06館長の朗読指導メモ

館長の朗読指導メモ 104/『星の王子さま』の解読メモ(その3)

館長の朗読指導メモ 104   (戦後73年08月30日)




『星の王子さま』の解読メモ(その3)



○『星の王子さま』が最終的に到達した思想(1)

 その後『星の王子さま』の思想はキツネの段階にとどまらず、さらにその先に進んでいく。その途中にいくつかの挿話が挟まれる。星の王子さまと主人公は、砂漠の中の井戸を探し出し、心に良い水を汲みだして飲む。そこで星の王子さまは、砂漠が美しいのはそのどこかに井戸をかくしているからと告げる。それを聴いて、主人公は子供のころに住んでいた古い家のことを思い出す。

 その家にはなにか宝が隠されているという言い伝えがあった。その宝のおかげで、その古い家全体が美しい魔法にかかっているように見えたことを思い出したのである。そして、星の王子さまは言う。バラ園の5千本のバラの中のたった1本のバラのなかにも、人間の探しているものは存在している。だけど、目ではなにも見えない。心でさがさないと、と。主人公はそれに同意する。

 別れが近づいてくると、星の王子さまは自分の星に帰るために、主人公には内緒でヘビとその段取りを話し合う。そして、心配する主人公につぎのようなことを告げる。自分はこれから自分の星に帰るが、空には5億もの星があるから、どれが自分の星か見分けられないだろう。しかし、自分が自分の星で笑うと、主人公が心で見れば、どの星もみんな笑っているように見えるだろう。



○『星の王子さま』が最終的に到達した思想(2)

 すなわち、人間が心で見れば、どの星もまるで笑い上戸の鈴のようになる。喉が渇いたときには、どの星も井戸のようになる、と星の王子さまは告げている。以上のことは、どのような思想を表しているだろうか。バラ園の5千本のバラを例にとると、それらのバラに接している人間が心で見れば、どのバラにも自分が探している大切なものがあることを発見する、という思想である。

 キツネと会った直後に、同じバラ園に行ったときの星の王子さまとはかなり考え方が変わってきている。そのときの星の王子さまは、バラ園の5千本のバラたちが自分の星の一つだけのバラとはまったく違っていると感得し、納得した。そして、自分の星のバラ1本が、バラ園の5千本のバラの全部よりも大切だ、と断言した。今は5千本のバラの1本1本が大切な存在になっている。

 キツネの思想は、直接に特別な絆をもった相手だけが大切な存在であり、それを大切にしなければならない、というものである。星の王子さまは、そういうキツネの思想と、キツネのもう一つの思想である「ものごとは心で見なくては良く見えないこと、一番大切なことは目に見えないこと」を融合し、特別な絆をもった相手だけが大切な存在であるという思想をさらに普遍化させる。



○『星の王子さま』が最終的に到達した思想(3)

 人間が心で見れば、直接に特別な絆をもった相手だけではなく、すべての相手に対して同じような絆を見ることができるし、そういう直接目に見えない関係こそが大切なんだ、という思想である。星の王子さまがこのようにキツネの思想を普遍化させた陰には、ヘビ(人類の大人時代の化身)の近代的思想が介在しているはずである。この点に『星の王子さま』は何も触れていないが。

 このように解読してみると、原作者サン=テグジュペリのシンプルだが壮大な思想が見えてくる。すなわち、人間が人類の子供時代あるいは幼年時代(キツネ)にもっていた思想は、近代人は忘れてしまったが、実はとても深くて良いものであった。ただし、それは個別的であり、特殊的であった。それを人類の大人時代(ヘビ)の思想を介して、より普遍化したものに昇華させたい。

人類の子供時代あるいは幼年時代(キツネ)にもっていた思想や人間関係のあり方は、親密&緊密である反面、‌人間の自由や基本的人権を束縛する傾向がある。人類の大人時代(ヘビ)の思想は、人間の自由や基本的人権を増進させた反面、個々の人間をバラバラにしてしまった。原作者サン=テグジュペリは、両方の良いところを両立させるという理想を夢見ているように思われる。


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館長の朗読指導メモ 103/『星の王子さま』の解読メモ(その2)

館長の朗読指導メモ 103   (戦後73年08月28日)




『星の王子さま』の解読メモ(その2)



○「キツネ」はなにを象徴している存在か(1)

 サン=テグジュペリ原作『星の王子さま』に登場している人物(動植物)は、それぞれなにを象徴しているであろうか。主人公は、原作者サン=テグジュペリのほぼ等身大の分身とみてまず間違いないであろう。この主人公は、子供の心を多分に保持している大人である。星の王子さまはなにを象徴しているであろうか。純真で賢い子供の心を象徴した、その化身とみるべきであろう。

 星の王子さまが、自分の星に残してきたバラはなにを象徴しているであろうか。男の子供にとっての女性的な美の象徴、その化身とみるべきであろう。ヘビは、旧約聖書の「創世記」に登場するヘビを連想させる。そのヘビは、イヴに知恵の実を食べるようにそそのかしたとされている。おそらく近代人の大人、あるいはそれらの知恵や知識を象徴した、その化身とみるべきであろう。

 問題はキツネである。キツネは近代人の大人、あるいはそれらの知恵や知識と対立している存在である。今では忘れられたり、すたれてしまった昔の伝統や風習やしきたりを大切にしている。非常に純真で子供のようなところもあり、かつ、非常に深い人間的な知恵や洞察力をもっている。反面、獲物である鶏には目がなく、鶏を獲ることには夢中になってしまう獣性をももっている。



○「キツネ」はなにを象徴している存在か(2)

 私が今回ひらめいたのは、このキツネは子供時代の人類の英知や習性、まだ幼年期であった古来の人類がもっていた良き伝統や風習やしきたりを象徴した、その化身とみるべきではないか、ということであった。アメリカ大陸に先住していたインディアンと呼ばれた人たち、日本の古来のアイヌと呼ばれた人たち、あるいは、田舎に色濃く残っている古来の日本人の英知や習性の象徴。

 これを一言でいえば、キツネは、人類の子供時代あるいは幼年時代を象徴した、その化身とみるべきではないか、ということである。このように見ると、この『星の王子さま』は、純真で賢い子供の心(星の王子さま)と、人類の子供時代(キツネ)と、近代化した人類の大人時代(ヘビ)と、子供の心を保持した近代人(主人公)との、思想的展開を描いた作品であることが分かる。

 星の王子さまが6つの星を見学してまわって遭遇する人たち、命令好きな王さま、うぬぼれ屋、酒好きな人、実業家、街灯の点灯人、地理学者、はどのような存在であろうか。彼らは、近代化した人類の大人時代において、人間が自分では知らない間に、さまざまに分業化され、畸形化されたさまざまなタイプの近代人(大人)を象徴した、それぞれの分身たちと考えるべきであろう。



○「キツネ」はなにを象徴している存在か(3)

 星の王子さまは、地球に来て、バラが5千本も咲いているバラ園を見て、自分の星にあったバラがこの世で唯一のバラではなく、特別のバラでもないことを知ってガッカリし、ショックを受ける。その星の王子さまに、キツネは、人間と人間との関係、あるいは、人間と動植物との関係、さらには、人間と物との関係においても、個別的な関係の積み重ねが大切であることを教え諭す。

 そして、これらは近代の人間が忘れてしまったことだがと付言しながら、絆を結ぶことの大切さ、慣わしの大切さ、人間が他者と関係する場合に相手と費やす時間の大切さ、そして、そういう相手には責任を持つべきことを説く。最後に星の王子さまへの贈り物として一つの秘密「ものごとは心で見なくては良く見えないこと、一番大切なことは目に見えないこと」を教えるのである。

 まさに、人類の子供時代あるいは幼年時代を象徴した存在であるキツネの面目躍如といったところであろうか。キツネにそのように説かれた星の王子さまは、再びバラ園のバラたちに会いに行き、それらのバラたちが自分の星の一つだけのバラとはまったく違っていることを感得し、納得する。そして、自分の星のバラ1本が、バラ園の5千本のバラの全部よりも大切だ、と断言する。








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館長の朗読指導メモ 102/『星の王子さま』の解読メモ(その1)

館長の朗読指導メモ 102   (戦後73年08月27日)



『星の王子さま』の解読メモ(その1)



○解読の経緯と糸口(1)

 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ原作の『星の王子さま』は難解な作品である。私が初めてこの作品を読んだのはかなり以前のことだが、内容は大変面白かったが、原作者の考えや思想を的確に理解できたという実感はとうとう最後まで得られなかった。朗読サークルの指導を始めてから、その朗読発表会として大作を読み継ぎ形式で上演し、その演出も受け持つようになった。

 その朗読発表会用の台本の有力な原作候補として、私はかなり早くからこの『星の王子さま』に目をつけていた。それは、複数の翻訳本が出版され始めた頃だったから、いくつかの翻訳本を買い求めてそれらの翻訳文を比較検討したり、そのなかの良さそうなものの台本化(短縮化)を試行したりした。しかし、内容の解読はさっぱり進まなかったので、演出はできないと諦めていた。

 ところが、戦後73年(西暦2018年)9月22日に開催を予定している八千代朗読サークル「新・みちの会」の朗読発表会で、この『星の王子さま』を上演することが決まってしまった。近年は、朗読発表会の原作選定と台本化を基本的にはサークルの自主性に任せている。八千代朗読サークル「新・みちの会」はサークル会員の総意として『星の王子さま』を選定したのである。



○解読の経緯と糸口(2)

 私は「この作品は内容がむずかしいから……」とかなんとか言って思い止まらせようとしたのだが、サークル会員の総意ということで押し切られてしまった。翻訳本の選定も、台本化(短縮化)も、サークルで自主的に進めてしまった。出来上がった台本を渡された私は、朗読指導&演出をするために、その台本を懸命に読み込まざるを得ない立場に追い込まれてしまったわけである。

 その結果、しばらくすると「窮すれば通ず」というわけでもないだろうが、解読の糸口が見つかった。私自身が常に指導していることだが、文学作品には、物語性の展開を主としたものと、思想性の展開を主としたものがある。思想性の展開を主とした作品を解読する場合は、登場人物や登場物や出来事を原作者の思想の象徴化されたものとして理解することが有力な方法なのである。

 今回も、あらためてその解読方法を『星の王子さま』に当てはめて考えていった。主人公(原作者の等身大の分身)、星の王子さま、バラ、キツネ、ヘビ、と考えていくうちに、不意に突如ひらめいて、キツネの正体がわかったのである。この『星の王子さま』に登場する人物(動植物)で、もっとも難解なのは「キツネ」である。他の登場人物(動植物)は、それほど難解ではない。



○解読の経緯と糸口(3)

 この「キツネ」の正体が判明した後は、主人公(原作者の等身大の分身)や星の王子さまやバラやヘビの正体と位置づけも、より鮮明に解読することができた。星の王子さまと「キツネ」のやり取り、その後の星の王子さまの思想展開なども、なるほど、と膝をつくような実感と共に、解読することができた。今回のように、一つ糸口が得られると解読が一気に進むことはよくあった。

 私が体験した主なものでも、宮澤賢治原作「セロ弾きのゴーシュ」における「三毛猫」の場合がそうだったし、樋口一葉原作「わかれ道」における「傘屋の吉」の場合もそうだった。また、芥川龍之介原作「羅生門」における「下人」の場合、芥川龍之介原作「杜子春」における「杜子春」の場合もそうだったし、太宰治原作「走れメロス」における「メロス」の場合もそうであった。

 今回、この「キツネ」の正体が判明した後の解読で開けてきたサン=テグジュペリ原作『星の王子さま』における思想性の展開は、実に気宇壮大な普遍性に満ちた内容をもっていた。その文学作品を解読出来て喜びと幸せを感じることはこれまでもたびたびあったが、この『星の王子さま』の場合は、宮澤賢治「セロ弾きのゴーシュ」や樋口一葉「わかれ道」に勝るとも劣らなかった。





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館長の朗読指導メモ100/日本の朗読文化の水準と館長の朗読活動(その5)

館長の朗読指導メモ100   (戦後73年08月20日)



日本の朗読文化の水準と館長の朗読活動(その5)



○私の朗読研究の成果が朗読関係者に少しづつ認知・評価されてきている(1)

 拙著『朗読の理論』(木鶏社)と朗読漫画『花もて語れ』(小学館)が公刊されて以降、私の朗読研究の成果が少しづつ認知・評価されてきている。朗読家あるいは朗読指導者から高く評価された事例を、管見の範囲で紹介してみよう。
 まず、ナレーター・野田やすこさんの『朗読の理論』についての事例。(ブログ「ナレーター・野田やすこの朗読サイト『みんなのおはなし』」より引用)

「これまで何冊も朗読に関する本を読んできましたが、この本は「日本人ならば、誰でも、日本語を読んだり、語ったり、聴いたりする事にかけては十分に達人のレベルに達している(本文より引用)」と、いう事を前提に、読む手法や技術ではなく、朗読する為には、作品(特に文学作品)の作品世界をどうイメージし、どう朗読表現すればよいのかが書かれています。なので、これまで『ついでに何かナレーションにも通じる技術的な事がないかなぁ』と、読んできた本とは、ちょっと違いました。本当に『理論』です」

「大学時代、教授の書いた本を読んでいた時の事を思い出しました。頭でしっかり書いてある事を理解しながら読んでいかないと、すぐに『あれ?何が書いてあったけ?』と、なってしまい、何度も読み返しつつ、たくさんメモを取りながら、ようやく読み終わりました。でも、最後まで読んで良かった!! と、いうか少し読んだ所で『これは、これまでになかった本だ!』と、思ったので理論的な文章に負けず読みました。本の中では『文学作品の朗読』と、対象を特に『文学作品』と、されていましたが、どんな本を読む時でも、ナレーション原稿を読む時でも役立つハズです。“頭の中”は、少しレベルUP出来た気がしています。私も『感動をつくる朗読』を、目指そう! 著者の東百道さんの朗読、聴いてみたいなぁ」



○私の朗読研究の成果が朗読関係者に少しづつ認知・評価されてきている(2)

 次に、ナレーター・彩木香里さん(ものがたりグループ☆ポランの会代表)の朗読漫画『花もて語れ』についての事例。(ブログ「彩木香里/宮沢賢治の童話と日常」より引用)

「スタジオで読んですぐ欲しくなった本。『花もて語れ』 朗読をやっている人はきっとためになると思います。
マンガ本でしょ と侮ってはいけない。とても基本的なことをマンガでわかりやすく説明してくれています。世界の外から作者が物語を作り出しているところ作者が場面内に近づく視点の転換感情移入作者や登場人物の想いが伝わった時語り手の想いが伝わる。語り手の感情だけで全部を語ってしまうと、それはただの読書感想文になってしまいます。自分が語っていて一番気をつけていることだけど、なかなかできなくて困っていることでもあります」

「ただ字を読むだけなら誰にでもできるし、ただ感情を入れて読むだけなら『それは家でやってくれ、わざわざお金をとって舞台でやることではない』と言われてしまう事に繋がっていて、考えさせられます。スタジオで読んで大事なところはメモしたんだけど、やっぱり迷ったらこの本を読み返そうと思ってポチっ。今夜またこれを読み返して『よだかの星』を細かく分析して語り分けのしるしを台本に書き込もう。自分の感性や感覚だけに頼った読みももう限界。答えは本の中にある。勝手に物語をねじ曲げないよう要注意ですね」

「自分が演出する作品をざっと読み、参考文献に目を通しながらやはり一番大切な『伝えること』についての心構えを・・・。『花もて語れ』一気読み! マンガだと侮ってはいけない。朗読、表現するためにどうやって文章を読み解くか大きなヒントが沢山!! 一人語りの稽古に入る前には必ず読む本なのです。第1巻は「やまなし」。私が一番最初に語った作品ということもあって、とても勉強になった。第3巻の『花咲き山』は一歩間違えると説教臭くなってしまう危うさが、今やってる宮澤賢治の童話と重なっているように感じて、クールダウンする事ができた。第4巻『トロッコ』・・・・私には意味がわかりませんいつかわかる日が来るのでしょうか・・・。第8巻『注文の多い料理店』。この解釈については何度も読んでるんだけど、読む度に気がつくことがある。自分の読み方や解釈も変わってきてるのかな?第9巻は火野葦平の『かっぱの皿』。前回読んだ時にはわからなかったことが少しわかった。第12巻 夢野久作の『瓶詰の地獄』。一見簡単な文章に見えるけど難しいんだな・・・と気がついた。全13巻を読むと、朗読のステップ6まで学べるマンガなので絶対にオススメ!! 一気に全部クリアすることはできないけど、少しずつ先に進みたい」



○私の朗読研究の成果が朗読関係者に少しづつ認知・評価されてきている(3)

 次に、ブログ「キリコさんの『朗読の部屋』」の「ご挨拶」から引用する。

「皆様、はじめまして。キリコと申します。(中略) 私は、小劇場で舞台役者をしている者です。演劇をやっていて、『朗読』『語り』というものに大変興味が湧いてきまして、そういった事について、色々と書いていこう、とブログの名前を改名したわけです。では、その朗読で、大切な事は何か。それは、読みながら、感動する事、そして、その感動を、聴き手と共有する事と思っています。そしてその為には、他人事ではなく、自分の事として朗読することが重要になってきます」

「どんなに滑舌が良くても、読み方が上手くても、声が美しくても、敵わない物があります。それが、本物です。テレビのドキュメンタリーなどで、実際に出来事を体験した方が発している言葉。実感のある言葉。これには、どんな「演技」でも勝つ事はできないと私は思っています。では、戦争の話を読むには、戦争に行っていなければいけないのか。そうではありません。そうなると、SFなどの朗読はまず出来なくなってしまいますし…」

「では、どうすればいいか。書かれている言葉を、出来るだけ自分の言葉のように読む訓練を重ねれば良いのです。その物語を好きになって、好きになって、とことん愛して、自分の血肉とする。決して真実の一点にたどり着く事は出来ませんが、その一点に限りなく近いウソを目指して」

「私の恩師の演出家は、こんな事を言っていました。『舞台は結局はウソ。でも、どうせ騙されるなら、気持ちよく騙されたいじゃない』 自分に起きた事のように、自分が見てきた景色のように、そんな風に語れたら、それは素敵な朗読であると、聴き手と響き合える朗読であると、私は考えています。そういう、素敵な朗読を実現するために、何をどうしたらいいのか。そんな事をああでもない、こうでもないと考えながら、皆さんと探していけたらと思っています」

「最後に、私の、朗読におけるバイブルをご紹介しておきます。東百道という方の、『朗読の理論』という本です。私が言っている事も、この方のこの本に多大な影響を受けています。ご興味がある方は、読んでみていただければと思います」





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館長の朗読指導メモ 99/日本の朗読文化の水準と館長の朗読活動(その4)

館長の朗読指導メモ 99   (戦後73年08月07日)




日本の朗読文化の水準と館長の朗読活動(その4)



○これまでの朗読指導はまったく見当はずれの内容に止まっていた(1)

 朗読においては、文学作品を「解読」し、その作品世界を的確にイメージすることが、最も重要である。当然、そのやり方を実際に指導することが、朗読指導者に求められる最も重要な指導内容なのである。しかし、その土台となる文学作品の具体的な「解読」方法については、これまでほとんど研究されてこなかった。当然、その指導方法もほとんど研究されてこなかった。

 また、従来の日本の朗読指導者においては、文学作品を朗読するための最も高度な日本語表現が、普通の日本人が現実の社会や生活の場で現実に駆使している普通の音声言語であるという認識がほとんど全くなかった。放送アナウンス的な表現や演劇(新劇)的なセリフ表現のように、非現実的で、特殊で、表現レベルの低い音声言語表現が朗読にふさわしいと思われてきた。

 したがって、放送アナウンス的な表現や演劇(新劇)的なセリフ表現あるいは日本の古典芸能的な音声言語表現など、すべての日本語表現の母体であり、土台であり、しかも最高の表現レベルでもあるところの、普通の日本人が現実の社会や生活の場で現実に駆使している普通の音声言語の研究が、これまではほとんどなされてこなかった。当然、指導もなされてこなかった。



○これまでの朗読指導はまったく見当はずれの内容に止まっていた(2)

 朗読における文学作品の「解読」方法については、おそらく日本で初めて私(=館長)が研究し、指導を実践したと自負している。私が土台としたのは、三浦つとむの言語論であり、吉本隆明の文学論であった。その成果は、拙著『朗読の理論』と共著『花もて語れ』で公表している。また、現在執筆中であり、今後公刊予定の次著『朗読の上達法』のなかでも展開している。

 朗読における音声言語の表現方法については、これもおそらく日本で初めて私(=館長)が研究し、指導を実践したと自負している。この分野については、先行する研究なり実践なりが見当たらなかったので、ほとんど独力での研究であり、指導実践であった。その成果は、次著『朗読の上達法』のなかで展開している。その成果は、朗読サークルのレッスンの賜物でもある。

 私は、戦後62年(西暦2007年)8月にブログ『感動をつくる・日本朗読館』を開設した。拙著『朗読の理論』を発刊した戦後63年(西暦2008年)3月の前年である。このブログは、私が朗読指導している朗読サークルにおける私の朗読レッスン録(=「館長の朗読日記」「館長の朗読指導メモ」)を主軸とし、それにレッスンの成果をリアルタイムで記している。



○これまでの朗読指導はまったく見当はずれの内容に止まっていた(3)

 拙著『朗読の理論』やブログ『感動をつくる・日本朗読館』の反応もかなりあったが、やはりもっとも大きな反響があったのは朗読漫画『花もて語れ』(漫画:片山ユキヲ/朗読協力・朗読原案:東百道)に対してであった。そのなかで、私(=館長)がもっとも「我が意を得たり」と思ったのは、児童文学評論家の赤木かん子さんのものであった。以下に、それを引用する。

「音読するということは、解釈&表現力だ。解釈ができたからといって、それを伝える技術がなければ伝わりはしないが、解釈ができなければ、表現もへったくれもないのである」「朗読は、ストーリーテリングとも、黙読とも演劇とも違う、独特の世界です。あんなに小学校で音読音読いってるのに音読がなにか、どうやってやるのかなんにもいわれない、討議されない。日本の学校っていうのは、おかしなとこです。知りたいかたは、どうぞお読みください」

「朗読がテーマの(つまりは読解とはなにか、を解説してくれるマンガなわけですが)『花もて語れ』13巻! 堂々の大団円です。(中略) 全国の国語の教師は読むべきです。てか、これができないといけないわけです。水に浮けない人を泳げるようにできるメソッドがあるように、文章を読解できるメソッドがあるのだ、ということですら、たいていの人には驚きでしょう。なぜなら学校で、そんなことはやったことがないからです。ようやく、読解について、いちいち説明しないでも、これ読んで、といえるものが生まれました(いや、解説書、あるんだけど、素人には読めないのよね)。作者に心から、ありがとう!をーー。助かったわぁ。本当にありがとうございました」








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館長の朗読指導メモ 98/日本の朗読文化の水準と館長の朗読活動(その3)

館長の朗読指導メモ 98   (戦後73年08月02日)



日本の朗読文化の水準と館長の朗読活動(その3)



○朗読の指導はどこに重点をおくべきか(1)

 この問題を考える場合、朗読の初心者が朗読的技術という点でどのようなレベルにあるか、ということを的確に理解することが大切である。これを、ピアノの初心者がピアノの演奏技術という点でどのようなレベルにあるか、ということと比較しながら考えてみよう。ピアノの初心者はピアノの演奏がほとんどまったくできない。すなわち演奏技術がほとんど皆無なのである。

 また、ピアノの初心者は、ピアノ作品の楽譜をほどんどまったく読めない。すなわち、作曲家が作曲した音楽作品の楽譜を見ても、そこに記されている楽譜を演奏するとどのような楽曲が聴こえてくるかということが分からない。当然、その音楽作品に作曲家がどのような曲想や楽想や思想を込めているか、などをイメージすることなどはほとんどまったくできないのである。

 朗読の場合はこの点の事情がまったく異なる。普通の日本の成人なら誰でも日本語の音声言語表現の達人といってよい。ピアノでいえばプロのピアニスト並みの実力がある。また、普通の日本の成人なら、皆、作家が創作した文学作品の文字言語を読むことなどすぐできる。そこに描かれている登場人物や場面も、作家がその文学作品で何を言いたいのかもかなり理解できる。



○朗読の指導はどこに重点をおくべきか(2)

 結局、たとえ朗読の初心者であっても、アクセント、イントネーション、発声、発語などの、日本語の音声言語表現の基本的なレベルを指導するなどということは、いわば釈迦に説法なのである。もちろん、ごく厳密な意味では間違ったりズレているかも知れない。しかし、現実の生活で問題がない程度には修得できているはずである。そうでなければ実際に生活できないのだから。

 朗読の演技の本質的な意味は、文字言語で表現されている文学作品の作品世界を朗読者の音声言語で再表現するところにある。朗読者が自分の朗読で再表現しようとしている文学作品には、複数の登場人物がそれぞれのセリフを表現する。さらに、文学作品の原作者までが地の文で表現している。朗読の場合は、原則として、1人の朗読者がその総てを1人の朗読で表現する。

 文学作品においては、表現主体である登場人物と原作者の視点は、空間的、時間的、表現主体的、あるいは、その内面的にも、まさに自在に転換される。それに伴ない、表現されている場面も空間的、時間的に自在に転換している。そのような作品世界を舞台上に視覚的に表現することは不可能である。朗読が表現するものは、視覚的な作品世界ではなくイメージなのである。



○朗読の指導はどこに重点をおくべきか(3)

 結局、朗読においては、たとえ観客を前にした舞台の上で朗読する場合であっても、演劇的な意味での視覚的な作品世界を舞台の上に表現することは無意味なのである。無意味どころか、かえって観客のイメージづくりを邪魔してしまう危険さえある。もし視覚的効果や音響的効果を考えるとすれば、観客のイメージづくりを助長することを目的とする方向が良いと思われる。

 それでは、朗読の指導はどこに重点をおくべきか。まず、土台となるのは文学作品の作品世界を的確に解読し、そのイメージを的確に想像・創造する力を修得させることである。ピアノ演奏でいえば、音楽作品の曲想や楽想や思想を読みとる力を修得させることである。重要なのは、そのための視点と方法(クラシック音楽でいえばアナリーゼの方法)を指導することである。

 朗読の表現技術という点では、日本の成人ならば、当人が現実の生活の場で駆使している日本語の音声言語の表現技術以上のものはない。問題は、他人(=原作者)が書いた文学作品を朗読する場で、当人のその表現技術を十全に発揮させる点にある。これが想像以上にむずかしい。すなわち、自分の言葉で自然な「語りかける語り口」で朗読するように指導することである。






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館長の朗読指導メモ 97/日本の朗読文化の水準と館長の朗読活動(その2)

館長の朗読指導メモ 97   (戦後73年07月23日)



日本の朗読文化の水準と館長の朗読活動(その2)



○従来の日本の朗読指導者の指導ポイント(1)

 私(館長)は、日本の既成の朗読界においては所属団体も係累もないから、日本の既成の朗読界の事情に通じているわけでもない。したがって、日本の朗読指導者の指導ポイントについても、自分が直接に見聞した狭い範囲のことしか分からない。以下に記す内容も、そういう管見の範囲内でのことである。日本の朗読指導者は、アナウンサー系と演劇系の2つに大別される。

 アナウンサー系の朗読指導者の指導ポイントは、アクセント、イントネーション、発声、発語といったところであろうか。もちろん、それらの全ては共通語(かつての標準語)に関するものに限定される。彼らが方言のアクセントなどを指導した話しなど、聞いたことがない。共通語(かつての標準語)については彼らの専門分野だから、重箱の隅をつつくような指導をする。

 ただし元アナウンサーといっても、朗読指導者として文学作品の朗読を指導する場合には、アクセント、イントネーション、発声、発語だけではまったく不十分であるから、自分の専門分野ではないイメージ表現や心情表現についても指導しなければならない。彼らはその分野に関する専門的な能力や経験がないのだから、自ずから主観的・情緒的な指導にならざるを得ない。



○従来の日本の朗読指導者の指導ポイント(2)

 演劇系の朗読指導者の指導ポイントは、演劇的発声、演劇的セリフ表現、顔の表情や身体的所作の演劇的演技、文学作品のセリフの演劇的アナリーゼ(分析研究)といったところだろうか。演劇系(新劇系)の俳優たちの発声や演劇的なセリフ表現は特殊である。日本人が現実の生活において表現するような日本語の音声言語表現とは、かけ離れた発声でありセリフ表現である。

 演劇系(新劇系)の俳優の発声とセリフ表現は、明治時代に、当時の旧劇に対抗して、マイク無しの発声で大勢の観客の耳に届くこと、かつ、旧劇のような節回しのない日常的な会話調のセリフ表現をすること、この2つの要件を2つながらに両立させようと工夫された発声術であり、セリフ術なのである。彼らは朗読の場でも新劇調の発声とセリフ表現を指導することになる。

 この演劇系(新劇系)の俳優の発声とセリフ表現をそのまま朗読に適用すると、朗読者の声は聴き手(観客)の頭の上を通り過ぎて、背後の壁に突き当たるように感じられる。朗読者のセリフ表現は、機関銃を速射するように、早口で一方的に怒鳴りたてる語り口であり、現実の生活で表現される真っ当な音声言語表現に比べると、不自然な、ときには稚拙な表現になっている。



○従来の日本の朗読指導者の指導ポイント(3)

 演劇と朗読の本質的な違いを理解できない演劇系(新劇系)の朗読指導者は、マイクなしで自分の声を観客に届かせることに過剰なまでの価値を置いたりする。また朗読の舞台に視覚的な効果を求めるあまり、聴き手のイメージづくりを損なうような化粧や衣装や大道具・小道具・舞台装置を採用するようなことまでやる。ひいては舞台で台本を持つことを否定するまでいたる。

 すなわち、舞台上では台本を持たずに、すべてを暗記して「語る」ことに過剰な価値を置くような考え方に陥ってしまう。このような価値観は、朗読の本質が分からないために、朗読より演劇を上位に見る単純な誤謬にすぎない。そして、そのような誤った価値観の下に、無意識のままに朗読を演劇化しようとする。朗読文化のためには無益で錯誤的な試みに過ぎないのである。

 結局、アナウンサー系の朗読指導者と、演劇系(新劇系)の朗読指導者は、朗読の本質を理論的に解明し、それに基づいた指導法を開発することなく、元の自分の専門分野の得意技を朗読指導の指導ポイントにしているに過ぎない。私(=館長)はそういう日本の朗読文化の現況に風穴をあけるために朗読活動を続けてきた。幸い賛同者も少しづつだが現われてきたようである。





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館長の朗読指導メモ 96/日本の朗読文化の水準と館長の朗読活動(その1)

館長の朗読指導メモ 96   (戦後73年07月10日)



日本の朗読文化の水準と館長の朗読活動(その1)



○朗読とクラシック音楽(ピアノ演奏)の指導体制(指導システム)の比較(1)

 従来の日本の朗読文化の水準は、残念ながらかなり低い段階に止まっていると言わざるを得ない。たとえば、指導体制(指導システム)の面でクラシック音楽(ピアノ演奏)と比較してみると、この事実は歴然としている。クラシック音楽(ピアノ演奏)の指導体制(指導システム)の頂点には、専門の音楽大学まで存在している。

 その音楽大学で修行した音楽家たちが、あるいは演奏家として、あるいは指導者として、世界と日本において広範に活動しており、これからクラシック音楽(ピアノ演奏)を修得しようとしている後輩たちの目標とも、見本とも、あるいは指導者ともなっている。楽器の製造社や販売店あるいは楽譜などの出版社も支援している。

 私が今もっとも注目しているのは、各地の第一線で活動しているピアノの指導者に対して、楽器の販売店や楽譜の出版社が、指導法の向上を目的とした講演活動や出版活動をしている点である。家人もピアノを指導しているが、ときどき楽器販売店が主催する講演会を受講しに行き、自分のピアノ指導法の参考にしているのである。



○朗読とクラシック音楽(ピアノ演奏)の指導体制(指導システム)の比較(2)

 最近、家人が定期的に受講している講演者は、専門は作曲だが、講演では具体的な音楽作品のアナリーゼをテーマにしている。アナリーゼとは、音楽作品を形式や様式の観点から分析研究することである。講演は、講演者が出版した本の内容をベースにしているが、さらに作曲家の作曲の意図や曲想や思想や背景も解説してくれる。

 それらの点では、私が文学作品を朗読的な観点から解読する視点と方法に通じているという。家人は「門前の小僧習わぬ経を読む」の類で、私の朗読的な解読についても様子が分かっている。その講演者の講演を聴いた後では、教材となった音楽作品が好きになり、さっそく弾いてみたくなるという。その点も私の解読と似ている。

 その講演者の本は、クラシック音楽作品の楽譜にその講演者のアナリーゼを書き込んだものをベースとし、それにその講演者の解説文を添えている。その講演者の場合、楽譜の出版社が、その講演者の本の執筆が終わるのを待ち構えていて、次々に出版しているという。新しい本が出ると楽器の販売店が講演会を組織するのである。



○朗読とクラシック音楽(ピアノ演奏)の指導体制(指導システム)の比較(3)

 そのようなクラシック音楽(ピアノ演奏)と比べると、朗読はマイナーすぎてまったく話しにならない。朗読の場合、楽譜の出版社に相当するのは文学作品の出版社だが、朗読文化を支援した話しなど聴いたことがない。朗読の場合、楽器の販売店に相当するのは書店だが、朗読文化を支援した話しは少数の例外を聞く程度である。

 もっとも問題なのは、クラシック音楽においては音楽作品のアナリーゼ(分析研究)が重要・不可欠なことはすでに常識化されている状況に反して、朗読においては文学作品のアナリーゼ(分析研究)が重要・不可欠であるという認識が極めて希薄な状況に止まっている点であろう。この状況が朗読文化の水準を端的に示している。

 朗読文化には文学作品のアナリーゼ(分析研究)の伝統も実績もないから、その視点や方法の蓄積もない。クラシック音楽におけるアナリーゼ(分析研究)のそれとは比較にならないのである。朗読における本格的なアナリーゼ(分析研究)の導入と、その視点と方法は、私(館長)が初めて研究・実践している、と自負している。







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館長の朗読指導メモ 95/小林大輔さんのブログへのコメントに対するコメント

館長の朗読指導メモ 95   (戦後72年07月29日)



小林大輔さんのブログへのコメントに対するコメント


【館長の事前コメント】

 数年前、小林大輔さんが、私の主宰する「東百道・講演と朗読の会」を数回聴きに来たことがある。当時は、そのたびに、自身のブログ『小林大輔のほのぼの朗読』に記事を書き、高く評価してくれた面もあったが、見当違いの批判をしてくれた面もあった。その1つが「朗読に最も必要なもの」(2013年6月29日)である。

 その記事に対して、直後にいくつかのコメントが投稿された。記事で名指しで批判された私も、一応のコメントを投稿した。しかし、その私のコメントに対して、小林大輔さんからは全く何の応答もなかった。自身のブログに一方的な批判を記した記事を載せ、それに対する反批判に全く応じないのは、真面目な批判とはいえない。

 そこで、それ以降は、私はこのブログの内容を真面目には読まなくなった。最近、私(東百道)と朗読をキーワードにしてネットを検索していたら、たまたまこの記事に再会した。久しぶりに覗いてみたら、今年の2月に3年ぶりのコメントが投稿されていた。その内容がなかなか鋭かったので、私も久しぶりにコメントしてみた。

 他人のブログに投稿したコメントなどは、相手の都合でいつ削除されるか分からない。また、私がどのようなコメントをしたか、私のブログをご覧の方々にもお知らせしたい。そこで、同じものをここに掲示することにした。ついでに、以前にこの記事に投稿されていたすべてのコメントを、ここにまとめて再掲することにした。


○コメント7:タイトル「改めてのコメント」

〔タミヤさんへ〕
 久しぶりにこの記事を覗いて、新たに投稿されている「タミヤ」さんのコメントを見つけました。なかなか鋭い内容で、とても面白く読みました。この記事は、私に対する小林大輔さんなりの真面目な批判であると当初は受けとめましたので、私も私のブログ「感動をつくる・日本朗読館」で真面目に正面から反批判しました。その私の反批判もぜひ読んでみてください。どちらの批判が正当か、いずれ歴史が審判を下してくれるでしょう。

〔難波鷹史さんへ〕
 ついでに。
 私は「ネットで朗読音声を公開すること」それ自体を「拒絶」した覚えはありませんよ。
 私はすでに自分の公演ライブ盤ををDVDおよびブルーレイにして(有料)公開しています。
 その関係で、当面、ネットで(無料)公開することを控えているだけです。いずれ折りをみて、ネットでも(無料)公開するつもりです。

 あなたと渡辺知明さんの関係は知りませんが、この一連の経緯は、私とネットでやり合った渡辺智明さんはよく知っているはずです。
 もし難波鷹史さんが本当に「ぜひ、東さんの朗読を聴いてみたい」と思っているのなら、公演ライブ盤「『東百道・講演と朗読の会』朗読とはなにか〜朗読の基本から実技の上達まで〜」を購入して聴いてみてください。全国の書店ないしはネット書店で注文できます。その他にも、私は4種の公演ライブ盤を(有料)公開しています。そのどれからでも、私の朗読を聴くことができます。

 ところで難波鷹史さんは、たとえば、音楽演奏家が自分の公演ライブをCDにして(有料)公開している最中に、その音楽演奏家がネットで自分の音楽演奏を(無料)公開することを「拒絶」する意味が分かりますか? もし、それが分からないのであれば、そういう難波鷹史さんの考え方こそ「意味」がわからないと言われるでしょう。まして、ネットでそういうことを公言する難波鷹史さんの「真意」がわからないと言われるでしょう。

2017.07.27 10:54 | URL | 「感動をつくる・日本朗読館」館長



○コメント6:タイトル「タイトル」

 他者への攻撃さえしなければ、素晴らしい先生なんだけどなぁ。
 一通り、ブログは読ませていただきましたが、極端に攻撃的な文があるかと思えば、人格者の一面も見せてくれますね。でも、他者に攻撃しているときは誤解や、思い込みからみたいだから、先に相手とコミュニケーションを取ってからにしてはどうかと思う。「ほのぼの朗読」なんてタイトルなんだから、攻撃的に書いた文章は消せばどうですか。元フジテレビアナウンサーなんて肩書を出しているんだから、弱い者いじめしてるのと同じだよ。そういう自覚は持たないと。少なくとも、フジサンケイグループの肩書を出して戦うにはどれも相手が弱すぎるんだから。

2017.02.09 18:28 | URL | タミヤ



○コメント5:タイトル「『小林大輔さんの感想と意見について』のご案内」

小林大輔様

東百道です。

 この約1年間のうちに3回も私の「講演と朗読の会」に来ていただいて感謝しています。またその度にそれに関する記事を書いて掲載して下さっていることにも感謝しています。過分に褒めて下さっている部分もあれば辛辣に批判して下さっているところもあります。それらの小林大輔さんの感想と意見について私にも色々と異論のあるところもあります。

 今後そのいくつかを私のブログの記事にして載せていきますのでご案内します。小林大輔さんのお名前を出して直接に私の異論を記していくのは次の記事です。

ブログ「感動をつくる・日本朗読館」/カテゴリー「館長の朗読指導メモ」欄
「小林大輔さんの感想と意見について〜〜朗読イベントのお客様には色々のタイプがある〜〜」

 また小林大輔さんが私の「講演と朗読の会」に関連して提起されたいくつかの課題について、別に個別に私のカテゴリー「館長の朗読指導メモ」欄に書き込んでいきたいと考えています。

 すでにこれまでに書き込んだ記事もありますのでついでにご案内します。
「館長の朗読指導メモ」47〜48「朗読発表会のあり方について」
「館長の朗読指導メモ」51〜53「『余技』とはなにか」

また今後も時間を見つけながら書いていこうと考えている課題は次のとおりです。
「朗読における『直感』について」「朗読における『声出し』について」「朗読における《間》について」他

2014.01.13 13:08 | URL | 「感動をつくる・日本朗読館」館長



○コメント4:タイトル「芸能人と呼ばれる人」

 声優さんの朗読は聴いたことありますが、どうもやっつけで録音している感があって、今ひとつという印象があります。
 僕もそんなに数多く聴いていないので実際には分りませんが、ナレーションとセリフを別に行うアニメや海外ドラマの吹き替えでは、作品をトータルで一人で演出しなければならない「朗読」とは、勝手が違うのかもしれません。

 また、声の演技が得意でない役者さんの場合でも、声優をすると棒読みということが多々あります。

 つまり僕も芸能人と呼ばれる方々の朗読が微妙という印象があります。でも、なぜか昔の役者さんは朗読も声だけの演技も、すばらしかったりするんですよね。

2013.08.19 18:19 | URL | 難波鷹史



○コメント3:タイトル「難波鷹史様」

 コメントありがとうございました。

 私が芸能人を観察して来た永い経験から言っても、論理先行の人に、人を感動させる芸を持っていたケースを見たことがないのです。

 論理を組み立てることが巧みな人と、感動する芸を披露する人。
 これは、別人と思わざるを得ません。

 あなたとゆっくりお話ししたいものです。

2013.08.10 09:36 | URL | 小林大輔



○コメント2:タイトル「フェイスブックから来ました」

 方法論も大事ではあるけど、「絶対必要条件ではない」っていう意見に同意します。

 直感というとこれまた論理的には得たいが知れないんですが、確かに自分の直感にて、これのほうが聞こえが良いとか、ビジュアルを思い浮かべることが容易であるとか、なにより聞いてて面白いとか、表現の仕方を調整して完成させていきます。

 もともとセンスがなかったりする人は直感には頼れませんから、論理から入るかもしれませんし、センスがある人は自分の直感がどう正しいか確認したり調整したりする助けにはなるでしょう。

 それで、論理を大きくぶちまけたとしても、実際のよみの評価が伴わないんであれば、論理の証明にはなりません。
 ぜひ、東さんの朗読を聴いてみたいものです。

 東さんがネットで朗読音声を公開することを、拒絶する意味が分りません。

2013.08.07 13:03 | URL | 難波鷹史



○コメント1:タイトル「朗読の理論と実践との間」

 感想を読ませていただきました。わたしも同じように感じました。

「東百道氏の講演と朗読を聴いた。作品を作者の言葉と解釈して、黙読でのイメージを朗読に直結させる理論だ。作者の伝記からの作品解釈に重点がある。実際の朗読にも理論に欠ける点がそのまま出た。問題点を列挙する。姿勢、発声、アクセント、イントネーション、プロミネンス、語り構造、語り口と感情」(Twitter2013/06/30)

2013.06.30 08:00 | URL | 渡辺知明






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館長の朗読指導メモ 94/朗読活動のこれからの10年間の自己展望(その3/最終回)

館長の朗読指導メモ 94   (戦後72年07月22日)



朗読活動のこれからの10年間の自己展望(その3/最終回)



○第2次「朗読活動10年期」の自己展望(7)

 最後に「③朗読実技の公演」について。この分野の主軸は、私が主宰している朗読会「小さな朗読館〜感動をつくる朗読をめざして〜」の年3回の定期公演である。この朗読会は、私が毎回レギュラー出演している。毎回、短編を単発に朗読するというだけというのも面白くないので、毎年1人の作家の作品を3作選んで朗読している。

 「小さな朗読館〜感動をつくる朗読をめざして〜」は、私が毎回レギュラー出演しているから確かに「③朗読実技の公演」の分野ではある。しかし、私が指導している朗読サークルから、朗読レッスン歴と朗読レベルがある一定の水準に達した会員に、毎回ゲスト出演を依頼しているから、その意味で「②朗読指導の実践」の分野でもある。

 私が指導している朗読サークルの会員も、この朗読公演にゲスト出演することを励みにしているとみえ、このゲスト出演を機に朗読が画然とレベルアップする例が少なくない。朗読サークルの会員が着実に上達していくので、ゲスト出演を依頼すべき水準の会員数が増えている。今後はゲスト出演依頼の順番を決めることがむずかしくなる。



○第2次「朗読活動10年期」の自己展望(8)

 私が朗読に本格的にとり組むようになったそもそもの動機は、朗読というものを理論的に解明したい、というところにあった。したがって、私の朗読活動の重点は、どうしても「①朗読理論の研究」と「②朗読指導の実践」に傾きがちになる。私の「③朗読実技の公演」は、どうしても①と②に関する自己検証という意味合いが濃くなる。

 この点から考えて、同じ「③朗読実技の公演」の分野でも「東百道・講演と朗読の会」のような公演の方が望ましい。しかし、その「東百道・講演と朗読の会」は昨年を最後にしばらく中断することにした。理由は、これを続けていると本来の「①朗読理論の研究」に割く時間がなくなってしまうからだ。その意味で中断は不本意であった。

 現在、単行本として出版を計画している『朗読の上達法』『芥川龍之介の文学的軌跡』『太宰治の文学的航跡』『宮澤賢治の宗教と文学』の原稿執筆が完了した暁には、それぞれの内容に基づいた「東百道・講演と朗読の会」を再開したいと考えている。特に、芥川龍之介シリーズと太宰治シリーズはライブの録音録画を総て完結させたい。



○第2次「朗読活動10年期」の自己展望(9)

 私の「③朗読実技の公演」は、①と②に関する自己検証という意味合いが大きいとはいえ、もちろん決してそれが主目的ではない。主目的は、観客の皆さんと朗読者の私が朗読を介して精神的な交流を図ることである。さらに端的に言うと、朗読を介して文学作品に表現されている作品世界のイメージと心情と感動を共有することである。

 さらに、朗読の実演を通して、私が提唱する「感動をつくる朗読」のレベルを向上させ、その意義と内容を実技を世に広め、日本の朗読文化の向上に寄与することを目指している。しかし、私の場合は、残念なことに、私自身の朗読を公演のライブで広く聴いていただく機会は限られている。また、それに割くべき私の時間もあまりない。

 この「東百道・講演と朗読の会」の場合は、録音録画してDVDやBDのライブ盤として発行している。しかし、書店を通しての販売もあまり多くは望めない。そこで今後は、タイミングをみて、それをYou Tubuに投稿し、無料公開することも視野に入れている。さらに、長編の文学作品の朗読を録音録画して同じように公開することも。



○第2次「朗読活動10年期」の自己展望(10)

 以上、現在構想しているところの、これからの第2次「朗読活動10年期」の自己展望を簡単にまとめてみた。私の朗読活動(①朗読理論の研究、②朗読指導の実践、③朗読実技の公演)が、今後どこまで歩んでいけるかは分からない。しかし、今後とも、私の半生業&半ライフワークとして、孜々として励んでいく決意に変わりはない。

 その目標は、私なりの朗読活動によって、私が提唱する「感動をつくる朗読」を普及し、日本の朗読文化の向上&深化にいくらかでも寄与したい、という点にある。さらに、日本の朗読文化の向上&深化を介して、日本人全体の日本語の認識(読む&聴く)力と表現(書く&語る)力の向上&深化に寄与すること、これを目指している。

 目標は大きい方が良い。目標は高い方が良い。目標は深い方が良い。目標は豊かな方が良い。たとえ大風呂敷だとみなされても良いではないか。たとえドン・キホーテのように笑われても良いではないか。自らの体力・気力・知力が尽きる日まで、たとえその歩みは遅くとも、孜々として励みつづけることに意義がある、と確信している。





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