06館長の朗読指導メモ

館長の朗読指導メモ 92/朗読活動のこれからの10年間の自己展望(その1)

館長の朗読指導メモ 92   (戦後71年11月09日)



朗読活動のこれからの10年間の自己展望(その1)



○第2次「朗読活動10年期」の自己展望(1)

 戦後71年(西暦2016年)の4月から、私の本格的な朗読活動は2回目の10年に突入した。この朗読活動の2回目の10年を、第2次「朗読活動10年期」と呼ぶことにする。この第2次「朗読活動10年期」くらいは何とか頑張れると思うので、どのような朗読活動をするべきかを考案・構想し、その自己展望をまとめておく。

 私の朗読活動は、次の3つに分類することができる。それは、①朗読理論の研究、②朗読指導の実践、③朗読実技の公演、という3つの分野である。もちろん、私の場合には、この3つの分野は互いに不可欠な存在である。そのどの分野を欠いても、日本の朗読文化のレベルアップに寄与したいという私の目標を果たすことは出来ない。

 第2次「朗読活動10年期」において、私がもっとも重点を置くべき分野は「①朗読理論の研究」であると考えている。また、その直接の応用分野として「②朗読指導の実践」にも力を注いでいきたいと考えている。そして「③朗読実技の公演」は、ここ数年で軌道に乗せてきた年3回の定期公演「小さな朗読館」を中心としていく。



○第2次「朗読活動10年期」の自己展望(2)

 まず「①朗読理論の研究」について。私がもっとも重要視しているのは、前著『朗読の理論』の姉妹編として構想している『朗読の上達法』である。しかし、この2著『朗読の理論』『朗読の上達法』は、本格的な研究書、理論書を目指している。従って、表現と内容が必ずしも平易とはならない。まして、朗読の入門書などではない。

 そこで、木鶏社からは、2著『朗読の理論』『朗読の上達法』の内容を融合させ、その基本的部分を平易な表現で執筆した、朗読の入門書の発行を提案されている。これは、きわめて魅力的な提案である。書名は『朗読とはなにか〜感動をつくる朗読入門〜』にしようかなどと、思い入ればかりが先に行っている。この3著が軸となる。

 また「朗読のための文学作品論」シリーズとして、既刊の『宮澤賢治の視点と心象』に続けて、今後は『芥川龍之介の文学的軌跡』『太宰治の文学的航跡』『宮澤賢治の宗教と文学』『宮澤賢治「銀河鉄道の夜」の解読』の原稿を執筆し、単行本として上梓したい。そして可能なら、夏目漱石や樋口一葉の文学作品にも論及してみたい。



○第2次「朗読活動10年期」の自己展望(3)

過去の第1次「朗読活動10年期」には、エポックメイキングな出来事がいくつかあったが、その一1つは私が小学館(担当編集者・高島雅氏と漫画家・片山ユキヲ氏)から朗読漫画『花もて語れ』への朗読協力&朗読原案を依頼されたことであろう。朗読漫画『花もて語れ』の朗読に関する部分は『朗読の理論』を土台にしている。

 この朗読漫画『花もて語れ』は、レベルの高い一部の漫画マニアから熱烈に支持された。また、小中学校の国語関係の教師の一部から大いに注目された。そして、朗読関係者の一部からも朗読の基本を深く描いたものとして参考にされている。ただし、朗読漫画『花もて語れ』の朗読部分には、不十分な点や誤解されやすい点もある。

 他方、私は、この朗読漫画『花もて語れ』を、拙著『朗読の理論』の良き副読本として、極めて高く評価し、ありがたく思っている。そこで、第2次「朗読活動10年期」の仕事の1つとして、今後、私のブログで「朗読漫画『花もて語れ』こぼれ話」(仮題)を連載し、不十分な点や誤解されやすい点を補正していこうと考えている。







| | コメント (0)

館長の朗読指導メモ 90/朗読活動のこれまでの10年間の自己検証(その6)

館長の朗読指導メモ 90   (戦後71年08月25日)



朗読活動のこれまでの10年間の自己検証(その6)



○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(14)

 この「小さな朗読館〜感動をつくる朗読をめざして〜」は、すでに6回の公演実績を積んでおり、今秋10月26日には第7回の公演を行なう予定である。この朗読会は営利を目的としたものではない。入場のチケット代は千円であるが、これは入場者にも公演実経費をある程度は負担してもらうためである。私は完全な手弁当である。

 幸い、これまでの入場者数は概ね百人を超えている。私と家人の人件費(私の出演料を含む)を除いた実経費だけ見ると、一応、収支は黒字を維持している。この黒字分は積み立てておき、公演のための運転資金にしたり、将来的には外部のゲストを招聘する資金にしたり、あるいは、音楽演奏とのコラボ用の資金にしていく計画である。

 昨年まで8回にわたり上演した「東百道・講演と朗読の会」の方も、一応、収支は黒字であった。ただし、こちらも公演の実経費だけをみた場合である。近年は公演を録音録画してDVDあるいはBDとして出版&販売しているが、こちらの実経費を含めると全体の収支は大赤字である。この赤字分は、当面は解消されそうもない。



○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(15)

 その「東百道・講演と朗読の会」も、今年から当面は休止することにした。しかし、芥川龍之介と太宰治と宮澤賢治についての「朗読のための文学作品論」シリーズを単行本として上梓し終えた後は、この「東百道・講演と朗読の会」を再開するつもりである。少数ではあるが、この公演を評価してくださった観客もいたからである。

 また、年3回定期公演中の「小さな朗読館〜感動をつくる朗読をめざして〜」の方も、ほんの少しづつではあるが常連客が着実に増えてきている。今後も、レギュラー出演の私は修練を重ねて行くが、ゲスト出演の朗読サークルの会員たちも着実に上達していく。この朗読会のレベルは、少しづつだが着実にレベルが上がっていくと思う。

 また、将来的には、全国各地で朗読活動を展開している朗読者あるいは朗読グループと、朗読的交流を推進していきたいと考えている。残念ながら、これまでの第1次「朗読活動10年期」においては、それら全国各地の朗読者との朗読的交流は、少数の例外を除いて、ほとんど何もできなかった。これなども今後の課題の1つであろう。






| | コメント (0)

館長の朗読指導メモ 89/朗読活動のこれまでの10年間の自己検証(その5)

館長の朗読指導メモ 89   (戦後71年067月16日)



朗読活動のこれまでの10年間の自己検証(その5)



○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(12)

 最後に、㈫朗読の実演的な活動のこの10年間を自己検証してみよう。㈫朗読の実演的な活動も、当然、㈰朗読の理論的な活動を土台にしているし、また、㈪朗読の指導的な活動とも深く関係している。すなわち、㈰㈪㈫は互いに密接に関連しているのである。さて、私の㈫朗読の実演的な活動は大部分が私の主宰するものである。

 ただし、私が指導する朗読サークルの会員の有志が実行委員会形式で、私を主演者とする定期的な朗読会を主催してくれた「東百道の朗読館」(戦後63年〜戦後67年に5回開催)のような例もある。何人かで朗読会を共催した「小さな朗読会・和」(戦後58年〜59年)や「小さな朗読館・山桜」(戦後63年)の例もある。

 山梨の永田さん主導の「講演と朗読の会」、ソルシエール主催の朗読会、「富里市立七栄小学校を会場とする富里市教育研究会・公開研究会」の記念講演「朗読のための文学作品の解読法〜斎藤隆介「花咲き山」を事例として〜」、朗読の会・くれまちす主催の「東百道・講演と朗読の会〜感動をつくる朗読をめざして〜」の例も。



○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(13)

 しかし、私がもっとも主体的に力を注いだのは、毎年の年末に主宰した「東百道。講演と朗読の会」である。この「東百道。講演と朗読の会」は、宮澤賢治を2回、芥川龍之介を4回、太宰治を2回を順に取り上げ、戦後70年(西暦2015年)の第8回を最後に休止した。当面、㈰朗読の理論的な活動に力を注ぐためである。

 私は「小さな朗読館〜感動をつくる朗読をめざして〜」という朗読会を、戦後69年(西暦2014年)から主宰している。この「小さな朗読館〜感動をつくる朗読をめざして〜」は、年3回の定期公演である。毎回、私がレギュラーで出演し、私が朗読指導している朗読サークルの会員の何人かにゲストで出演を依頼している。

 この「小さな朗読館〜感動をつくる朗読をめざして〜」は、私自身の朗読実演の修行の場であり、また、私が朗読指導し一定の朗読レベルに達した人たちの朗読発表の晴れ舞台であり、さらには、一般の人たちに生の朗読(特に私の朗読理論を体現すべき「感動をつくる朗読」)を身近に鑑賞評価してもらう成果公開の場でもある。

 



| | コメント (0)

館長の朗読指導メモ 88/朗読活動のこれまでの10年間の自己検証(その4)

館長の朗読指導メモ 88   (戦後71年06月16日)
 
 
朗読活動のこれまでの10年間の自己検証(その4)
 
○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(10)
 
 私が定期的&体系的に指導している朗読サークルの元会員あるいは現会員の有志が、自立的に結成した朗読グループもいくつかできた。それらの朗読グループは、元のサークルからいわば株分けしてできたようなものである。それらの朗読グループと私の関係をどのように考え、今後どのように保っていくかも、要検討課題である。
 
 私が朗読指導している朗読サークルは、今後、続々と第3期目に突入していく。いずれ、第4期目にも突入していくであろう。その過程で、朗読者として、あるいは朗読指導者として自立していく会員も出てくると思う。それらの会員と、今後どのような関係を保っていくか。それも、いずれ重要な要検討課題になることであろう。
 
 クラシック音楽や日本の古典芸能など歴史ある芸術芸能の世界では、師匠と弟子、そのまた弟子との関係に関しては、一定の習慣、ルール、礼儀、エチケットなどといったものが出来上っている。朗読の世界は、まだ歴史も浅く、マイナーでもあるので、当人たちの良識に任せたままである。私なりのものを造っていく必要がある。
 
 
○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(11)
 
 私の「朗読活動10年期」において、特に私が朗読サークルの指導を始めてからのこの12年間において、朗読サークルを退会していった会員は、おそらく200人を超しているのではないか。本人や家族が体調を崩したり、または、職場や居住地が変わったため、朗読サークルを心ならずも退会していった会員が多かったと思う。
 
 しかし、私の朗読論や指導に違和感や不満をもち、離れていった会員もいたと思う。朗読レッスンやサークル活動も人間関係の一種であるから、私や他のサークル会員との人間関係に何らかの齟齬が生じ、居ずらくなって去って行った会員もいたと思う。中には、私をただ利用するだけの目的で入退会していった会員もいたと思う。
 
 私のもっとも心残りなのは、私の言動が、私自身が気づかないままに相手の心を傷つけたり、思いもよらない形で誤解されたり、あるいは、悪意にもとづく虚偽の伝達によって騙されたり、そのような形で不本意に朗読サークルを退会していったかも知れない会員の存在である。しかし、残念ながらそれらは既に詮無い話しであろう。
 
 

| | コメント (0)

館長の朗読指導メモ 87/朗読活動のこれまでの10年間の自己検証(その3)

館長の朗読指導メモ 87   (戦後71年02月28日)



朗読活動のこれまでの10年間の自己検証(その3)



○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(7)

 次に、②朗読の指導的な活動のこの10年間を自己検証してみよう。この②朗読の指導的な活動はもちろん①朗読の理論的な活動を土台にしている。そういう意味で①と②は密接に関連している。さて、②朗読の指導的な活動の中心は、私が立ち上げた朗読サークルで定期的に行なっている朗読レッスン(月2回各2時間)である。

 実は、私は朗読活動を本格化させる2年前から朗読指導を始めていた。すなわち、朗読指導歴は12年なのである。その12年間で延べ6地域11朗読サークルを指導した。現時点では5地域6朗読サークルを指導している。私の朗読指導は朗読ステップ1〜6という段階を踏んでいく。1ステップ1年だから、全部で6年かかる。

 朗読ステップ1〜6を終了すると、2期目の朗読ステップ1〜6に入る。2期目が終わると3期目に入る。すなわち、朗読ステップ1〜6を繰り返してレッスンしていく。その過程で朗読サークルの会員は、スパイラル状の階段を昇っていくように、ぐるぐる廻りながら上達していく。最も古い会員は、現在、3期目に入っている。



○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(8)

 現時点で、2期目以上の段階にある会員は、全体の約4割を占めている。残りの約6割の会員は、最初の1期目の朗読ステップ1〜6をたどっている。その中には、少数だが、プロの声優や司会者がいる。そういうその道のプロは、朗読ステップ3を過ぎた頃には高度な朗読レベルに達する。一般の会員でもそういう例外はいる。

 そういう例外を含め、現時点で、どこに出しても恥ずかしくない朗読をするレベルの会員が10人弱は存在している。さらに、もうひと息でそういうレベルに到達しそうな会員が20人弱は存在している。もちろん、その他の会員たちも続々とその跡を追っている。高度なレベルの会員に、朗読の舞台をつくるのも私の役目である。

 それらの会員をゲスト出演者に迎えて「小さな朗読館〜感動をつくる朗読をめざして〜」を開催している。一昨年は試行的な公演を1回しただけだが、昨年から年3回の定期公演として本格化した。この「小さな朗読館」と各サークルの朗読発表会と朗読レッスンの組み合わせを、②朗読の指導的な活動の主軸として考えている。



○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(9)

 朗読サークルの枠組を超えた一種の拡大レッスンとして、毎年末に「東百道・講演と朗読の会」を8回開催した。取り上げた作家は、宮澤賢治、芥川龍之介、太宰治の3人である。後半の4回分は、録音録画したものを一種の出版物として全国の販売ルートに乗せた。しかし、この「講演と朗読の会」は、講演の準備が大変である。

 毎年末に定期的に「東百道・講演と朗読の会」を開催する計画は、見直す必要があると考えている。逆に、前半の4回分は未だ録音録画していないので、いずれは再演してその4回分を録音録画しなければならないとも考えている。また、定期的な開催を見直すにしても、シリーズとしての講演はいずれ完結させたいと考えている。

 朗読サークルの会員以外を相手にした朗読指導としては、朗読に関する講演とか単独のレッスンや短期集中レッスンなどがある。それらも多少は行なった。しかし、それらは他所からの依頼に応えて行なうのが基本的なあり方であるから、なかなか主体的ないしは体系的に取り組むまでにはいたらなかった。今後の課題である。











| | コメント (0)

館長の朗読指導メモ 86/朗読活動のこれまでの10年間の自己検証(その2)

館長の朗読指導メモ 86   (戦後71年02月01日)



朗読活動のこれまでの10年間の自己検証(その2)



○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(3)

 拙著『朗読の理論』(木鶏社発行)の文章が、立命館大学の入学試験(国語問題)の出題文に採用された理由はよく分からない。色々な理由が考えられるからだ。しかし、立命館大学の入学試験の出題を担当した方々が、この本を高く評価してくれたことは確かだろう。入学試験の出題文選考には、大学の見識が問われるのだから。

 朗読漫画『花もて語れ』の漫画家と担当編集者が『朗読の理論』を主軸的&基盤的な参考文献に選んだ理由は、彼らの証言から明らかである。朗読の題材となる文学作品の作品世界を立体的&臨場的にイメージすることの重要性を力説し、また、そのためのメソッド(方法)を明確に提示した本が他に存在しなかったからである。

 この朗読漫画『花もて語れ』は、おそらく1万人をかなり超す読者を獲得し、それら読者の多くに高く評価された。私も、この朗読漫画『花もて語れ』は、日本の漫画史上に名を刻むだろう傑作と自負している。しかし、それは一部の漫画マニアや漫画家や担当編集者、および朗読漫画の朗読協力&朗読原案者の評価に過ぎない。



○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(4)

 必ずしも朗読漫画『花もて語れ』と『朗読の理論』が社会的な評価を得たとは言えない。しかし近年、朗読漫画『花もて語れ』が明らかな社会的評価を得た事態が起こった。第18回文化庁メディア芸術祭・マンガ部門の審査委員会推薦作品と日本財団「世界発見プロジェクト」の「これも学習マンガだ」百冊に選ばれたのである。

 第18回文化庁メディア芸術祭・マンガ部門(西暦2014年)において、朗読漫画『花もて語れ』は、審査委員会推薦作品として次のように紹介されている。

「内気で人見知りの新社会人・佐倉(さくら)ハナが朗読教室と出合い、朗読の魅力に目覚めていく青春マンガ。単に本を読むのではなく、作者や登場人物の想いを声で聴き手に伝える朗読。不器用だけど想像力が豊かなハナは、持ち前の感性で「想い」を声にして届けていく。作中では実在の文学作品が登場し、その意味を読み解くシーンも見られる」

 日本財団「世界発見プロジェクト」の「これも学習マンガだ」においては、ヤマダ トモコ氏(マンガ研究者 /米沢嘉博記念図書館)が次のような「推薦コメント」を記してくれている。

「推薦コメント  本を読むことをテーマにした作品は他にもあるが、朗読の世界を描いたものはいままでなかったのではないか。朗読が、技術の積み重ねのある論理的なひとつの文化なのだということが、この作品を読むとよくわかる。作者は朗読の世界をマンガで表現するために、言葉の主体によってセリフの字体を変えるなど、様々な工夫をしている。言葉と向き合う世界の奥深さや、知的な喜びを存分に感じることができる作品。国語の授業での『音読』の時間が楽しくもなるだろう。まさに『世界発見』の名にふさわしい作品だ。  ヤマダ トモコ(マンガ研究者/米沢嘉博記念図書館)」



○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(5)

 これらの紹介や推薦コメントを読めば、朗読漫画『花もて語れ』に対する評価が、内容的に『朗読の理論』の評価をかなり含んでいることは明白であろう。過去10年間の朗読活動のうち、①朗読の理論的な活動の中心的な成果である『朗読の理論』が朗読漫画『花もて語れ』を介して、一定の社会的評価を得たとみなせると思う。

 ただ、その後に上梓した「朗読のための文学作品」シリーズの第1弾『宮澤賢治の視点と心象』については、あまり目立った反応がみられない。この本における「春と修羅」「やまなし」「おきなぐさ」「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」の解読は、従来にない画期的なものと自負しているが、特記すべき反応はない。

 その他には、毎年末に「東百道・講演と朗読の会」を開催してきた。その「東百道・講演と朗読の会」において、宮沢賢治、芥川龍之介、太宰治の作家論を展開した。そのうち、芥川龍之介の作家論の後半と太宰治の作家論の前半の講演と朗読をすべて録音録画し、ブルーレイ盤あるいはDVD盤として木鶏社から発行&公開した。



○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(6)

 芥川龍之介の作家論は4回完結なのだが、録音録画を始めたのは第3回からであった。太宰治の作家論も4回完結なのだが、録音録画したのは昨年末の第2回目までであり、ブルーレイ盤とDVD盤を発行したのは第1回目までである。最新の第2回目の分の発行は今年の第2四半期頃になると思う。こちらの反応も今一つである。

 それはともあれ、第1次「朗読活動10年期」中に開催した8回の「東百道・講演と朗読の会」の内、4回分がまだ録音録画すらしていない。その4回分とは、宮澤賢治の作家論の2回分、芥川龍之介の作家論の2回分である。第2次「朗読活動10年期」において再演して録音録画し、ブルーレイ盤とDVD盤として発行したい。

 戦後70年(西暦2015年)10月12日(月)の朝日新聞の全国版文化欄の「Reライフ」シリーズの一つに、私の朗読理論(『朗読の理論』と朗読漫画『花もて語れ』に展開されたもの)に基づいた朗読の紹介記事「朗読に心をこめて」が掲載された。これは、私の朗読理論が社会的に広く評価された画期と受け止めている。






| | コメント (0)

館長の朗読指導メモ 85/朗読活動のこれまでの10年間の自己検証(その1)

館長の朗読指導メモ 85   (戦後71年01月31日)



朗読活動のこれまでの10年間の自己検証(その1)



○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(1)

 今年の3月末で、私が朗読活動を本格化させてから丸10年の節目となる。仮に、これを第1次「朗読活動10年期」とすると、次の第2次「朗読活動10年期」はどうすれば良いであろうか。今後は、そういうことを構想しながら新たな10年に突入していくことにしたい。次の10年は、私にとって特に大切な期間であるから。

 次の第2次「朗読活動10年期」を展望し、構想するためには、その前に、今までの第1次「朗読活動10年期」がどのような10年であったかを検証する必要がある。そこで、断続的になるであろうが、私の朗読活動のこれまでの10年間の自己検証を少しづつ行なっていきたいと考えている。そうすれば次が見えてくると思う。

 私の朗読活動は、次の3つに分類することができる。その3つとは、①朗読の理論的な活動、②朗読の指導的な活動、③朗読の実演的な活動、である。ただし、①朗読の理論的な活動は、かなり幅広くとらえている。朗読のための文学作品論の展開、あるいは、朗読漫画『花もて語れ』の朗読協力&朗読原案も、これに含めている。



○第1次「朗読活動10年期」の自己検証(2)

 まず、①朗読の理論的な活動の、この10年間を自己検証してみよう。何といっても、私が朗読活動を本格化させた2年後に『朗読の理論』を上梓したことが大きい。この本の出版を引き受けてくれた木鶏社には、心から感謝している。この本は、出版直後に、日本図書館協会選定図書に選定された。初めての社会的評価であった。

 この『朗読の理論』(木鶏社発行/星雲社発売)は、発行の翌年の戦後64年(西暦2009年)2月に、立命館大学の2009年入学試験(国語問題)の出題文に採用されたのである。これは全く私の想定外の出来事だった。しかも、この試験問題は大手の進学塾の国語の問題集にも採用され、今も受験生の眼に触れている。

 そして、同年10月に、この『朗読の理論』を読んだ漫画家・片山ユキヲ氏および小学館の担当編集者・高島雅氏より、日本で初めての朗読漫画『花もて語れ』に対する「朗読協力」を依頼され、受諾したのである。その朗読漫画『花もて語れ』は、翌2010年から2014年まで漫画雑誌に連載された(単行本全13巻完結)。









| | コメント (0)

館長の朗読指導メモ 84/彩木香里さんの『花もて語れ』についてのコメント

館長の朗読指導メモ 84   (戦後70年12月21日)



彩木香里さんの『花もて語れ』についてのコメント



《館長の事前コメント》

 以前から、私は、一般的にプロと見なされている朗読家や朗読指導者が、拙著『朗読の理論』や朗読漫画『花もて語れ』をどのように受けとめているのか、そして、それらをどのように活用しているのか、ということに深い関心を寄せていた。私なりにネットを検索してみたのだが、なかなかそういう事例に行き当たらなかった。

 まだ朗読を修練中の若手の朗読者の中には、拙著『朗読の理論』や朗読漫画『花もて語れ』を高く評価し、参考にしてくれている方々の事例を、何件も見つけることができた。しかし、すでに朗読家としてかなりの実績を積み、何人もの弟子を指導している朗読指導者の中には、あまりそういう事例を見つけることができなかった。

 日本の実績のある朗読家や朗読指導者はプライドが高い。なかなか他人の朗読理論を受け入れ、活用することはないだろう。そろそろ、これは、日本の朗読界において世代交代がかなり進まないと、なかなかむずかしいのではないかと思い始めていた。ところが最近、彩木香里さんという朗読家(語り家)のブログに行き当たった。

 彩木香里さんのブログには、残念ながら拙著『朗読の理論』についての言及はなかった。しかし朗読漫画『花もて語れ』については、以下に引用するように何回か言及していた。しかも、朗読漫画『花もて語れ』に籠めた私の朗読の理論を高く評価し、深く理解し、大いに活用してくれている。私としても、こは大変に嬉しかった。



++++++++++++++++++++++++++++++++



ブログ「彩木香里/宮沢賢治の童話と日常」よりの引用



花もて語れ
2012-12-05 | 本・DVD

スタジオで読んですぐ欲しくなった本。『花もて語れ』

朗読をやっている人はきっとためになると思います。
マンガ本でしょ と侮ってはいけない。

とても基本的なことをマンガでわかりやすく説明してくれています。
世界の外から作者が物語を作り出しているところ作者が場面内に近づく視点の転換感情移入作者や登場人物の想いが伝わった時語り手の想いが伝わる。

語り手の感情だけで全部を語ってしまうと、それはただの読書感想文になってしまいます。
自分が語っていて一番気をつけていることだけど、なかなかできなくて困っていることでもあります。

ただ字を読むだけなら誰にでもできるし、ただ感情を入れて読むだけなら「それは家でやってくれ、わざわざお金をとって舞台でやることではない」と言われてしまう事に繋がっていて、考えさせられます。

スタジオで読んで大事なところはメモしたんだけど、やっぱり迷ったらこの本を読み返そうと思ってポチっ。
今夜またこれを読み返して『よだかの星』を細かく分析して語り分けのしるしを台本に書き込もう。

自分の感性や感覚だけに頼った読みももう限界。
答えは本の中にある。

勝手に物語をねじ曲げないよう要注意ですね。




花もて語れ 
2013-07-31 | 本・DVD

すっかり忘れておりました。
花もて語れ 8 とっくに発売されてたんだ。

今回は『注文の多い料理店』です。
ハナちゃんが語ります。

2人の紳士のキャラ分けはヤラレタ〜。
そうなの、そうなの、そうなのよ。

この紳士がオモロイわけで、人間味溢れてるっていうか、イラっとくるというか・・・。
賢治が描く人間って大好き。

それから距離感の表現。間。
こんな風に語れたらな。




花もて語れ
2014-10-05 | 本・DVD

ありゃ、もしかして読んでない?

来年度は2作品の演出が決まってるから、その前に軽く予習・復習しようと思って本棚を見たら見覚えのない「花もて語れ」が2冊。

満里子さんと一緒に実家に帰る話と、ハナちゃんがステップ5と6に進む話。

実家でハナちゃんが鈴木三重吉の「ぽっぽのお手帳」を朗読するわだが、

にやァにやァや、黒が来たのは、ぽつぽにくらべればずつと後のことです。にやァにやァは、すゞちやんが、やつとはひはひするころに、或をぢちやんがもつて来て下さつたのでした。黒は、たつたこなひだ、お家の犬になつたばかりで、もとは、そこいらののら犬だつたのです。そのつぎに、一ばんおしまひに、君がおもりに来たのです。

君とは一体誰?
この君を理解して全体の内容を理解して読まないと、ただ文字をツラツラを読むことになるんだろう。

【童話を理解する事】  よくわかる。

11巻はハナちゃんが坂口安吾の「風博士」を朗読する。
「間」と「視点の転換」これはやっぱり大切だ。
間はカウントの間ではない。
舞台上の自分と客席の空気を感じてつくり上げる間。
自分がつくった間を埋める事ができなければ、ただの死に間だ。

それにしても「風博士」はわけがわからない。
わからないんだけど、ぷっと笑える瞬間があって面白い。
ぷっと笑えるのにその奥には人間が見える。

この作品は自分との戦いだ!

次は夢野久作の「瓶詰地獄」・・・うっ、漢字だらけで難しそう。
早く読みたいなと思ったら、既に13巻まで出てるではないか!
すぐにポチった。




花もて語れ
2015-11-15 | 本・DVD

『銀河鉄道の夜』の会計他諸々の事務作業がやっと終わった。
先日「これから決裁に進みたいと存じます」との連絡をいただいて、やっと一安心。
これで若手の稽古に集中できる。予想以上に時間がかかってしまってちょっと出遅れた。
自分が演出する作品をざっと読み、参考文献に目を通しながらやはり一番大切な「伝えること」についての心構えを・・・。

花もて語れ   一気読み!

マンガだと侮ってはいけない。
朗読、表現するためにどうやって文章を読み解くか大きなヒントが沢山!!

一人語りの稽古に入る前には必ず読む本なのです。

第1巻は「やまなし」。
私が一番最初に語った作品ということもあって、とても勉強になった。
第3巻の「花咲き山」は一歩間違えると説教臭くなってしまう危うさが、今やってる宮澤賢治の童話と重なっているように感じて、クールダウンする事ができた。
第4巻「トロッコ」・・・・私には意味がわかりませんいつかわかる日が来るのでしょうか・・・。
第8巻「注文の多い料理店」。
この解釈については何度も読んでるんだけど、読む度に気がつくことがある。自分の読み方や解釈も変わってきてるのかな?
第9巻は火野葦平の「かっぱの皿」。
前回読んだ時にはわからなかったことが少しわかった。
第12巻 夢野久作の「瓶詰の地獄」。
一見簡単な文章に見えるけど難しいんだな・・・と気がついた。
全13巻を読むと、朗読のステップ6まで学べるマンガなので絶対にオススメ!!

一気に全部クリアすることはできないけど、少しずつ先に進みたい。

大切な事は「伝えたい気持ち」。
その伝えたい気持ちって何だ?沢山の宮澤賢治の童話の中からやりたい作品を1つ選ぶ。その時にきっと伝えたい何かがあるからその作品を選ぶんだろう。聴いてもらいたい想いがあるんだろう。勿論満員のお客様の前でその想いを伝えることができたら幸せかもしれない。
でも、一人でも、二人でもいいのではないか?本当に「伝えたい気持ち」を届けたい想いに人数は関係ないのでは?と思ったりもする。

ポランの会では来年の2月にミニステージ、8月には若手公演があります。
制作と演出をやっていると、大きな赤字は出したくないという現実と表現者の想い、矛盾する感情が交錯し、自分を見失わないようにコントロールするのが難しく、もう何年も無限ループにはまっています。

だけど、答えはわかってる。
そこに早く辿り着きたい。

今日は早速13冊持って稽古に行ってきます。



+++++++++++++++++++++++++++++++++



《館長の事後コメント》

 ブログ「彩木香里/宮沢賢治の童話と日常」の主宰&運営者である彩木香里さんは、ブログのプロフィールによると、東京都の居住する女性で、ナレーターであり、現在は「ものがたりグループ☆ポランの会」の代表ということである。日本の声優事務所の「株式会社ぷろだくしょんバオバブ」に所属する声優さんでもあるらしい。

 「ものがたりグループ☆ポランの会」は2004年に城山堅を中心に発足し、宮澤賢治の全童話作品の上演を目指しているという。作品における地の文から登場人物の台詞まで、そのすべてを一人で語る「一人語り」を主に上演しているが、構成によっては地の文と登場人物などを数人で演ずる「語り合わせ」も上演するという。

 これは、私が目指す「感動をつくる朗読」とは、かなりタイプが異なる。しかし、朗読は風呂敷のようにさまざまなタイプを包み込む、懐の深い芸術である。このような朗読的な取り組みも大いに意義があると思う。どのようなタイプであれ、朗読漫画『花もて語れ』を高く評価し、大いに参考にしてくれるのは嬉しい限りである。





| | コメント (0)

館長の朗読指導メモ 83/「Yahoo!知恵袋」の質問「朗読における、『視点の転換』について教えてください」に答える(その3)

館長の朗読指導メモ 83   (戦後70年09月24日)



「Yahoo!知恵袋」の質問「朗読における、『視点の転換』について教えてください」に答える(その3)



《館長の事前のコメント》

 インターネットをあれこれ検索していたら、「Yahoo!知恵袋」のなかに朗読漫画『花もて語れ』に展開している「視点の転換」に関する質問を見つけた。質問者の「fairisleknitさん」はなかなか目のつけどころが良く、しかも、ご当人なりにかなり『花もて語れ』と原文を読み込み、ある水準の理解にまでたどり着いている。

 それに反して、回答者の「fpontakun2bさん」は、自分の低い水準の先入観にとらわれ、原文の読解も平板で、ご当人が「視点の転換」を全く理解できていないことを自己暴露している。しかも、それに気がつかないどころか、朗読漫画『花もて語れ』の悪口まで書いて自らの恥をさらしている。よく居る書き手のタイプである。

 それはともかく、以下に、先ず質問者の質問と、それに対する質問者自身の【補足】、および、質問に対する回答者の回答を提示し、その後、それら3つの文章を、順次、吟味していきながら、私なりの答えを提示することにする。ただし、少し長くなると思われるので、1回では終わらないと思う。数回に分けて書くことにする。

 ちなみに、朗読漫画『花もて語れ』の朗読に関する質問がある場合は、直接、私のブログ「感動をつくる・日本朗読館」のコメント欄に質問することをお勧めする。少し調べれば、私のブログは直ぐに探し出すことが出来るはずだし、コメント欄に直に質問していただければ、時間の許す限り、ていねいにお答えするつもりでいる。


++++++++++++++++++++++++++++++++


○fpontakun2bさんの回答(2013年9月4日)に対する館長からのコメント


 端的に言って、この「fpontakun2bさん」は『視点の転換』ということを、ほとんど全く理解できていない。それは当然、文学作品の解読自体も解読の方法論も、それに対応した水準に止まっていることを意味している。そのことを、以下に「fpontakun2bさん」の回答を少しづつ取り上げつつ、逐条的に明らかにしていく。



○fpontakun2bさんの回答(1)

 こんにちは。
 この説明は、間違っていますね。どうしてこうなったのか不思議です。
 まず、
>α=作品世界の中に入っての作者の視点
>β=作品世界の外からの作者の視点

 これでは、「作品の中」で「作者が視点を持っている」ことになります。
 遠くから作品を眺めるように、考えてみてください。


【館長からのコメント】(1)

 「fpontakun2bさん」には、「『作品の中』で『作者が視点を持っている』」ということが不思議でならないようである。ただし、これは「fpontakun2bさん」が不思議に思うというよりも、単に「fpontakun2bさん」が理解できないというだけである。しかも、自分が理解できないことを、間違っていると即断している。



○fpontakun2bさんの回答(2)

 作者は作品を書く人で、作品の中には入れませんし、視点ももてません。
 朗読における視点の転換として説明をするなら、普通に小説を読む場合は、α、βともに、「神の視点」といわれる、作品世界を見渡すことができる視点です。
 神の視点は朗読で言えば「ナレーター」です。登場人物として読む部分ではないので、そういいます。


【館長からのコメント】(2)

 『視点の転換』には「現実的な『視点の転換』」と「観念的な『視点の転換』」の2種類がある。地図を描くときに、実際に飛行機に乗ったり、高い山に登ったりして、実際に『視点の転換』をする場合が「現実的な『視点の転換』」。反対に、ただ想像上で高い地点に視点を置いて地図を描く場合が「観念的な『視点の転換』」。

 人間は現実の生活で「現実的な『視点の転換』」と「観念的な『視点の転換』」の両方を駆使しつつ、認識を深め、広げ、豊かにしていく。特に作家が文学作品を書くときは、現地に取材に行くなどの「現実的な『視点の転換』」を活用しつつ、より想像&創造的な「観念的な『視点の転換』」を併用的に駆使して、創作していく。

 実際の創作活動をしている作家が、「fpontakun2bさん」のように「作者は作品を書く人で、作品の中には入れませんし、視点ももてません」と言う言葉を聞いたら、おそらく笑い飛ばすことであろう。従来の朗読関係者は、よく「神の視点」などと言うが、こういうところになぜわざわざ「神」などを持ち出すのであろうか? 

 おそらく、現実の人間が、現実の生活において「観念的な『視点の転換』」を駆使しているという事実に気がついていないからであろう。現実の「人」は、従来の朗読関係者や「fpontakun2bさん」などが想定している「神」などよりは、ずっと高度で豊かな能力をもっている。「観念的な『視点の転換』」などお手の物である。

 また、せっかく「神」を持ち出したのなら、なぜ「神の視点」を「ナレーター」の立場(場面外の視点)に限定してしまうのか。文字通りの「神」ならば、変幻自在のはずである。文学作品の作品世界(場面)の外だろうが、内だろうが、あるいは、登場人物の心の内だろうが、どこにでも『視点の転換』くらいできるはずである。



○fpontakun2bさんの回答(3)

>この違いは、どこから読み取れるのでしょう?
 文学作品の解釈は自由ですから、だれがどう解釈してもいいといえばいいですが、作品の中に作者が入るというのは、非常に浅い読みです。自分と似た、あるいは作者としては自分と同じ視点を作品中に入れることはできます。
 しかし、作品の中に作者の視点が入ってしまったら、作品全体を統べる作者の位置を作品のそとに設定せねばならず、そうなるとその作品については作者が二人いることになってしまいます。
 火野葦平という作家は、私小説の作家なので、「花もて語れ」を書いた人が、私小説の作家は作品の中に視点を持っていると考えたのかも知れません。


【館長からのコメント】(3)

 「fpontakun2bさん」は「作者が二人いること」が気に食わない、または、どういうことか理解できない。実際の作者は「現実的な『視点の転換』」と「観念的な『視点の転換』」の両方を駆使しながら創作していくから、二人どころか、無数の作者になって創作していく。この事実は、私小説家か否かとはまったく関係がない。

 場面内に視点を置く場合でも、その場面しか認識できない作家となることもできれば、その場面内に存在しながら「作品全体を統べる作者」となることもできる。この程度の「観念的な『視点の転換』」であるならば、わざわざ「神」を持ち出さなくても、現実の「人」である作家であっても、通常の創作過程で常に行なっている。



○fpontakun2bさんの回答(4)

 「花もて語れ」のなかで書かれているα、βの違いは、
>惨劇はどこで行なわれたかわからない。
 設定した視点から見て、惨劇の場所が分からないから、
「作品世界の中に入っての作者の視点」と書いたのだと思います。
いってみれば、作品世界の中に入っているので、見えない場所がある、
ということでしょう。
 しかし、神の視点を持っているからといって、
すべての事象を書かなければいけないわけでもないし、
βでも、例えば骨董屋の主人の服装、若者たちが店の戸を開けたのか、
戸が開いていたのか、書いてありません。


【館長からのコメント】(4)

 ここら辺になると「fpontakun2bさん」はかなり混乱してきて、自分で何を言っているのかよく分からなくなってきているようである。たとえば「神の視点を持っているからといって、すべての事象を書かなければいけないわけでもない」というところなどがそれである。「神」が、なぜ「〜わからない」と書くのだろうか?

 すべてを知っているはずの「神」が、なぜ、わざわざ「惨劇はどこで行なわれたかわからない」と書いているのだろうか? この「fpontakun2bさん」が想定している「神」は、嘘をいっているのか? それとも、白を切っているのか? もちろん、この「神」を現実の「人」=「作家」に置き換えてもまったく同じことである。

 「すべての事象を書かなければいけないわけでもない」ということと、「惨劇はどこで行なわれたかわからない」というように「〜わからない」と書くことの、根本的な違いがわからなければ全く話しにならない。もちろん、作家が「すべての事象を書かなければいけないわけでもない」ということ自体は、当たり前の話しである。



○fpontakun2bさんの回答(5)

 結局この説明は何の意味もないので、推測ですが、
この「花もて語れ」という作品はあまり信用しないほうがいいと思います。
 ナレーターは、α、β分けて考える必要は無いです。


【館長からのコメント】(5)

 「fpontakun2bさん」が「結局この説明は何の意味もない」と言っているのは、まさに、ご当人が「結局この説明」を全く理解できていない、と告白しているに過ぎない。そのような理論的水準で、安直に「この『花もて語れ」という作品はあまり信用しないほうがいいと思います」などという悪口を公言しない方が良いと思う。

 また、同じく、安直に「ナレーターは、α、β分けて考える必要は無いです」などと公言しない方が良いと思う。実際「α、β分けて考える必要は無い」などという「ナレーター」の朗読が、いかに平板で退屈なものか。「fpontakun2bさん」はもっと謙虚に勉強するべきだ。せめて拙著『朗読の理論』くらいはよく読むべきだ。



○質問した人からのコメント(2013年9月4日)

 fpontakun2bさん、長文でのご回答、ありがとうございました。
 私自身よく分かっていなかったとはいえ、色々お考えいただき感謝に堪えません。
 お礼に代えてベストアンサーとさせていただきます。


【館長からのコメント】

 果たして「fpontakun2bさん」に、この「fairisleknitさん」からのコメントの真意、「fpontakun2bさん」の回答に対する不満感や軽い皮肉を読み取ることができるだろうか? それは同時に「fairisleknitさん」の「質問」や【補足】の方が「fpontakun2bさん」の「回答」より水準が高いと自覚することでもある。

 今回の「館長の朗読指導メモ」は、必ずしも「fairisleknitさん」の質問に答えることや「fpontakun2bさん」の回答を批判すること(あるいは悪口に反論すること)が目的ではない。むしろ、私のブログを読んで下さる方々に、表現(文)における『視点の転換』をより的確に認識していただくことの方を主目的にしている。

 従って「Yahoo!知恵袋」の方に直に回答することをせず、この「館長の朗読指導メモ」に記すことにした。本当に「朗読における、『視点の転換』について教えてください」と思った方々なら、朗読における『視点の転換』を初めて提起した私のブログを探し出し、この「館長の朗読指導メモ」を読むはずだ、という想いもある。







| | コメント (0)

館長の朗読指導メモ 82/「Yahoo!知恵袋」の質問「朗読における、『視点の転換』について教えてください」に答える(その2)

館長の朗読指導メモ 82   (戦後70年09月23日)



「Yahoo!知恵袋」の質問「朗読における、『視点の転換』について教えてください」に答える(その2)



《館長の事前のコメント》

 インターネットをあれこれ検索していたら、「Yahoo!知恵袋」のなかに朗読漫画『花もて語れ』に展開している「視点の転換」に関する質問を見つけた。質問者の「fairisleknitさん」はなかなか目のつけどころが良く、しかも、ご当人なりにかなり『花もて語れ』と原文を読み込み、ある水準の理解にまでたどり着いている。

 それに反して、回答者の「fpontakun2bさん」は、自分の低い水準の先入観にとらわれ、原文の読解も平板で、ご当人が「視点の転換」を全く理解できていないことを自己暴露している。しかも、それに気がつかないどころか、朗読漫画『花もて語れ』の悪口まで書いて自らの恥をさらしている。よく居る書き手のタイプである。

 それはともかく、以下に、先ず質問者の質問と、それに対する質問者自身の【補足】、および、質問に対する回答者の回答を提示し、その後、それら3つの文章を、順次、吟味していきながら、私なりの答えを提示することにする。ただし、少し長くなると思われるので、1回では終わらないと思う。数回に分けて書くことにする。

 ちなみに、朗読漫画『花もて語れ』の朗読に関する質問がある場合は、直接、私のブログ「感動をつくる・日本朗読館」のコメント欄に質問することをお勧めする。少し調べれば、私のブログは直ぐに探し出すことが出来るはずだし、コメント欄に直に質問していただければ、時間の許す限り、ていねいにお答えするつもりでいる。


++++++++++++++++++++++++++++++++


○fairisleknitさんの質問(2013年9月4日)に対する回答

 先ず、この「fairisleknitさん」の【補足】から見ていこう。この【補足】では、「α=作品世界の中に入っての作者の視点」と「β=作品世界の外からの作者の視点」が次のように理解されている。

 α:骨董屋の裏口から、目つきのわるい屈強の若者が四五人、そっと抜け出た。惨劇はどこで行なわれたかわからない。
 α=その場面での事物の動き

 β:目的をはたした若者たちが店にひきかえしたとき、骨董屋の主人は粉微塵になった皿のまえで、茫然と立ちつくしていた。
 β=場面説明(または転換)、時間の経過(βの文には「〜したとき」という時間経過を示す文がありました)

 このような理解の仕方は、やはり、かなり鋭いし、内容的にもそれなりのものがある。

 なぜなら「α=作品世界の中に入っての作者の視点」に立った場合には、たしかに「α=その場面での事物の動き」を示す内容の表現が多くなるからである。ただし、その他にも、その場面内における表現主体(原作者や登場人物)の認識や思考や心情などを示す内容の表現もあり得る。

 また「β=作品世界の外からの作者の視点」に立った場合には、たしかに「β=場面説明(または転換)、時間の経過」を示す内容の表現が多くなるからである。ただし、その他にも、場面の外(原作者の書斎など)から観念的に見た「その場面での事物の動き」や、その場面内における表現主体(原作者や登場人物)の認識や思考や心情などを示す内容の表現もあり得る。

 つまり『視点の転換』を問題にする場合には、やはり、表現の表現主体の視点がどこにあるか(場面内か場面外か登場人物の心の中か)が第一義なのであり、表現の内容が何であるかは二義的な問題である。もちろん、表現されている内容も、その表現の表現主体の視点がどこにあるかを探っていくための重要な手がかりにはなる。

 ところで、その表現の表現主体の視点がどこにあるかを探っていくための重要な手がかりとして忘れてはならないものに、その表現(文)の時制がある。現在形と現在完了形の表現(文)は表現主体の視点が置かれた場面内で起こっていることを表わし、過去形の表現(文)は表現主体の視点より過去に起きたことを表わしている。

 「fairisleknitさん」があげた例文α「骨董屋の裏口から、目つきのわるい屈強の若者が四五人、そっと抜け出た。惨劇はどこで行なわれたかわからない」の文の時制は現在形、過去形、現在完了形のどれであろうか。「〜、そっと抜け出た」は過去形か現在完了形である。この場合の日本語は過去形と現在完了系が同じだから。

 従って、この場合はどちらとも読めるが、多くの場合は現在完了形として朗読した方が迫力がある。現在完了形というのは、その場面内に視点を置き、目の前で起こった出来事が今まさに目の当たりで完了したことを表わす時制表現である。しかも、それに続く「惨劇はどこで行なわれたかわからない」は明らかな現在形である。

 表現主体の視点がある場面内で起こった出来事を、その場面内に視点を置いて表現しているからこそ、表現(文)の時制は現在形か現在完了形となる。また一般的に、朗読表現は、表現主体の視点が場面内にあるとした方が、臨場感も緊迫感も際立ってくることは言うまでもない。この場合の朗読表現は、ドラマチックになる。

 「fairisleknitさん」があげた例文β「目的をはたした若者たちが店にひきかえしたとき、骨董屋の主人は粉微塵になった皿のまえで、茫然と立ちつくしていた」の時制はどうだろうか。「〜若者たちが店にひきかえした」の時制は明らかな過去形であるし、また「〜、茫然と立ちつくしていた」の時制も明らかな過去形である。

 原作者が、書斎の内で執筆している視点(作品世界外の視点)に立って表現しているからこそ、表現(文)の時制が明らかな過去形になっているのである。また、このような作品世界を閉じるような場合には、表現主体の視点を作品世界の外に転換し、遠くからその場面を朗読表現した方が余韻が残る良い終り方になるのである。







| | コメント (0)

より以前の記事一覧