07館長の朗読エッセイ

07館長の朗読日記 404

館長の朗読日記 404  (戦後64年12月26日 新規)

クリスマスの過ごし方(つづき)

○午前中はウツラウツラしながら朗読の台本づくり

 ある事情で、今朝は早く目覚めてしまった。そのために、午前中は眠くてたまらない。そこで、ウツラウツラしながらでもできる、来年の朗読会用の台本づくりなどをした。芥川龍之介の初期の作品である。
 パソコンを打ちながら台本をつくるのだが、ふと気がつくとウツラウツラ眠っている。幸い、比較的あたたかな小春日和なので、風邪をひくことはなかった。
 考えてみれば、ありがたいほど平穏無事な生活である。

○早めに正月飾りを買ってきた

 午後は、毎年、そこで正月飾りを買うことに決めているホームセンターに行った。ところが驚いたことに、その店が閉店セールをやっていて、正月飾りを売るような雰囲気ではなかった。この12月31日で閉店するそうである。
 数年前に、かなり近くに大きなホームセンターが出来たので、太刀打ちできなかったのであろう。この店はちょっとわき道に入ったところにあり、若干不便だったことも影響したかもしれない。そういえば、最近、私の足も遠のいていた。
 仕方がないので、表通りに面した競争相手の大きなホームセンターの方に行って、正月飾りを一式、無事に購入することができた。
 何年か前に、ギリギリの30日の夕方に買いに行ったら、裏白が残りがわずかしかなくて、数が足りるか心配したことがある。正月飾りを買い損ねたりしたら、それこそ「サザエさん」である。それ以来、用心して、早め早めに買いに行くことにしている。

○一日遅れのクリスマス便乗型晩餐

 急きょ、今夕、久しぶりで家族全員が揃うことになった。家族全員が揃う日のために、かねてから鶏のモモ肉を用意していたらしい。それに加えて、急ぎ、ワインとケーキを購入してきた模様である。
 どうやら、今夜の晩飯は、クリスマスさながらのメニューになるらしい。
 クリスマスは昨日であって、今日は一日遅れていることなど、歯牙にもかけていない。まさに、宗教とは無縁の、食欲だけのクリスマス便乗型晩餐である。

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07館長の朗読エッセイ 10

館長の朗読エッセイ 10   (戦後62年09月27日新規)

「朗読の理論」と「朗読の実技」を結びつけるもの
                             東  百道

 「朗読の理論」は、朗読とはなにか、というように、朗読のことを論証的・実証的に解明し、それを体系的・論理的に展開していくものである。したがって、それが直ちに「朗読の実技」に結びつく内容になるとは、必ずしも限らない。もちろん、問題によっては直ちに結びつく場合もあるけれども、そうでない場合も多々あるのである。しかし、直ちに「朗読の実技」に結びつかないからといって、「朗読の実技」の上達に役に立たないと考えるのはあまりにも短絡的である。何ごともそうだが、学問的な論文と実技マニュアル(指導マニュアル)とは内容が異なるものである。
 朗読関係の本でよく見かけるタイプは、まず朗読に対する自分の主観的な想いや考えあるいは伝統的な見解を記し、その後、一足飛びに実際の文学作品(=台本)を取り上げて、そこに書かれている個別の文章をどのように朗読するかを解説していく、というものである。そこに決定的に欠けているのは、真っ当な「朗読の理論」に基づいた「朗読表現の一般的な方法論」なのである。朗読に対する自分の主観的な想いや考えあるいは伝統的な見解などが、決して「朗読の理論」ではないことは、改めて言うまでもないであろう。厳密な論証と実証を踏まえて体系的・論理的に展開していないものは、理論の名に値しない。
 本来は「朗読の理論」~「朗読表現の一般的な方法論」~「個別の文学作品(=台本)に関する朗読表現の仕方(=『朗読の実技』」というようにつながっているべきなのである。真っ当な「朗読の理論」がなければ、決して「朗読表現の一般的な方法論」の構想は浮かんでこない。したがって、真っ当な「朗読の理論」の代わりに朗読に対する自分の主観的な想いや考えあるいは伝統的な見解しか提示できない場合には、一足飛びに「個別の文学作品(=台本)に関する朗読表現の仕方(=『朗読の実技』」に飛びつかざるを得ないのである。
 私は「朗読の理論」については、すでに『朗読の理論――感動をつくる朗読をめざして――』の中で展開している。次に取りかかるべきは、その「朗読の理論」と「朗読の実技」を結びつけるものとしての「朗読表現の一般的な方法論」である。その「朗読表現の一般的な方法論」を、このブログの中の「館長の朗読指導メモ」において展開していこうと考えている。ついでに記しておくと、「個別の文学作品(=台本)に関する朗読表現の仕方(=『朗読の実技』」についても、いずれ、朗読の教則本という形で執筆していきたいと思っている。これは、ピアノ演奏にたとえれば『バイエル』のようなものに相当する。
 これまでは、ブログの全体的な骨組をつくる段階であったことと、この「朗読エッセイ」に一応のケリをつけることとを優先していたので、「館長の朗読指導メモ」の方までなかなか手が回らなかった。ブログの全体的な骨組はなんとか出来上がったし、「朗読エッセイ」の方も前回、および、今回のこの「朗読エッセイ(10)」で一応のケリをつけるつもりである(もし、ケリがついていないと思われる方は、是非、来年早々にでも発行するつもりの『朗読の理論――感動をつくる朗読をめざして――』を読んでいただきたい)。そこで、今後は、徐々に「館長の朗読指導メモ」の方に力を入れていきたいと考えている。

                (戦後62年9月27日書きおろし・未発表)

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07館長の朗読エッセイ 9

館長の朗読エッセイ 9   (戦後62年09月25日新規)

「朗読エッセイ」を書き出した経緯とその後のこと
                              東  百道

 この「朗読エッセイ」を書き出した経緯を記しておこう。私が長編論文『朗読の理論』を具体的に構想していた頃(2001年前期)、ある朗読指導者を通して、雑誌『月刊朗読人』(生活情報センター発行)から朗読に関する短文連載の執筆依頼を受けた。
 内容は朗読の理論について書きたいがよいか、と問い合わせた。エッセイ風に読みやすく書いてくれれば、内容はそれでよい、との答えだった。そこで2001年9月号から「朗読エッセイ」と題して連載を始めたのである。
 ところが、そのころから、NPO日本朗読文化協会を立ち上げる話しが進んでいたらしい。そして、この『月刊朗読人』はNPO日本朗読文化協会の設立に深く関与していたらしい。設立に際して「日本朗読文化協会」発足記念特別号を発行することになったから、それにも一つ論文を書いて欲しい、と依頼された。そこで、私は「朗読の理論――朗読における『間』の研究――」を急きょ執筆・寄稿した。それが『月刊朗読人――「日本朗読文化協会」発足記念特別号――』(2002年3月)に掲載されたのである。
 ところで、その「朗読の理論――朗読における『間』の研究――」を寄稿した頃、すなわち、2002年2月頃、私と『月刊朗読人』との間である行き違いが生じていた。『月刊朗読人』が「朗読エッセイ」の原稿の順序を違えて掲載してしまったのである。人間だから間違いはあり得る。どこで行き違いが生じたのか、善後策をどうするか、という問い合わせの書簡を出したのだが、『月刊朗読人』の側からは何の返答もなかった。結局、そのまま「朗読エッセイ」の連載は中断という形で終ってしまった。しかも、その後数ヶ月経つか経たないうちに、今度は『月刊朗読人』の方が、突如、終刊という形で終ってしまった。
 この一連の終り方は私にとって決してスッキリしたものではなかった。しかし、それはともあれ、これを機に私は改めて『朗読の理論』を初めから執筆し直すことにした。それまで「朗読エッセイ」を書きながら、やはり、エッセイ風の形式と文体では朗読の理論を展開するのに無理がある、と感じていたからである。本格的な理論は、それなりにキチンとした形式と文体で表現しなければ、十分に展開することができない。
 その後、2005年に、私は新たな論稿『朗読の理論――感動をつくる朗読をめざして――』を脱稿した。2007年の今は、来年2008年初めに単行本として木鶏社から出版する予定で、具体的な発行作業が進行中である。この9月末に、初ゲラが出て、第1回の著者校正を始めている。おそらく来年2008年1月~2月には発行の運びとなるであろう。
 さて、そこで、この「朗読エッセイ」だが、最近新たに書き下ろした「朗読エッセイ(8)」において、朗読の場では、なぜ「自然な語り口」がむずかしいか、というところまで書き進み、その主な理由を三つ指摘した。そして、困難な理由が明確になれば、どうしたら良いかという対策も究明していくことができる、というところまで何とか書き記した。しかし、この対策をキチンと展開するのは簡単ではない。内容がかなり高度な問題にかかわってくるからである。とてもエッセイ風の短文では説明し切れない。しかも、この点について、私自身はすでに『朗読の理論――感動をつくる朗読をめざして――』の中でくわしく説明してある。それを、また、この「朗読エッセイ」で再論するのは、気分的にも、肉体的にも、また、時間的にも非常に億劫になってきた。
 早い話しが、これまでの「朗読エッセイ」は、一応、ここで中断するから、続きは『朗読の理論――感動をつくる朗読をめざして――』を読んで欲しい、ということにしたくなったのである。何か自己宣伝めいて気がひけるが、正直いって、私は、真剣に朗読に取り組んでいる朗読関係者には全員、初心者も、経験者も、指導者も、鑑賞者も、評論家も総て、この『朗読の理論――感動をつくる朗読をめざして――』を是非読んで欲しい、と心の底から真面目に思っている。朗読の基本を日本で初めて理論的に解明したもの、という自負があるからである。これまで、この「朗読エッセイ」を読んでくださった方々のご理解を乞う次第である。

               (戦後62年9月25日書きおろし・未発表)

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07館長の朗読エッセイ 8

館長の朗読エッセイ 8   (戦後62年09月10日新規)

なぜ「自然な語り口」がむずかしいか
                            東  百道

 朗読の初心者がいざ朗読する段になると、日常的には慣れ切っている筈の「自然な語り口」がなかなか実現できない。これは何故であろうか。文章を音読するのに不慣れだとか、ステージの上で大勢の観客を前にするとアガッてしまう、というのは理由にならない。
 子供ならいざ知らず、一人前の大人が文章を音読するのに不慣れとは言えない筈である。ことに放送アナウンサーや国語の先生などは音読に慣れ切っている筈だが、これらの人たちが朗読においてこの「自然な語り口」が必ずしもできるわけではない。
 また、強心臓の人間や、大勢の聴衆の前で話すことに慣れている政治家などはステージでアガルことはない筈だが、そういう人たちが朗読においてこの「自然な語り口」が必ずしもできるというわけでもない。
 朗読における「自然な語り口」がむずかしい本当の理由は、別に厳として存在している。
 一つは、朗読は、日常会話と違って、朗読者が自分自身の想いを語るわけではない、という点である。朗読においては、作家という、朗読者からみれば全くの赤の他人が記した文章を語ることになる。したがって、なかなか「自然な語り口」でこれを再表現することができないのである。
 二つは、朗読の台本である文学作品は基本的に「地の文」と「セリフ」から構成されているのだが、そのうちの「地の文」は基本的に「書き言葉」で記されている。それに対して日常会話は、いうまでもなく「話し言葉」で語られている。したがって、日常会話では使われることのない「書き言葉」を「自然な語り口」で再表現する場合に、どのように表現したらよいのか戸惑ってしまうわけである。
 三つは、文学作品には、通常、複数の人物が登場する。そして、その一人一人が主体的に自分の「セリフ」を表現する。もちろん、この「セリフ」は「話し言葉」で記されている。それに加えて「地の文」があるのだが、これは一般的には作家が表現主体である。そして、この「地の文」は「書き言葉」で記されている。つまり、一つの文学作品には、複数の登場人物が表現主体である「セリフ」=「話し言葉」と、作家が表現主体である「地の文」=「書き言葉」とが混合して表現されているのである。朗読者は、その全部を一人で語らなければならない。日常会話では、このようなことは先ず経験しない。したがって、その総てをどうやって「自然な語り口」で再表現するかがむづかしいのである。
 朗読において「自然な語り口」がむずかしい理由は、他にもいろいろとあるが、この三つが主なところであろう。
 困難な理由が明確になれば、どうしたら良いかという対策も究明していくことができる。しかし、この対策の究明は、朗読そのものの本質(=「朗読の理論」)に深く関連し、重なっている。そう簡単には究明できない。また、その対策を一つ一つ実行していくことも決して容易ではない。そのために、朗読においては、なかなか「自然な語り口」ができないわけである。
 私の考えでは、上記の三つの主な理由について、それぞれの対策を実行し、身につけていくためには、六つのステップを段階的にクリアしていく必要がある。一つのステップを1年でクリアするとしても、最低で6年はかかる計算になるのである。
                (戦後62年9月10日書きおろし・未発表)

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07館長の朗読エッセイ 7

館長の朗読エッセイ 7   (戦後62年08月25日新規)

「自然な語り口」とはなにか
                             東  百道

 意味的な表現と心情的な表現が「自然」に統一された「語り口」をなかなか実現できないのは何故か。この問題を考える前に、われわれの日常生活の中にこの「自然な語り口」のモデルを探してみることにしよう。
 日常生活を振り返ってみれば、われわれが最も「自然な語り口」で表現するのは、気のおけない家族や親友たちと交わす会話の場であろう。喜怒哀楽の感情を素直に音声に乗せ、感動したり驚いた時には遠慮なく大きな嘆声を発し、内緒の話をする時には思い切り声をひそめる。説得したり強調したい時は一語一語に力を込め、自信がなかったり誤魔化したい時は曖昧な早口でやり過ごそうとする。これが、人間が日常的に行なっている、もっとも「自然な語り口」である。そして結局、朗読でいう「自然な語り口」にとっても、これ以上のモデルは考えられないことになる。
 もちろん、総ての朗読がこのような「自然の語り口」で済むわけではない。わざと堅苦しい口調や気取った口調で表現しなければならない場合がある。時には「抑えた語り口」や「淡々とした語り口」が効果を発揮する場合もある。「自然な語り口」は。あくまでも基調・基盤としての「語り口」であって、それ以上ではないのである。
 また、同じ「自然な語り口」といっても、それには上手・下手の違いがある。上手な「語り口」とは、次の二点の条件を同時に満たすものをいう。
 一点目の条件は、読み手が構想した「イメージの造詣と転換」の方に聴き手を誘導・説得するために、豊かで深い表現力に基づいた「語り口」であること。
 二点目の条件は、聴き手が最終的には自分で行なうべき「イメージの造詣と転換」をなるべく邪魔しないように、過剰で押しつけ的な表現を控えた「語り口」であること。
 この二点の条件を、両立させることはなかなか難しい。ともすれば、両者は互いに矛盾する関係にあるからである。
 よく朗読では「抑えた語り口」とか「淡々とした語り口」が推奨される。これらは二点目の条件、つまり、聴き手が行なう「イメージの造詣と転換」を邪魔しないように、過剰で押しつけ的な「語り口」を控えようというものである。
 しかし、これも下手にやると単なる「棒読み」や「平板な語り口」になってしまう。「抑えた語り口」や「淡々とした語り口」がその威力を真に発揮するためには、朗読者が豊かで強い表現力を十分に備えていなければならない。あり余る表現力をグッと「抑え」、渋く「淡々」と語るからこそ、逆に、凄まじいほどの説得力を発揮し、胸を突き上げるように聴き手の想像力を刺激するのである。
 ただし、その場合でさえ、常に「抑えた語り口」や「淡々とした語り口」がその効果を発揮するわけではない。文学作品の内容、聴き手側の状況その他の条件によって、その効果や適否は変わってくる。もともと、朗読に万能の「語り口」などは存在しないのである。

       『月刊朗読人』第18号(生活情報センター、2002年02月)掲載

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07館長の朗読エッセイ 6

館長の朗読エッセイ 6    (戦後62年08月23日新規)

「語り口」の問題をめぐって
                              東  百道

 朗読において「イメージの造形と転換」を最終的に実行し、それを味わうのは聴き手の側である。その意味で、朗読が語り手と聴き手の合作による芸術、ということは確かな事実とみなし得る。もちろん、その「イメージの造形と転換」の基盤となるのは、間接には文字言語で表現された文学作品であり、直接にはそれを音声言語で丸ごと再表現する朗読である。これは当然の事実であろう。
 この事実を語り手の側から見るならば、自分が意図した「イメージの造形と転換」の方に聴き手を誘導・説得し、合作による芸術を主導的に創出するためには、どのような朗読表現を行なうべきか、という課題につながっていく。
 この課題の中心軸となるのが「語り口」の問題である。
 音声言語は、人間の肉声をそのまま使う表現だけに、肉声そのものが持つ感覚的・具象的な要素が強く作用する。喜怒哀楽の感情表現一つとってみても、文字言語ではほぼ純粋なる概念(理論)的・抽象的な間接表現にならざるを得ないのに対し、音声言語の方は、それに加えて、肉声的な感情表現を直接に盛込むことができる。肉声そのものによる喜怒哀楽の感情表出である。
 これは喜怒哀楽の感情表出だけに止まらない。心身の健康状態が音声に正直に反映する事実は広く知られている。そればかりではない。その人の教養や知性および人間性のすべてが音声と化して顕現してくる事実も昔から知られている。まさに「声は人格なり」なのである。
 当然、音声言語はその分だけ、文字言語に比して、表現の感覚的・具象的な要素が強まることになる。書簡や電子メールなど文字言語だけに頼った情報交換と、面談や電話など音声言語による対話の違いはつとに指摘されている。これなどは、正にその事実の端的な現われである。
 それゆえ、朗読においては、音声言語における概念(理論)的・抽象的な間接表現と、音声言語における感覚的・具象的な直接表現を、どのように統一して表現させるか。こういう根源的な課題が改めて浮き彫りになってくる。
 この課題は、本来は、音声言語による表現の総てに及ぶものであり、ひとり朗読だけの問題ではない。個々の人間は、いわば生まれて以来ずっとこの課題に直面し続けており、親疎まちまちの人間関係や厳しい世間の荒波の中で日々真剣な修練を積んでいる。その意味では、総ての人間はこの道のプロだ、といっても過言ではないのである。
 ところが、いざ朗読というと、慣れ切っている筈のこの課題をなかなか上手く遂行できない。音声言語としての意味的な間接表現に、音声言語としての心情的な直接表現が、上手く乗ってくれないのである。どこかチグハグで、なにか不自然な「語り口」になってしまう。このように困惑する朗読者は決して少なくないと思う。
 文字言語に書き込まれた意味的な表現と、音声言語に表出される心情的な表現、その統一こそ朗読の真髄である。

『月刊朗読人』第18号用として執筆したもの(編集者の手違いで未掲載)

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07館長の朗読エッセイ 5

館長の朗読エッセイ 5    (戦後62年08月20日新規)

朗読は語り手と聴き手の合作による芸術
                             東  百道

 言語は表現としてみた場合、絵画、音楽、映像など他の表現に比べて際立った特徴がある。表現を認識する側における「イメージの造形と転換」の占める比重と役割が圧倒的に大きいのである。たとえば絵画と比較してみよう。
 絵画は、描こうとする対象の色調や形状を、ほぼそのまま感覚的・具象的に表現することが得意である。見る側はそれを直接認識することができる。逆にいうと、絵画の場合には、その表現が精緻であればあるほど、認識する側の認識もそれに直接束縛されてしまい、その分だけ想像力を働かせる余地が失われてしまう。
 反面、絵画は、概念(理論)的、あるいは、抽象的な間接表現については極めて不得意である。
 古来「モナ・リザ」の微笑が謎とされているのは、微笑の「意味」自体が何も表現されていないからである。もともと微笑の「意味」などは、言語によって概念(理論)的に表現されていなければ、理解不能に決まっている。それが「モナ・リザ」には全く表現されていないのだから、永遠の謎として残らざるを得ないのは当然といえよう。
 また、天才といわれたピカソの腕をもってしても、絵画の抽象化については、あの程度のレベルに止まっている。ピカソの抽象画が芸術的にいかに優れていようが、抽象化のレベルにおいては、子供の書く漢字の一つにも及ばない。
 他方、言語は本質的に、感覚的・具象的な直接表現が不得意なようにできている。言語は、本来的には、表現しようとする対象のいわば骨組みだけを概念(理論)的・抽象的に間接表現するのみである。したがって、外見や内実に相当する感覚的・具象的な肉づけは、認識する側の想像力によってそれを補完するより他はない。
 反面、自由奔放な「イメージの造形と転換」が可能になる。文学作品に登場する人物や場面のイメージをどのようにでも造形できるし、一言「ここは宇宙!」というだけで直ちに場面のイメージを広大な宇宙空間に転換できる。
 その点、絵画ほどイメージの転換が不得意な表現はない。画面(=場面)が一つに固定され、全く転換できないのである。映像なら、手間と費用をかけさえすれば、かなりの転換が可能となる。手塚治虫が自分の漫画に映画の手法を取入れ、アニメの制作にのめり込んだのも無理はない。
 ところが言語なら、ただ言葉で表現するだけでイメージの転換ができてしまう。加えて、概念(理論)的・抽象的な間接表現なら正に言語の独壇場である。現に学問や思想における表現は、もっぱら言語が担っている。結局「イメージの造形と転換」による感覚的・具象的な直接面の補完さえ上手にやれば、言語に勝る表現はないことになる。
 音声言語で表現する朗読にとって「イメージの造形と転換」は決定的に重要な要素だが、それを最終的に実行するのは聴き手である。その意味で、朗読は語り手と聴き手の合作による芸術、とみなすことができるのかも知れない。

        『月刊朗読人』第17号(生活情報センター、2002年01月)掲載

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07館長の朗読エッセイ 4

館長の朗読エッセイ 4   (戦後62年08月11日新規)

「ここは宇宙!」と言うだけで
                             東  百道

 朗読における“間”を、とりあえず「朗読者が朗読する過程で『イメージの造形と転換』を図るために意識的に創出する空白時間」としておこう。“間”の問題に、イメージの「転換」ばかりでなく「造形」のことも加えたのは、私の朗読経験によってその必要性を痛感したからである。
 私は「イメージの造形と転換」は朗読における最重要な構成要素とみなしている。なぜなら「イメージの造形と転換」は、もともと文字言語で表現されている文学作品を、丸ごと音声言語に変換して再表現するという、朗読の本質に深く関わる問題だと考えているからである。
 三谷幸喜は現在売れっ子の脚本家だが、彼が脚本・監督した映画第一作「ラヂオの時間」の中に面白いシーンがあった。西村雅彦扮する八方美人型で「長い物には巻かれろ」式の番組プロデューサーが、素人作家役の鈴木京香に、めずらしくシンミリと彼の持論を語る場面である。
「ラヂオ・ドラマはやっぱり良いですね。ラヂオ・ドラマにはテレビ・ドラマにはない良さがある。たとえばテレビでSFをやるとしますよね。アメリカ映画に負けない映像をつくるためには、SFXやらコンピュータ・グラフィックスやら、やたらお金がかかるわけです。ところがラヂオなら、ナレーターが一言『ここは宇宙!』と言うだけで、もう宇宙空間になっちゃうんですから。人間に想像する力がある限り、ラヂオ・ドラマには無限の可能性がある」
 つまり、①ラヂオ・ドラマが、聴き手の想像力(=「イメージの造形と転換」力)に多くを負っており、②そのために、逆に、ラヂオ・ドラマを制作する側(=表現する側)は、容易かつ迅速に「イメージの造形と転換」が図れる、という主張である。
 もちろん、ラヂオ・ドラマと朗読は本質的に別のものである。しかし、両者は多くの点で共通している。もっとも重要な共通点は、両者とも音声言語によって表現される芸術だというところであろう(効果音やバック・グラウンド・ミュージックを併用する、という共通点もあるが、これについては別途触れることにしたい)。その意味で、西村雅彦扮する番組プロデューサーがここで語っている主旨は、朗読にもほとんどそのまま当てはまるといってよい。
そもそも言語の本質的な特徴は、感覚的あるいは具象的な直接表現が極めて不得意である代わりに、概念(理論)的あるいは抽象的な間接表現については大いに得意である、というところにある。
 絵画、音楽、映像の表現においては、視たり聴いたりするだけでその表現対象を感覚的・具象的に直接認識することができる。しかし、言語によって「この赤い花は美しい」等々といくら詳しく表現されようとも、その花の実際の「赤い」色調あるいは「美しい」形状を感覚的・具象的に認識することはとても出来ない。言語の場合は、認識する側が自分の想像力によってそれを補完するしかないのである。

『月刊朗読人』第16号(生活情報センター、2001年12月)掲載

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07館長の朗読エッセイ 3

館長の朗読エッセイ 3   (戦後62年08月08日新規)

“間”の解明を糸口にして
                             東  百道

 初め、私は“間”のことを漠然と「人間が意識的に創出する空白部分」というように感じていた。したがって、朗読の“間”についても「朗読者が朗読する過程で意識的に創出する空白時間」という程度の認識しかもっていなかった。しかし、これではどう見ても「“間”は間(あいだ)である」という類の同義反復にしかなっていない。
 そういう私に初めて“間”とは何かを一段掘下げた形で明瞭に指摘してくれたのは、山梨県の甲府市郊外に住む溝口直彦氏であった。先生はこの地で自ら創設した朗読サークルを主宰しており、私に全くの初歩から朗読の手ほどきをしてくれた人である。先生の“間”についての指摘を私なりにまとめてみると次のようになる。
 「“間”というのは、台本作品おいて場面が変わる場合や、セリフがある登場人物から別の登場人物に移る際に、読み手が自分の気持ちを切り替えるために要する時間なのです。それは当然、聴き手が、朗読を聴きながら自分の頭に描いている夢(=イメージ)の中で、同じように場面の転換や登場人物のセリフの移行を納得する時間でもあるわけです」
 これを一言で要約すれば、“間”とは「イメージの転換に要する空白時間」ということになる。これを聞いた瞬間、私はまさに目から鱗の落ちる思いがした。
 当時の私は、認識論などという人間の内面にかかわる分野の探究に、自分が一歩踏込むべきか、踏込むならばいかなる切り口からか、について迷いかつ悩んでいる最中であった。まさか眼の前に、イメージの転換の問題(=認識論の一重要分野)を、朗読の“間”との関わりにおいて指摘してくれる人物が現われようとは思いもしなかった。
 これは面白い。ひょっとすると“間”の解明を糸口にして「朗読の理論」に取組んでいけば、それが同時に人間の内面に関する探究に結びついていくかもしれない。そのように考え、私はその後「朗読の実技」とともに、私なりの「朗読の理論」を自分のものにしようと心がけてきた。
 イメージの転換は、当然、イメージの造形を前提とする。この「イメージの造形と転換」は、人間の認識のあり方に深く関わっている。本来、朗読は、作家が文字言語で表現した文学的作品世界(=イメージ)を、朗読者が読書によって認識し、文字言語を丸ごと音声言語に変換しつつその作品世界を再表現する芸術である。当然、朗読は「認識」論、「言語」論、「表現」論、「文学」論、「芸術」論と深く関わっている。また、朗読は音声による演技の一種であり、その上達を目指している。当然、「音声」論、「演技(=技術)」論、「上達」論とも直接つながっている。
 朗読というと、ただ文学作品を音読するだけの単純素朴なものに思われがちだが、実はその背後に、総合的人間学の全対象といってもよいくらいの宏大かつ深遠な世界を深々と抱え込んでいたのである。

     『月刊朗読人』第15号(生活情報センター、2001年11月)掲載

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07館長の朗読エッセイ 2

館長の朗読エッセイ 2   (戦後62年08月07日新規)

楽譜にないことばかりやっている
                             東   百道

 私の友人がある日思い立って、フルートを習い始めたことがある。その彼がホロビッツのピアノ演奏をテレビで見て、いたく感動してしまった。NHKの特集番組として、ホロビッツがモーツァルトの「ピアノ協奏曲第23番イ長調」をレコーディングする模様が放映されたのである。
 友人は特に第2楽章アダージョの演奏が気に入ってしまい、自分もフルートで吹いてみたくなった。第2楽章は旋律もシンプルだし、何よりも短い。これなら初心者でも何とかなるだろうと、さっそく楽譜を購入し、実際に吹いてみたらしい。そして、後で私にこう言ったものである。
 「おい、驚いたよ。ホロビッツは楽譜にないことばかりやっているんだ!」
 恐らく彼は無謀にも、自分のフルート演奏を録音し、ビデオにとったホロビッツのピアノ演奏と聞き比べたのであろう。私の方は、その時すでに朗読を始めてから数年は経っていた。文字で書かれた台本を、自分の音声でどのように表現したらよいのか。これに日々悩みつつ取組んでいた。したがって、彼の言わんとすることは、すぐにピンときた。「君にもようやく演奏の何たるかが分かってきたか」などと先輩風を吹かせながらも、彼のこの評言には強い印象を受け、内心では大いに感心したものであった。
 私もこの特集番組を視聴したが、そこでのホロビッツはもっぱら自分の演奏における“テンポ”の良し悪しばかりを気にしていた。ブーニンが復活させたというルフトパウゼ(=音楽的な“間”)に関する言及などは、もちろん何もなかった。しかし、ホロビッツほどの演奏の巨匠が“間”の重要性に気づかぬ筈はない。恐らくは“テンポ”の中に組入れて、彼なりに解決していたのであろう。
 ピアノ演奏には他にも、タッチ、音色、リズム、音響などいろいろの要素がある。そのほとんどは楽譜に何も書かれていない。書かれていたとしても、ごく大まかな指示に止まっている。楽音の一つ一つを、実際に創り上げていくのは、演奏者自身なのである。
 それでも、楽譜の場合には、まだ、音符や休符その他の演奏用の記号が、さまざまに工夫されて書込まれている。
 朗読の場合、楽譜に相当するのは言うまでもなく台本である。しかし、朗読の台本は文学作品をそのまま転用するのであって、朗読のためにわざわざ書かれたものを使うわけではない。したがって、台本には作者の作品世界が、ただ文字言語で表現されているだけである。“間”はもちろん“メリハリ”や“テンポ”など、朗読には必須の要素について、何の指示もなされていない。唯一それらしきものは句読点だが、これとても朗読のためというよりは、むしろ目読しやすいように工夫された記号に過ぎない。朗読する際には、かえって邪魔になることの方が多いのである。
 朗読の場合には、音楽の演奏以上に、台本に「ないことばかり」やらなければならないわけである。
    『月刊朗読人』第14号(生活情報センター、2001年10月)掲載

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