であったことなどにがっかりして、それ以降は映画館にまでは観に行かなくなったように記憶している。
 今回の番組においても「影武者」や「乱」は観なかった。しかし「夢」「まあだだよ」はじっくりと観た。「夢」「まあだだよ」は予想していたよりは良かった。しかし、何かしら黒澤明の独善的なところが目立っていたような気もした。

○黒澤明のシナリオ観や演技観は面白かった
 この記念番組は、黒澤明が監督した映画全30作を放映するだけでなく、彼のインタビューや、シンポジウムにおける若者との質疑応答、撮影現場における演技指導なども、いろいろと組み合わせて放送していた。
 こちらの方は、掛け値なしに面白かった。
 映画ではシナリオが大事だ、という考え方もさることながら、一流の監督は必ず自分でシナリオを書いている、という話しは面白かった。たとえ、別に脚本家がいて、形式的にはその人がシナリオを書いたことになっている場合でも、一流の監督は、そのシナリオを制作する過程で、そのシナリオの隅々にまで深く関わっているのが実態だ、ということであった。そうか、そうだろうな、と心から納得できた。
 また、彼の親しかったある監督が、彼のシナリオのある場面で「彼は部屋の中で何かしている」と書いていた、という逸話も面白かった。他人が読んだら「何かしている」じゃあ何が何だか分からないだろうが、書いた本人の頭の中にはその場面のイメージがはっきり出来ているんだよ。ただ、書くのが面倒くさいから「何かしている」としか書かなかったんだ、という話しであった。これは、シナリオと映画表現との関係だけのことではない。文学作品の文字言語と、朗読表現における音声言語の関係についても、大いに参考になる話である。
 また、「八月の狂詩曲」の撮影現場で、主演の村瀬幸子に演技指導しているドキュメンタリーも面白かった。村瀬幸子のいかにも新劇系の俳優らしい演技を、一所懸命、自然な演技に矯正しようとしていた。さんざ指導した挙句、自分の席に戻りながら、「(下手に)演技しようとするからダメなんだよ」とはき捨てるように独り言を言っていたが、朗読のことを思い出して、私は思わず笑ってしまった。

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05館長の朗読日記 247

館長の朗読日記 247  (戦後63年12月20日 新規)

○今日から「正真正銘」「名実共に」の冬休み
 今、遠隔の地で行なっているアルバイト仕事から帰ってきた。
 今日が、今年最後のアルバイト仕事の日である。いつもなら、引き続いて朗読レッスンが二つあるのだが、この方は一足早く年末始の冬休みに入っている。そこで、今日はまっすぐに帰宅した。
 家に着いたのが15時ちょっと過ぎ。着替えて、手を洗い、うがいをして、お茶を一服して、それからインターネットのお馴染みのホームページやブログを一渡り閲覧して、メールのチェックをして、やおら、このブログを書き始めたわけである。
 何だか、こんなに寛いだ気分でブログを書くのは久しぶりである。
 明日からしばらくは外出しないで済むと思うと、急に心が軽くなった。その心を、遠出の疲れが、霞のように覆っている。その全体が、快い寛ぎを、私の心にもたらしている。
 われながら思うのだが、どうやら私は、芯からの出不精らしい。

○自宅での仕事
 しかし、しばらく外出しないで済むといっても、自宅で何もしないというわけにはいかない。先日も書いたとおり(館長の朗読日記 242)、家内がもってくる家の用事、来年に備えた朗読関係の諸準備、その他の仕事がたくさんある。まったく、数えだすと次から次へと山のように出てくるのである。
 それらを箇条書きにメモし、やるべきタイミングと優先度を考えながら、スケジュールとして割り付けていく。これがまた一仕事、ということになる。
 まあ、せっかくの冬休みだから、その全体を、半分は楽しみながら、セッコラとこなしていくことにしよう。

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05館長の朗読日記 246

館長の朗読日記 246  (戦後63年12月19日 新規)

○チューリップの球根を植える

 久しく庭の手入れをしなかった。
 もちろん、庭と言っても、猫の額ほどの広さしかない。猫の額ほどの広さのところに、柿、スモモ、梅、蜜柑、夏蜜柑、ビワなど生りものの木を植え、小さな花壇(らしきもの)をしつらえてある。
 手入れをしないと言っても、本当に何もしないと木の枝は伸び放題、雑草は生え放題になってしまう。そこで、木の枝は私が、雑草は家内が受け持って、最低限のことはやってきた。
 しかし、生りものの木に肥料をやることも、花壇に花を植えることも、ここ何年かはまったくやらなかった。したがって、木はホンのおしるし程度の果実しか生らさないし、花壇(らしきもの)にも多年草や球根性の花しか咲かなかった。
 その球根性の花も、水仙のように毎年変わらずキチンとした花を咲かせるものもあれば、チューリップのように数年で見る影もない花になり、ついには全く花を咲かせなくなってしまうものもある。そういうわけで、わが花壇(らしきもの)には、久しくチューリップの花が絶えていた。
 私は、水仙のように、地味ながら、清らかで味わい深い花を、毎年キチンと咲かせる植物が好きである。
 しかし、大味ながらパッと華やかな花を咲かせるチューリップの花も、春の庭には欠かせない風物だと思っている。それが、ここ数年、わが花壇(らしきもの)に絶えていたので、いささか心さびしい気がしていた。そこで、昨日、遅まきながらチューリップの球根を買いに行ったのである。
 ホームセンターの店員にチューリップの球根の置き場をたずねたら、店員は半ば呆れ顔で「残っていれば」といいながら置き場に案内してくれた。たしかに12月の後半では遅すぎたか、と思いながらその置き場に行ってみた。ほとんで売り切れていたが、幸いまだ多少の売れ残りがあった。値段も格安になっていた。
 その売れ残りを何袋か買って、さっそくわが花壇(らしきもの)に植え込んだ。植え込んでいると、近所の子どもの手を引いた若い嫁さんが、気の毒そうな顔をしつつ「こんにちは」と挨拶してくれた。よっぽど辛そうな顔で作業をしていたらしい。いや、まったく、中腰での作業は疲れるものである。
 ともあれ、こうして昨日、チューリップを植え込んだ。来春のわが花壇(らしきもの)に、楽しみが一つできたわけである。

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05館長の朗読日記 245

館長の朗読日記 245  (戦後63年12月18日 新規)

○太田由希奈選手の現役引退に寄せて(その5)

 この際、今季のグランプリ・シリーズをテレビ観戦して、改めて感じたことをいくつか記しておきたい。
 一つは、解説者や実況アナウンサーが、演技する選手の顔の表情や身体の柔軟性(脚の開き具合とか背骨の背後への曲がり具合など)を、評価のポイントとして過大に取り上げていた点である。
 フィギュアスケートのように舞踊系の表現を評価する場合、根幹は演技者が心に抱くイメージや心情を身体全体の動きや形でいかに表現できているかにある。顔の表情などは、その一部ではあっても、いわば枝葉にすぎない。
 また、身体の柔軟性そのものは、表現そのものではないし、スケート技術でもない。もちろん、演技者が心に抱くイメージや心情を身体全体の動きや形で表現するために、身体の柔軟性は必要不可欠な大事な条件である。しかし、それは表現のために必要な要素ではあっても、決してそれそのものを売り物(評価の対象)とすべきではない。身体の柔軟性そのものを売り物(評価の対象)にするのは、曲芸である。フィギュアスケートの表現とサーカスなどの曲芸とを混同してはならない。
 二つは、ジャンプの精度が非常に厳しく判定されるようになった点である。 
 もちろん、精度を厳しく判定すること自体は、いわば当然であって、問題はない。しかし、それがジャンプそのものの評価、あるいは全体的な演技評価の中でどのような意味を持ち、それが選手の演技に今後どのような影響を与えるか、という点が問題なのである。私は、フィギュアスケートの門外漢であって、その演技評価の全体がどうなっているかまでは、くわしく知らない。しかし、ジャンプに関する評価の仕方が、フィギュアスケートの曲芸化につながることのないように願っている。
 三つは、世界全体で見ると、フィギュアスケート選手の表現力ははなはだ低いレベルにある、という点である。
 言ってしまえば、スケート技術は一流だが、表現力は素人に毛が生えた程度、という選手が大部分である。太田由希奈選手、鈴木明子選手、浅田真央選手、あるいは、村主章枝選手、キム・ヨナ選手などは例外中の例外といってよい。
 これは、表現という点では、フィギュアスケートがまだまだ発展途上の競技だということの現われであろう。何せ、顔の表情や身体の柔軟性、あるいは、ジャンプの回転数などを過大に評価するテレビ解説が、堂々とまかり通っている有様なのだから。
 以上の点から、私はフィギュアスケートが女子体操の二の舞を踏んでしまう危険性を感じざるを得ない。言ってしまえば「未成熟な子どもの曲芸」に堕ちてしまうことを危惧するのである。これは、事実、コマネチ以後の女子体操がたどったコースなのである。今季のグランプリ・シリーズにも、すでにその兆候は出ていたように思われる。
 太田由希奈選手、鈴木明子選手、村主章枝選手、イリーナ・スルツカヤ、サーシャ・コーエンその他のように、大人の本当の女性美をフィギュアスケートを通して芸術的に表現することを目指して努力している選手たちを、偏った演技評価によって不当に淘汰してはならない。また、まだ未熟な段階の少女たちの心身を酷使して、本来なら豊かな将来性をもった彼女たちの、選手寿命を縮めたり壊したりしてはならない、と切に思う。
 そういう危険性を取り除き、フィギュアスケート的な表現をさらに発展させるためにも、太田由希奈選手のように大きな才能をもった人間が、さらに研究研鑽を重ね、タラソワ・コーチをも上回る高いレベルとスケールをもった振付師やコーチ(指導者)に成長することを、私は心から期待するのである。(おわり)

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05館長の朗読日記 244

館長の朗読日記 244  (戦後63年12月17日 新規)

○太田由希奈選手の現役引退に寄せて(その4)

 表現という面におけるフィギュアスケートのもつ可能性の大きさ、フィギュアスケートの振付と指導のもつ可能性の大きさ、といっても、その基本は、これまで太田由希奈選手が追究してきた「音楽の楽想を想像・創造的にイメージして、それをフィギュアスケートを通して表現する」という一点に帰着する。
 したがって、太田由希奈選手がこれからもプロ・スケーターとしてスケート・ショーなどに出演し、太田由希奈選手なりのフィギュアスケートの美的表現を追究していけば、それを土台としてフィギュアスケートの振付師および指導者としての技量をみがき蓄えていくことが出来る。ある時期がきたら、フィギュアスケートのプロ・スケーター(表現者)と振付師および指導者を併行的にやってしまう、ということをしても良いと思う。
 私も、いささかマイナーではあるが、朗読の分野において、朗読者(表現者)とステージ演出者と朗読指導者を併行的にやっている。朗読者として自ら朗読し、聴き手と感動を共有できた瞬間の喜びはもちろん大きい。しかし、ステージ演出者として自分が演出したステージに、観客が感動してくれたときの達成感はまた格別である。また、朗読指導者として自分が指導したレッスン生が、日々着実に上達していって、その朗読表現が好評であったときも何とも言えないほど嬉しいものである。
 私の場合は、それに加えて、朗読を理論的に研究するという研究者としての側面も併せ持っている。朗読の実技、朗読の理論、朗読の指導法についてあれこれ研究・解明し、それを論文にまとめるのである。その一連の作業を行なっているときの充足感(苦しむ面も含めて)も、なかなかのものがある。
 フィギュアスケートは、オリンピックや世界選手権大会、あるいは、グランプリシリーズなどさまざまな大舞台が用意されている。近年は、マスコミにも大きく取り上げられるようになっている。マイナーな朗読とは違って、フィギュアスケートはまさにメジャーと呼ぶにふさわしい。
 そのメジャーなフィギュアスケートの分野において、私は、太田由希奈選手が、プロ・スケーター(表現者)と振付師および指導者、そして、研究者としての役割を、すべてこなし得る才能と可能性を持っていると思っている。その意味で、これからの方が、内容的に、より深く、より高く、より広く、より豊かな、フィギュアスケートに対する取り組みなんだよ、と言いたいのである。(つづく)

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05館長の朗読日記 243

館長の朗読日記 243  (戦後63年12月16日 新規)

○太田由希奈選手の現役引退に寄せて(その3)

 2008年11月28日~30日にフィギュアスケートNHK杯が開催された。太田由希奈選手の現役引退という事実が念頭にあったせいか、特に女子シングルスの競技を関心をもって観た。
 今回は日本人選手の活躍がめざましく、1位~3位を独占した。しかも、浅田真央選手(1位)、鈴木明子選手(2位)、中野友加里選手(3位)のフィギュアスケートは、タイプがそれぞれ鮮明に異なっていたので、その意味でも大変に興味深かった。もちろん、どのタイプが良いだの悪いだの、あるいは、どのタイプが上だの下だのという話ではない。金子みすずの詩ではないが、「みんなちがって、みんないい」のである。
 中野友加里選手(3位)は、自分のスケート技術をコツコツと追究するタイプである。三回転半ジャンプなどのジャンプ技術、ドーナツスピンなどスピン技術など、技術的に卓越したものをいくつももっている。振り付けや舞踊的な要素は、あくまで、スケート技術の延長上というか、補完的なものと考えてやってきたと思う。近年は、表現力の強化を課題にしているそうだが、根が生真面目な性格なのだろう、表現力をも技術的にとらえ、そういう方向で苦心しているらしい様子が伺え、そのいささかトンチンカンな一所懸命さがまことに微笑ましい。日本人選手にはこのタイプが多く、かつての伊藤みどりや荒川静香、安藤美姫なども基本的にはこのタイプに入ると思われる。
 鈴木明子選手(2位)は、摂食障害のために長いブランクがあったが、昨年あたりはほぼ完全に復活したようであった。ところが、今回のNHK杯の出来は、昨年をさらに大きく上回っていいた。私の眼には、出場した全選手の中でもっとも光り輝いているように見えた。ショート「ラ・カンパネラ」における気品ある女性の美的表現、フリー「黒い瞳」におけるコケティッシュな女性の美的表現、エキシビジョン「リベル・タンゴ」におけるダンスに心身ともに打ち込み自己陶酔する女性の美的表現、それぞれが実にすばらしかった。鈴木明子選手は、フィギュアスケートを通して、人間(の内面)そのものを美的に表現することを追究しているのであろう。氷上を滑走するというフィギュアスケートならではの特性も、良く研究し、表現的に良く活用しているようである。イリーナ・スルツカヤ(ロシア)やサーシャ・コーエン(アメリカ)やキム・ヨナの演技にも、これらの側面が多分に伺えるが、この側面に関しては鈴木明子選手の今回の演技の方が数段上回っているように思われた。
 浅田真央選手(1位)は、高いスケート技術を基に、さまざまなドラマの主人公を演じることを、主に追究してきたように思われる。それに加えて、音楽の楽想を想像・創造的にイメージして、それをフィギュアスケートを通して表現する、という太田由希奈選手と同様の方向をも追究しているようである。
 今季のフリー「仮面舞踏会」に私が瞠目させられたのは、ドラマの主人公を演じる表現と、音楽の楽想を想像・創造的な表現とが、高いレベルで統一されていたからである。
 さらに、重要なことは、その結果、大勢の貴族たちが仮面舞踏会で踊り狂っている場面全体をリンク上に表現できていたことである。これは、タラソア・コーチの振付と指導に負うところが大きいのであろうが、爛熟した貴族社会において催された一夜の仮面舞踏会、そこで踊り狂っている若き貴婦人、浅田真央選手はその貴婦人の踊りをフィギュアスケート的に表現しつつ、実は貴婦人を含む仮面舞踏会の場面全体、いや、当時の爛熟した貴族社会の世相総体をも表現し得ていたように思われた。
 こういう全体的な表現を、私は今までフィギュアスケートの場で観たことがない。こういう振付と指導をしたタラソア・コーチを、今回、私は大いに見直さざるを得なかった。もちろん、それを懸命に演じた浅田真央選手も。
 フィギュアスケートの、しかもシングルで、こういう表現もできるのか。このことに、私は大いに驚き、フィギュアスケートのもつ可能性の大きさ、フィギュアスケートの振付と指導のもつ可能性の大きさに改めて気づかされたのである。(つづく)

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05館長の朗読日記 242

館長の朗読日記 242  (戦後63年12月15日 新規)

○いよいよ年末始の冬休み
 一昨日をもって、今年最後の朗読レッスンが終了し、昨日から年末始の冬休みとなった。
 正確にいうと、次の土曜日の午前中に、まだ、今年最後のアルバイト仕事が残っているから、完全な冬休みというわけにはいかない。しかし、ほぼ隔日の朗読レッスンが休みになると、精神的な解放感がユックリと胸中を満たしてくることは止めようがない。
 こうしてみると、好きでやっているには違いないが、やはり、朗読サークルを指導するに当たっては、相当緊張していることに我ながら気づかされる。まあ、私が根っからの出不精ということもあるが。
 しかし、冬休みになると、ノンビリできるかと思えば、なかなかそうは問屋が卸してくれない。
 まず、家内が、待ち構えていたように、家の用事をもってくる。庭の木の剪定、障子の張替え、車の点検依頼、正月飾りの購入と飾りつけ、書斎と本棚の整理、等々。それでも、近年は、洗車と網戸洗いは息子に振り替えられたので、多少は楽になってきている。
 また、朗読関係でもいろいろとやることがある。来年、各朗読サークルが行なう朗読発表会のためのバック音楽(BGM)とバック照明の割付、来年の朗読レッスンの準備(レッスン台本や教材)、来年の朗読会(6月「東百道の朗読館」、12月「東百道・講演と朗読の会」)のための朗読練習と実務的諸準備、朗読CDの制作準備(事前調査、制作折衝など)、次の著作『朗読の上達法』の構想と執筆開始、等々。
 そうそう、年賀状も出さなければならない。ただし、年賀状については、基本の印刷は11月中に終わらせているし、一人一人への書き込みもこれまでに時間を見つけてはコツコツと書いてきた。おそらく、今日中に総てを書き終えることが出来ると思う。後は、今後もボツボツと届けられるであろう喪中の挨拶状との突合せを行なうくらいのものである。
 それにしても、何やかやとウロウロしているうちに、今年も12月の後半に入ろうとしている。正真正銘、年の瀬、歳末である。

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05館長の朗読日記 241

館長の朗読日記 241  (戦後63年12月14日 新規)

○八千代「みちの会」「ことのは」の朗読レッスン
 昨日の午後は八千代朗読サークル「みちの会」の朗読レッスンを、夜間には八千代朗読サークル「ことのは」の朗読レッスンを行なった。
 両サークルとも、今回は朗読ステップ6の5回目、レッスン台本・宮沢賢治原作『セロ弾きのゴーシュ』の5回目である。今回も、前回と同様、全体の朗読練習を行なった。
 朗読ステップ6のレッスンでは、毎回、全員の朗読の録音を取り、その場で一人づつそれを再生しながらダメ出しや指導をすることにしている。
 自分の経験から言って、自宅での一人練習をやる場合、自分が練習しているところを録音して聴く、というのは何となくうっとおしい。また、面倒でもあるので、やる必要ややる効能は十分理解していても、なかなかやらないものである。多分、サークルの会員の皆さんも同じであろう。
 だから、朗読ステップ6の段階ではそれをレッスンの場で、まとめてやってしまうことにしたのである。しかも、レッスンの場で録音を聴くということは、自分だけではなく、仲間の会員たちといっしょである。他の会員の朗読と直接比較しながら、自分の朗読を客観的に聴くことになる。
 現に、会員の一人一人が、自分の朗読表現の欠陥や不十分性を客観的に認識して、修正や改善に努めていることがよく分かる。また、この方法は、朗読ステップ6の段階だからこそ有効だ、という私の判断もそう的外れではなかったことも、よく分かってきた昨今なのである。

○朗読ステップ6修了後のこと
 八千代朗読サークル「みちの会」と「ことのは」は、私が朗読指導している全サークルの先頭を走っている。その両サークルが来年の9月には朗読ステップ6を修了する。他のサークルも再来年以降、続々と朗読ステップ6を修了することになる。
 私が朗読サークルを立ち上げた当初は、朗読ステップ6修了後のことまであまり考えなかった。6年というと、随分先のことに思えたし、その間に朗読サークルがどうなるかも不透明だったからである。そう考えていた最初の6年間が、いつの間にか後一年を切ってしまった。
 八千代朗読サークル「みちの会」と「ことのは」は、良くも悪くも、全朗読サークルのパイオニア的な存在である。朗読ステップ6修了後のことも、すべて初めてのことになる。会員のほとんどがサークルと朗読レッスンの継続を希望しているから、朗読ステップ6修了後のことをいろいろと構想し、その準備もそろそろ始めなければならない。
 そこで今回、過日行なったアンケートの結果を踏まえて、だいたいの私の構想をまとめて、両サークルの会員に説明した。その主な内容は以下の通りである。

1.八千代「みちの会」と同「ことのは」を合体して朗読サークル活動を継続する
2.毎年の朗読レッスンは、①朗読ステップ1~6の復習&レベル・アップを主とする共通課題、②会員各自が自分で選んだ作品をレッスン自由課題、③朗読発表会に向けた朗読練習、の3つのパートに分けて行なう
3.毎年の朗読発表会は継続するが、そのやり方は、1人1作品のやり方とサークル1作品のやり方を年毎に適宜選択する
4.朗読発表会以外の小規模な朗読会(「小さな朗読館・やちよ」的な朗読会)は、サークル主催の朗読会ではなく、有志の主催による小朗読会を開催する方向で検討する
5.朗読発表会以外の小規模な朗読会の台本は、自由課題でレッスンした作品を当てることとし、朗読会のための特別のレッスンや練習はしない
6.朗読ステップ6の修了を機に、第Ⅱ期の会員募集を行なう(若干名)
7.高い朗読水準をクリアした会員に「東 百道・講演と朗読の会」などにゲスト出演を依頼する

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