08館長の「朗読の理論」

08館長の「朗読の理論」 15

『朗読の理論』に対する反響(その3)  (戦後64年12月17日 新規)

『音声表現』2009春・第5号の書評

             

《館長の前段のコメント》
 多分、今年(戦後64年/2009年)の11月になってからのことだったと思うが、ある日、何気なくインターネットであちこちとサイトのページを見て廻っていたところ、国立国会図書館のホームページで収納雑誌の記事内容を紹介しているところに行き当たった。そこで、初めて、拙著『朗読の理論』に対する書評が、雑誌『音声表現~ゆたかな朗読を求めて~』の2009年春・第5号に掲載されていることを知ったのである。
 この『音声表現~ゆたかな朗読を求めて~』は、年2回の発行で、発行部数は1000部という。それ自体がマイナーな朗読のことを専門に扱っているにしては、決してマイナーとはいえない雑誌である。
 私も、この『音声表現』という雑誌のことを、まったく知らなかったわけではない。しかし、これまで全く無縁であったし、読んだことはおろか、手にしたこともなかった。また、この雑誌を編集・制作している「東海・音声表現研究会」という団体が、どのような人たちで組織されたものか、ということも全く知らなかった。
 当然、すでに3月に発行されていた『音声表現』第5号に、拙著『朗読の理論』が書評されていることなどは、全く知らなかった。書評が出てから、半年以上も過ぎた11月になって、遅まきながらようやくそれに気がついたというわけである。
 ちょっと奇妙な気もするが、書評などというものは、案外こうしたものかも知れない。ともあれ、さっそく購入して読んでみた。
 書評をしている代永克彦(よなが・かつひこ)氏は、私にとっては全く未知の人である。プロフィールによると、代永克彦氏は、朗読者であり、また、朗読指導者でもあるようだが、私の『朗読の理論』をかなり的確に、そして、かなり好意的に読んでくれているようである。私は、いささか意外に感じると共に、正直いってかなり嬉しかった。
 書評文はそれほど長くないので、以下に全文を引用する。

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朗読本を観る(5) 
 ~「読み」を楽しみ学ぶ皆さんのご参考に~

                       ◇代永 克彦

『朗読の理論 感動をつくる朗読をめざして』
      
        東 百道・著   木鶏社(二〇〇八年)

 この本は、文字通り「朗読とは何か」を理論的に追求した本である。ややとっつきにくいかと思って読み始めたが、朗読者として、またいくらかでも朗読指導に携わる者としてぜひとも理解しておきたい根源的な認識と方法論に接して、ぐんぐん引き込まれてしまう圧巻の書であった。
 著者の東百道氏は、一九四六年生まれ、会社勤務のかたわら、認識論・表現論・言語論・文学論・技術上達論の独学を踏まえて、一九八〇年代から実際に朗読を学び、本格的に朗読の実技・理論・指導法を研究し、現在では、千葉県・東京都内で十か所近い朗読サークルを指導中という、いわば「異色」の朗読研究者・朗読指導者である。
 「まえがき」で筆者は、アナウンスや演技の練習メニューの延長のような朗読法でなく、放送や演劇とは違う朗読自体の本質と上達のステップに関する理論と実践の研究成果を示したいと述べている。
 本書の構成を通じて内容のポイントを見てみたい。
 第一章では、「朗読とは文字言語で表現された作品を音声言語で再表現する芸術」という基本的理解について、演劇や音楽と比較しながら考察している。
 第二章では、朗読が成立するプロセスについて、朗読者が作品をイメージとして認識する段階から、それを現実に音声で表現していく段階、聴き手がその作品世界をイメージとして認識していく段階へと、順を追ってそれぞれ構造的に分析し、朗読は朗読者のイメージに始まり聴き手のイメージに終わることを解明している。
 第三章では、作品に描かれた世界をイメージとして認識するための読み込み方を実際の文学作品で詳しく分析していくのだが、特に芥川の『トロッコ』と一葉の『わかれ道』の文学的解釈は非常に深く、その解釈が読みに反映されていく仕組みもわかって、朗読では解釈力・理解力が極めて重要だということを改めて感じさせられる。
 第四章で、いよいよ実際に朗読表現をしていく方法が説明される。「自然な語り口」にするには、セリフなら人物の心情に同化し、地の文なら作者の意図を読み取って、書かれているいわば「他人事」を「我が事」として、自分の言葉として言えることが必要と筆者は語る。さらに、「朗読上達の六段階」という目標設定とふさわしい作品、聴き手との「協働」による「感動をつくる朗読」とは何かの考察、賢治の『セロ弾きのゴーシュ』を題材にした上達論など、紹介しきれないほどの質量と密度がある。
 この上は、この理論が音声にどう生かされるのか、CD付きの続編が期待される。

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《館長の後段のコメント》
 書評者の代永克彦氏は、この『音声表現』の編集者でもあるらしい。この書評欄の最後に代永克彦氏のプロフィールが次のように載っている。
「(よなが かつひこ) 東海学園大学・中日本自動車短大非常勤講師。元名古屋市立高校国語科教諭。現在も同市立菊里高校放送部外部講師としてアナウンス・朗読を指導・愛知東邦学園コミュニティカレッジ朗読講座担当」
 私は、寡聞にして、代永克彦氏のことについて、このプロフィール以外のことを何も知らない。このプロフィールを読む限り、永年、朗読の指導にかかわってきた人のように思われる。実際に朗読指導をしている人に、このようにキチンと読んでもらった上に、このように高く評価してもらったことを、私は大変に嬉しく思っている。
 ただし、書評の最後に「CD付きの続編が期待される」と記されてあるが、このご期待には残念ながら添えそうもない。たしかに、今、続編『朗読の上達法』(仮題)を執筆&出版することを計画しているが、その本にCDを付ける考えはない。
 なぜならば、CDを付けると、本の表紙が硬直して、本として気持ち良く扱うことができないからである。現に、今回書評を載せてくれた『音声表現』の裏表紙にもCDが付いているのだが、そのためにその裏表紙が硬直していて、とても読みにくい。
 私も、いずれ機会があれば、自分の朗読実演や朗読指導に関するCDを制作&発行したいと思っている。しかし、その場合には、CDはCDとして、単独で出したいと考えている。単行本や雑誌の付録のような形で出すことは考えていないのである。

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08館長の「朗読の理論」 14

館長の「朗読の理論」 14  (戦後64年10月18日)

渡辺知明さんのイントネーション論について(7/最終回)

                     東 百道


○「朗読と文のイントネーションの原理(2)」について(その3)


 渡辺知明さんは、今回の一連の文章を次のように終えている。

「以上の説明は原則的なイントネーションの説明である。これはさらにプロミネンスの表現の問題につながる。つまり、単純にいうならば、イントネーションというのはただ単に音も高低の問題ではないのである。声強さが加わることによって、プロミネンスとなるのである。これについてはまた別に論ずる必要がある」(渡辺知明「朗読と文のイントネーションの原理(2)」より)

 音声言語の表現というものは、声の高低だけでなく、声の強弱にも深くかかわっている、という一般論的なレベルにおいてならば、私もこれに全く同感である。
 しかし、私がこれまで、しきりに「高く(上に)出る」ような語り口を重視し、これについて論及してきたのは、もっぱら《内容的な意味》の言語表現につながる問題としてであった。決して、渡辺知明さんがいうような「文の形」や「文の構造」に関する問題に限定した問題としてではない。そのことは、私がこれまでに記した、このブログの「館長の朗読指導メモ」欄の文章をざっとでも読み返してもらえば、十分に読み取れると思う。
 渡辺知明さんが今回の「朗読と文のイントネーションの原理」に記している「文の形」や「文の構造」、さらには「表現するべき内容」においてさえ、これらは、どうやら《語義的な意味》の範囲内に止まっているように思われる。
 しかし、文字言語ならばいざ知らず、音声言語(のイントネーション)を扱う場合に、果たして、それを《語義的な意味》の範囲内に止めたままで考察する、などということが出来るであろうか。
 音声言語は、文字言語とちがって、個々の生きた人間が自分自身の生きた肉声でもって表現するものである。したがって、音声言語には、表現主体の心情が直接に表現されてくるし、また、表現されてこざるを得ない。その心情の直接表現によって、音声言語の《記号的な意味》や《語義的な意味》だけでなく《内容的な意味》のかなりの部分までが、密接不可分の状態で一体的に表現されてくるし、表現されてこざるを得ない。
 だからこそ、前回に少していねいに触れた「たっぷりの水を与えた」というようなごく短い文字言語であっても、それを音声言語として表現する場合にはいく通りもの(おそらく無限の)表現の仕方があり得るのである。
 本当は文字言語でもそうなのだが、特に音声言語の場合には、一般的な音声言語というようなもの(あるいは原則的な音声言語というようなもの)が空中に浮かんで存在しているわけではない。音声言語というものは、個々の人間が個々に発して、その場で空中に消えてしまうところの、具体的な空気の振動としての「一過性的な表現」として、個々別々に存在している。
 したがって、たとえ「その日の朝、早く起きた私は、庭に植えた・白い・小さな・花に、たっぷりの水を与えた」というような短い音声言語であっても、それを個々の人間が個々に発した場合には、それらは総てまったく別の音声言語とみなされるべき存在なのである。一般的な、あるいは、原則的な「その日の朝、早く起きた私は、庭に植えた・白い・小さな・花に、たっぷりの水を与えた」という音声言語、などというものが、この世に現実に存在しているわけではない。
 したがって、音声言語における「原則的なイントネーション」というようなことを問題とする場合には、そういう音声言語の特性をよくよく勘案した上で、ごく共通的なレベル、ごく限定的な範囲で取り組む必要がある。
 たとえば、この「原則的なイントネーション」を《語義的な意味》の範囲内に狭く止めて理論的に考察する場合には、かなり限定的なイントネーションの範囲に止める方が賢明なのではないか、というように今の私は考えている。つまり、個々の単語におけるアクセント、および、単語や文節が連なっていく場合に生じるアクセントの変化(移行)の問題、あるいは、文節と文節をつなげる際のつなぎ部分のイントネーションのあり方、などという問題がそれである。
 ちなみに、文節と文節をつなげる場合には、イントネーションだけでなく、音声的な区切り(場合によっては息継ぎ)、あるいは長短の《間(ま)》とメリハリ、さらにはテンポやリズムなど、さまざまな要素がいろいろと絡んでくるはずである。とても、イントネーション(声の高低や強弱大小)の問題だけを機械的な当てはめただけで解決できるものではない、と今の私は考えている。
 私は、これまでの、そして、これからの、渡辺知明さんの「文の形」や「文の構造」や「表現するべき内容」(=《語義的な意味》)と「原則的なイントネーション」および「プロミネンス」の関係についての研究に、深い関心と敬意を抱いている。その方向の先に、これまでの私が想いもしなかったような、豊かで深くて新しい展開が拓かれていく可能性が、あるいは潜んでいるかも知れない、とも思われるからである。
 今の私の願いは、渡辺知明さんが、言語が表現する《意味》は三重構造になっていること、そして、現実の言語においてはその三重構造の《意味》が密接不可分な関係において一体的に表現されていること、さらに、音声言語においては《内容的な意味》のかなりの部分が心情表現として直接に表現されること、を念頭に置いて、今後の考察を重ねていって欲しい、ということである。
 一旦表現された言語(ある意味では現実的に固定化されたその言語)の背後には、その言語を表現した表現主体の認識イメージと表現イメージが脈々と流れている。その表現主体の認識イメージと表現イメージが、一旦表現された言語(ある意味では現実的に固定化されたその言語)とどのように関係づけられているのか。
 そういう問題の一つの展開として、朗読表現をどのように理論づけ、どのように朗読の実技や指導(法)として具体化していくのか。そして、どのように文学作品の作品世界をイメージし、その感動をつくり、それを朗読者と聴き手で共有していくのか。
 私自身は、これまで、これらの問題を私なりの問題意識の方向と範囲において探究してきたし、今後も同じように探究していくつもりである。そして、その成果を次に執筆を予定している単行本『朗読の上達法』(仮題)や『朗読のための作品論』(仮題)の中で私なりに展開していきたい、とも考えている。(おわり)

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08館長の「朗読の理論」 13

館長の「朗読の理論」 13  (戦後64年10月16日)

渡辺知明さんのイントネーション論について(6)

                           東 百道

○「朗読と文のイントネーションの原理(2)」について(その2)

 さて、つづけて、渡辺知明さんは次のように主張している。

「03―問題は下り階段が単純に下がらない場合があるということである。この部分がその好例である。「庭に植えた」「白い」「小さな」という三つの語句はすべて「花」にかかっているのである。その場合には、この三つの語句の音の高さは同一になる。一つずつの語句に「花」をつなげて読んでみればよくわかる。「庭に植えた花」「白い花」「小さな花」が同じ高さで読まれることがわかるだろう」(渡辺知明「朗読と文のイントネーションの原理(2)」より)

 この箇所について「『庭に植えた』『白い』『小さな』という三つの語句はすべて『花』にかかっている」という解釈自体は、まったく渡辺知明さんの言うとおりである。しかし、そのような《語義的な意味》に解釈したからといって、別にそれが「その場合には、この三つの語句の音の高さは同一になる」というイントネーションの問題に直ちに結びつくわけではない。理論的に考えても、そういう場合のイントネーションが必ずそうならなければならない、という論拠が特にあるわけではない。また、現実に行なわれている言語表現をかえりみても、そういうイントネーションで表現しなければそういう《語義的な意味》が伝わらない、いうことはない。
 ちなみに、少なくとも文学的な朗読の場合には、「庭に植えた」よりも「白い」の方を高く上げ、さらに「白い」よりも「小さな」の方を高く上げ、そして最後の「花」の部分をより高く上げたイントネーションの方が、ある種の心情がこもった《内容的な意味》を表現することもあり得るのである。
 また、改めて繰り返すが、渡辺知明さんが例示した例文ほどには複雑な修飾語が連らならない場合、すなわち、より単純な文の場合であっても、渡辺知明さんが主張しているような「下り階段が単純に下が」るようなイントネーションで音声言語を表現しなければならない理由は、特に何もないように、私には思われる。
 端的に言わせてもらえば「表現意図が明確な場合には『下り階段』になる」という渡辺知明さんのそもそもの主張自体が、まだ、音声言語の現実の表現において十分に論証&実証されていないように思われるのである。

「04―『たっぷりの/水を/与えた』と三つに分かれるが、はじめの二つはまとまって『与えた』にかかるのである」(同上)

 この部分は、日本語における「の」という言葉の役割を考えるための、非常によい事例である。そこで、ここでは、構文とかイントネーションとかの問題をちょっと横に置いておいて、そのことについて簡単に論及しておきたい。
 例文における「たっぷりの」の「の」は、日本語的に非常に含蓄のある言葉の使い方であり、そこに含まれる《内容的な意味》がとても豊富であると考えられる。このことは(日本語という)言語を考える上で、かなり大切なポイントとなっている。
 渡辺知明さんは、「たっぷりの」と「水を」という言葉が二つまとまって、「与えた」という言葉にかかっている、と指摘している。確かに、それも、一つの読み方ではある。
 しかし、それとは別に、「たっぷりの」という言葉が、「水を」と「与えた」という言葉をまとめたものの全体にかかっている、という読み方もできるのである。
 たとえば、この「の」を「と」におき変えて考えてみると話しは簡単である。つまり「たっぷりと/水を/与えた」という言語にすると、渡辺知明さんの指摘とは反対に、明らかに「たっぷりと」の一つが、「水を」と「与えた」の二つをまとめたものにかかってくることがすぐに了解されるであろう。
 そして、実は、
「たっぷりの/水を/与えた」
という例文と、
「たっぷりと/水を/与えた」
という例文が、同じ趣旨(=《内容的な意味》)とも、あるいは、違う趣旨(=《内容的な意味》)とも、解釈し得るところが、日本語という言語の内容豊富で玄妙なところなのである。
 これだけの説明では分かりにくいかもしれないので、次のような補足説明を追加しておこう。すなわち「たっぷりの/水を/与えた」という例文を、次に示すように【 】で補充しながら、①と②という二種類の違った《内容的な意味》をもつ言語表現として比べてみるのである。
 ①「たっぷりの/水を【大きなバケツで一度にバッと】/与えた」
 ②「たっぷりの【水量が庭のすべての「花」に万遍なくいきわたるように如雨露で時間をかけて少しづつ】/水を/与えた」

 ①は「たっぷりの」と「水を」をまとめて「たっぷりの水」というものを具体的にイメージし、それを一度にバッと「与えた」というようにイメージする場合である。ここでは「たっぷりの水」の具体的なイメージを【大きなバケツで一度にバッと】というように補充してみた。さらに極端な「たっぷりの水」のイメージを記してみれば、山火事を消すときのように、飛行機から大量の水をいちどきにぶちまけるような場合もあり得るであろう。
 ②は「水を」と「与えた」をまとめて「水を与えた」という人間(表現主体)の行動を具体的にイメージし、その行動の全体に「たっぷりの」という条件(修飾語)をつけてイメージする場合である。ここでは「たっぷりの」の条件(修飾語)を【水量が庭のすべての「花」に万遍なくいきわたるように如雨露で時間をかけて少しづつ】というように補充してみた。つまり「庭に植えた・白い・小さな・花」の全体に万遍なく十分な「水を与えた」というようにイメージしたものである。
 この①と②のように解読し分けることは、特に②のように解読することは、言語の《語義的な意味》の段階に止まっていたのでは、ちょっとむずかしい。この文字言語を表現した人間(表現主体)が、どのようなイメージに基いてその文字言語を表現したのか、という《内容的な意味》の段階にまで踏み込んで解読していかなければ、なかなかこのような解読はできないのである。
 そして、①の場合なら、文句なく、「たっぷりの/水を【大きなバケツで一度にバッと】」の二つをまとめて「与えた」にかけて表現する音声言語の方がよい、と言える。
 しかし、②の場合なら、むしろ「たっぷりの【水量が庭のすべての「花」に万遍なくいきわたるように如雨露で時間をかけて少しづつ】」の後に短い《間(ま)》をとってから、それを「水を/与えた」という二つの文節をまとめたものにかけて表現する音声言語の方がよい、と言える。

 そして、渡辺知明さんが今回提供してくれた「その日の朝、早く起きた私は、庭に植えた・白い・小さな・花に、たっぷりの水を与えた」という言語の《内容的な意味》を考えた場合には、②の言語表現に近いイメージが浮かび上がってくるのである。そして、音声言語としても、②のような表現の方が味わい深いものになるような気がする。

 このように様々な角度から考えていくと、渡辺知明さんの次のような結論は、なかなか直ぐには納得しがたくなってしまうのである。

「以上、単純な文をイントネーションの面から分析してみたわけであるが、これだけでも『下り階段のイントネーション』と『上り階段のイントネーション』との違いがわかるであろう」(同上)

(つづく)

 

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08館長の「朗読の理論」 12

館長の「朗読の理論」 12  (戦後64年10月13日)

渡辺知明さんのイントネーション論について(5)

                                      東 百道

○「朗読と文のイントネーションの原理(2)」について(その1)

 渡辺知明さんは、先の文章のつづきとして記した「朗読と文のイントネーションの原理(2)」を、次のような記述で始めている。

「前回、途中までで話が途切れたので、具体例を挙げてイントネーションについて説明したい。これは前回の記事で取り上げた内容を前提にしての説明なので、(1)を読んでから下記の解説を読んでほしい。
 最近わたくしは、正しいイントネーションについては「下り階段」、これと反対のイントネーションについては「上り階段」と呼んで区別をしている。実際の階段をイメージすることによって、自らの音声表現を自覚出来る。学習者にも好評な表現方法である」」(渡辺知明「朗読と文のイントネーションの原理(2)」より)

 そして、さらにつづけて、次のように、具体的な例文を使って、渡辺知明さんの持論をくわしく説明していっている。

「それでは、正しいイントネーションについて、次のような文で説明しよう。文の要素ごとに番号を振っておこう。

●01その日の朝、02早く起きた私は、03庭に植えた・白い・小さな・花に、04たっぷりの水を与えた。

01―この部分は、『その/日の/朝』と三つの部分にくぎれる。イントネーションは下り階段として「朝」まで降りてくる。『その』の音の高さは、02早く、03庭に、04たっぷり、同じになる。
 ところが、朗読の初心者はなかなか、この高さを維持して読むことができないのである。文の要素の区切りの部分で音が下がってしまうのである。

 02―この部分も『早く/起きた/私は』と下り階段で読まれる。ところが、『早く』が下がって上り階段で読んでしまう人がいるのだ。その場合、『朝早く』とつながる。本来は『早く』は『起きる』につながるのである。それが、下がって読まれることによって、『朝が早い』という意味になる」(同上)

 このような例文を示しての説明を読むとよく分かるのだが、渡辺知明さんは、読点(、)の区切りについて、その直後の出だしの部分のイントネーションを文頭の出だしと同じ高さまで上げてそろえることによって、その読点(、)の区切りを聴き手に判別させるべきだと主張している。
 したがって、逆に、読点(、)の区切り直前の部分は必ず低く下げなければいけない、と主張しなければならなくなることは論理的な必然である。なぜならば、そうしないと、読点(、)の前後におけるイントネーションの高低の区別がつかず、読点(、)の区切りがイントネーションとして聴き手に判別できなくなってしまう、ということになるからである。
 しかし、問題なのは、果たして、現実の音声言語表現が渡辺知明さんの主張のとおりになされているかどうか、である。また、果たして、そのようにしなければならない音声言語的な必要性が本当にあるかどうか、である。
 私は、文字言語における読点(、)のような働きを、現実の日本人が現実の音声言語の表現において、渡辺知明さんが主張するようなイントネーションの高低を使ってやっている、という事実はあまりないと思っている。かりにイントネーションの高低を使っている場合でも、他の要素と組み合わせてやっており、その場合でもイントネーションの高低はそれほど重要な位置を占めていないのではないかと思っている。
 また、イントネーションの高低によってそれを行なわなければ、お互いの音声言語の意味(この場合は一応《語義的な意味》に限定して考えている)を取り違えてしまう、とも思っていないし、また、そういう事実はないとも思っている。
 また、あえていうならば、現実の音声言語表現において読点(、)の区切りを表わす場合には、長短の《間(ま)》あるいは音声的な区切り(途切れ=中断)の方を、より多く、より重要な手段として活用しているのではないか、とも思っている。
 事実、前回も記したように、渡辺知明さんが「まったく逆のイントネーション」と指摘している「テレビやラジオなどのナレーションや語り方」であっても、読点(、)の区切りの判別くらいなら十分に聞き分けられる。また、そうでなければ「テレビやラジオなどのナレーションや語り方」に基くニュース報道が、世間で通用するはずがないのである。(つづく)

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08館長の「朗読の理論」 11

館長の「朗読の理論」 11  (戦後64年10月12日)

渡辺知明さんのイントネーション論について(4)

                  東 百道

○「朗読と文のイントネーションの原理(1)」について(その3)

 渡辺知明さんは、その直後に次のように記している。

「よく言われることがある。『文章を読ませれば、読み手自身がどれだけその文を理解しているかどうかわかる』―この根拠は文構造を示すイントネーションの変化にあるのである」(渡辺知明「朗読と文のイントネーションの原理(1)」より)

 ここで「読み手自身がどれだけその文を理解しているか」というのは、もともとは、主に《内容的な意味》を「理解」する問題のことを言っている。
 しかし、渡辺さんがここで主張していることは、渡辺さんの「この根拠は文構造を示すイントネーションの変化にある」という言い方から明らかなように、また、以下の渡辺知明さんの話しの展開からも明らかなように、もっぱら《語義的な意味》を「理解」する問題として扱われている。
 したがって、せっかくここで上記のような「よく言われること」を持ち出したにもかかわらず、話しの展開が中途半端なところで止まってしまっている。この点は、また「朗読と文のイントネーションの原理(2)」の内容を検討するところで、改めて論及することにしよう。
 ここでは、もう少し渡辺知明さんの話しの展開を追っていくことにする。

「わたしは原則的なイントネーションと世間で行われているイントネーションとを区別するために、『下り階段』のイントネーションと『上り階段』のイントネーションと呼んでいる。表現意図が明確な場合には『下り階段』になるが、意図がないまま読み上げると『上り階段』になりやすいのである。この言い方は音声表現の学習者にとっても分りやすいイントネーションの表現である。
 文の基本構造は『主部+述部』である。つまり、主部『ダレガ・ナニガ』+『ドウスル・ナニダ・ドウダ』とつながるのである。そして、述部については、さらに補足文素(『を、に、と、より、から』などの助詞をとる句)が加わる。その結果、文の骨格構造は、『○○が……に……を……する。』となるのである。そして、原則的なイントネーションは、この骨格構造を明確にするための音声表現なのである」(同上)

 その上で、渡辺知明さんは、次のように話しをより具体的に展開していっている。

「原則的に、主部は述部よりも高いイントネーションをとる。述部は主部を受けて低いイントネーションとなる。その間に挟まれる他の文要素のはじめが一定の音程をとることになるのである。その結果、要素要素ごとのはじまりは必ず高くなる。読み手はそれを自覚し、聞き手はその変化によって文の要素を聞き分けるのである」(同上)

 しかしながら、われわれが現実に表現している音声言語を実際に聴いてみれば(話してみれば)明らかなように、二重構造における《語義的な意味》を表現する場合においてさえ、ここで渡辺知明さんが主張しているような「原則的に、主部は述部よりも高いイントネーションをとる」というような事実はない。また「原則的に」そうしなければならないという言語論的な論拠もない。
 まして、三重構造における《内容的な意味》を表現する場合においては、なおさらである。あえてつけ加えるならば、この《内容的な意味》を表現する場合には、むしろ、主部よりも述部の方がより高い「イントネーションをとる」ことの方が多いし、心情表現という観点からみても、その方がふさわしい場合が多いのである。
 とまれ、現実の(日常的な)音声言語表現においては、渡辺さんが主張している「主部は述部よりも高いイントネーションをとる。述部は主部を受けて低いイントネーションとなる」というような、機械的な表現は行なわれていない。

「正しいイントネーションならば要素は明確に区分されるが、途中で音が下がった場合には、文の構造がわからなくなるのである。当然、文の意味もわからなくなる」(同上)

 これも、現実の音声言語表現においては、なかなかあり得ない話しである。早い話しが、渡辺知明さんによって逆の(正しくない)イントネーションだと批判されている「テレビやラジオなどのナレーションや語り方」であっても、決して「文の構造」すなわち「文の意味」が分からなくなる、などということはない。
 もし、そうでなければ、渡辺知明さんとは逆のイントネーションを使っている「テレビやラジオなどのナレーションや語り方」では、事実を正確に視聴者に届けることができないはずである。すなわち、ニュース記事のアナウンスにおいて、視聴者に《語義的な意味》を理解してもらうことができないはずである。しかし、現実には、そういう事実は全くなく、放送アナウンサーが表現するニュース記事を視聴者は正確に理解し得ているのである。
 朗読において「テレビやラジオなどのナレーションや語り方」が問題になるのは、決して《語義的な意味》の表現についてではなく、文学作品にこめられた《内容的な意味》がふさわしく表現されない点についてなのである。先の『文章を読ませれば、読み手自身がどれだけその文を理解しているかどうかわかる』という言い方に則していえば、「テレビやラジオなどのナレーションや語り方」では「読み手自身がどれだけその文(の《内容的な意味》)を理解しているかどうか」が聴き手にさっぱり伝わってこないような朗読表現にしかならない点が問題なのである。(つづく)

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08館長の「朗読の理論」 10

館長の「朗読の理論」 10   (戦後64年10月11日)

渡辺知明さんのイントネーション論について(3)

                        東 百道

○「朗読と文のイントネーションの原理(1)」について(その2)

 先ず、渡辺知明さんは、つぎのように主張している。

「これは、文法の基本的な原理から説明できることである。イントネーションとはただ感情的な内容を表現するための手段ではない。文の論理がイントネーションを決定するのである」(渡辺知明「朗読と文のイントネーションの原理(1)」より)

 ここで、渡辺知明さんは前回に引用した箇所で「高く出て下がって来るイントネーションが表現にふさわしい」と主張しているのだが、その正しさは「文法の基本的な原理から説明できる」と主張している。

 そして、一般論として、イントネーションというものは、ただ「感情的な内容を表現するための手段」ではなく、それに加えて「文の論理がイントネーションを決定する」と主張している。

 さらに、その「文の論理がイントネーションを決定する」という点について、次のように話しを展開させている。

「わたしたちが音声言語として文の形で何かを伝えたり考えたりするときには、文の構造を明らかにしながら音声化しなければならないのである。というよりも、表現するべき内容が明確であるならば、自然に正確なイントネーションが決定されるのである」(同上)

 ここの部分で、渡辺知明さんは「文の形」「文の構造」「表現するべき内容」という言葉を連ねている。これらは、私の言葉で言えば、言語が表現する《語義的な意味》の範囲に属するもののようである。この点は言語論としても大切なポイントであるから、少していねいに説明することにしたい。

 私の『朗読の理論』にくわしく記してあるのだが、言語が表現する《意味》は次のような三重構造からなっている。

 一重構造:文字または音声における記号的な意味=《記号的な意味》 

 二重構造:単語、文節、文、文章における語義的な意味=《語義的な意味》 

 三重構造:単語、文節、文、文章における内容的な意味=《内容的な意味》 

 この言語が表現する《意味》の三重構造に関するくわしい説明は拙著『朗読の理論』88~93ページを参照していただきたいが、誤解を恐れずに、きわめて大まかな言い方で説明すれば、二重構造における《語義的な意味》は、辞書に載っているところの《意味》であり、三重構造における《内容的な意味》は、表現者がその言語で表現したいところの表現者のイメージなのである。あるいは、これを文学的な内容を包含した《意味》とでもいったら良いであろうか。もしくは、これを翻訳にたとえれば、前者の《語義的な意味》は直訳的な《意味》に、後者の《内容的な意味》は意訳的な《意味》に相当するものと言えるであろうか。

 この言語が表現する《意味》の三重構造を、明確に認識することはきわめて大切である。さらに、現実に使われている言語は、その三重構造の《意味》が互いに密接不可分のものとして、一体的に表現されている、ということを明確に認識しておくこともきわめて大切である。それらが明確に認識できていないと、言語に関して、どうしても無用な混同ないしは混乱に落ち込んでしまう。

 渡辺知明さんが、上記の箇所で「文の形」「文の構造」「表現するべき内容」という言葉を連ねているのは、範疇的には、全て《語義的な意味》の範囲に含まれる問題であるようである。特に、最後の「表現するべき内容」については、それが《語義的な意味》を指すのか、それとも《内容的な意味》まで含めているのか、が今一つ明確になっていない。しかし、渡辺知明さんの文章の流れからすると、主に《語義的な意味》として扱われているようである。

 逆に言えば、渡辺知明さんのこの文章においては、言語が表現する《内容的な意味》が言語から切り離されたまま、イントネーション論が展開されていることになる。(つづく)

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08館長の「朗読の理論」 9

館長の「朗読の理論」 9    (戦後64年10月10日)

渡辺知明さんのイントネーション論について(2) 

                              東 百道

○「朗読と文のイントネーションの原理(1)」について(その1)

 渡辺知明さんの「朗読と文のイントネーションの原理」は(1)と(2)に分かれているので、先ず(1)の方から見ていくことにする。

「『感動をつくる・日本朗読館』の東百道さんが、しきりに『「高く(上に)出る」ような語り口』ということを論じている。これは、日本語の基本的なイントネーションの問題である」(渡辺知明「朗読と文のイントネーションの原理(1)」より)

 私の主張している「『高く(上に)出る』ような語り口」は、確かにイントネーションに深く関係している。しかし、そのすべてが「日本語の基本的なイントネーションの問題」に解消できる、とは私は考えていない。これは、もっと広く音声言語の表現全体にかかわる問題なのである。その意味では、まさに「語り口」の問題なのだと、私は考えている。

「東百道さんが繰り返しこれを問題にすることはよくわかる。テレビやラジオなどのナレーションや語り方を聞いていると、まったく逆のイントネーションの傾向に満ちあふれている。ここで問題とするべきは、なぜ、高く出て下がって来るイントネーションが表現にふさわしいのかということである」(同上)

 テレビやラジオのニュース番組でのニュースの読み方、あるいは、ドキュメント番組でのナレーションでは、確かに、私の「『高く(上に)出る』ような語り口」とは「まったく逆の」語り口が一般的に行なわれている。これは、渡辺知明さんが指摘するとおりである。さらに、放送アナウンサー出身の朗読指導者が指導している朗読の「語り口」も、同じように私の「『高く(上に)出る』ような語り口」とは「まったく逆の」語り口であるようである。そして、それらの音声言語表現が、朗読表現として、あまり好ましいものではないという点で、私は渡辺知明さんにまったく同感である。

 しかし、その後に渡辺知明さんは「ここで問題とするべきは、なぜ、高く出て下がって来るイントネーションが表現にふさわしいのかということである」という方向に、話しを展開していっている。

 問題は、ここで渡辺知明さんが記している「高く出て下がって来るイントネーション」というものそれ自体が、私の主張する「『高く(上に)出る』ような語り口」とは全く別のものだ、という点である。私は「高く出て下がって来るイントネーション」などというものを、まったく主張していないし、かつて主張したこともない。

 あえて渡辺知明さんの言い方を借りるなら、私は「高く(上に)出て、そのまま高く(上に)出っぱなしの語り口」を提唱するものである。

 したがって、渡辺知明さんが「ここで問題とするべきは、なぜ、高く出て下がって来るイントネーションが表現にふさわしいのかということである」というように問題を設定している以上、それ以降の渡辺知明さんの話しの展開は、私の提唱している「『高く(上に)出る』ような語り口」とは本質的に全く別の方向に転換してしまう。

 そのことを、先ずここではっきりと確認した上で、さらに渡辺知明さんの話しの展開を、内容的に検討していくことにしたい。(つづく)

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08館長の「朗読の理論」 8

館長の「朗読の理論」 8    (戦後64年10月09日)

渡辺知明さんのイントネーション論について(1)

 東 百道

○「館長の朗読指導メモ 37」に渡辺知明さんからコメント

 先日「館長の朗読指導メモ 37」に、標題「人間は自分の普段の声出しがなかなか自覚できない」という文章を書いた。その文章の流れの中で、私が「高く(上に)出る」語り口について触れたのだが、その点について渡辺知明さんからコメントが寄せられた。

次いで、渡辺知明さんから、それに関連したことを、彼が開設&運営しているブログ『eXcite ことば・言葉・コトバ』に記した旨のコメントが追加されてきた。親切に、リンク先のURLも添えられていた。さっそく見に行ったところ、2回にわたって「朗読と文のイントネーションの原理」という記事が掲載されていた。そして、その「朗読と文のイントネーションの原理」には、私の「高く(上に)出る」語り口について、いかにも渡辺知明さんらしい論及がなされていた。

私は以前から、渡辺知明さんが朗読の理論をいろいろと探究していることを知っていた。彼のホームページ『ことば・言葉・コトバ』も時々覗いていた。そして、朗読の実技だけでなく、朗読の理論を探求しようとしている人間が、この日本に、私の他に少なくとも一人はいた、という驚きと共感を心に抱いていた。

○「朗読と文のイントネーションの原理」に応答する真意

朗読の理論に関する渡辺知明さんの考えそのものには、残念ながら同意できない点が多かった。もちろん、同意できる点もかなりあったが、言語論や認識論あるいは朗読の理論の内容について、本質的な違いを強く感じていた

しかし、朗読の理論などはいろいろあっても差し支えないし、それぞれが存在する意味もある。多数の探究者が、それぞれ自分の信ずるところにしたがって研鑽を積んでいけば、朗読の理論がそれだけ豊かになって、日本の朗読文化総体ためには有益であるに違いない、と考えていた。したがって、渡辺知明さんの考えについて、私から敢えて論及することを控えてきたのである。

しかし、渡辺知明さんは、私のブログ『感動をつくる・日本朗読館』が発足した当初から、彼のホームページで紹介(リンク)してくれているし、また、彼からのコメントによれば、拙著『朗読の理論』(木鶏社)も読んでくれている。

その渡辺知明さんが、今回、わざわざ私の「高く(上に)出る」語り口に対して、コメントし、加えて、ホームページとは別立てのブログにおいてさらに具体的に論及してくれたのである。

それに対して、私からもキチンと応答しなければ、それは却ってエチケットに反するのではないかと考えた。

そこで、応答する場をどこに設けたら良いか、といろいろ考えたのだが、私のブログの中で応答するのであれば、この「館長の『朗読の理論』」欄こそがもっともその場にふさわしいと思いついた。そこで、この欄において、これから何回かにわたって、渡辺知明さんの「朗読と文のイントネーションの原理」に対して、私から応答していくことにする。

あらかじめお断りしておきたいのは、こういう理論的(論理的)な問題についての応答を文字言語で行なうと、書く方にその気がなくとも、つい表現がキツイものになりがちである。うっかりすると気まずい雰囲気になったり、場合によっては喧嘩腰のやり取りになったり、しかねない。

そういうことは、私よりはるかに以前からホームページを開設&運営し、自説を公開してきた渡辺知明さんなら、百も承知、釈迦に説法だと思う。したがって、たとえ文面はキツイものに受け取られかねない表現になったとしても、心は真剣に相互啓発の願いを籠めて記していることは、十分に理解していただけると信じている。

○渡辺知明さんのプロフィールを紹介

 私からの応答を始める前に、先ず、渡辺知明さんのプロフィールを紹介しておくことにしよう。私のブログを読んでくれている人のなかで、渡辺知明さんのことを知らない人がいるかも知れないからである。

渡辺知明さん自身が開設しているホームページ『ことば・言葉・コトバ』の「自己紹介」欄によれば、渡辺知明さんのプロフィールは次のとおりである。

「1952(昭和27)生まれ。群馬県桐生市出身。大学在学中に日本コトバの会に入会。大久保忠利氏(元都立大学教授。言語学・国語学)より、言語理論、国語教育理論、文章、話し方、表現よみ指導法を学ぶ。国立国語研究所第1回日本語教育研修修了(1980)。現在、コトバ表現研究所所長 (1993/4~)、表現よみO(オー)の会代表(2000/10~) 。日本コトバの会事務局長/講師」

 これによれば、渡辺知明さんの朗読の理論は、大久保忠利氏の言語論を土台に展開されているようである。現に、渡辺知明さんの今回の「朗読と文のイントネーションの原理」という文章にも、その影響が強く現われていると推測できる箇所がある。

 ちなみに、私がもっぱら独学し、高く評価し、大いに参考にしているのは、三浦つとむの言語論である。

それでは次回から、もっぱら渡辺知明さん本人の執筆による「朗読と文のイントネーションの原理」の内容そのものに則して、私から応答していくことにする。(つづく)

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08館長の「朗読の理論」 7

拙著『朗読の理論』の公共図書館の常備状況(北海道)
                 (戦後64年4月20日 新規)

《館長からのお願い》
 全国の公共図書館に私の『朗読の理論――感動をつくる日本朗読館――』(木鶏社)が常備されること。これが私の夢である。
 そこで、全国の公共図書館に私の本がどのくらい常備されているかを、県別にインターネットで調べていくことにした。常備状況は時々刻々に変わっていく。北海道から沖縄県まで順々に何回も巡回して、その変化も追っていきたいと考えている。
 このブログを読んでくださっている全国の皆さんも、この情報を念頭に置きつつ、お志しあれば、是非、ご自分が居住ないしは通勤・通学している市町村の公共図書館に、拙著『朗読の理論――感動をつくる日本朗読館――』(木鶏社)を常備するよう、皆さんから注文を出していただけるとありがたい。
 もちろん、個人として拙著をご購入いただき、じっくりと読み込んでいただきくことを一番に願っています。しかし、それに加えて、お手数だとは思いますが、最寄の公共図書館にも常備されるように、お骨折りいただきたいのです。そうすることによって、私の《感動をつくる朗読》が少しでも広く普及するように、ご協力いただければ幸いです。

●館長のコメント

 北海道は前回の調査(戦後64年4月14日)においては常備する公共図書館が0であったが、今回の調査では3館となっていた。あまりにも短期間で変わっているので、ことによると前回の調査に漏れがあったのかも知れない。
 常備している図書館は、旭川市図書館、帯広市図書館、別海町図書館の3館である。
 われながら現金だとは思うが、この3館およびこの3館の所在地に急に親しみを感じてしまった。
 旭川市は有名であるが、一応、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の記事を紹介しておく。
「旭川市(あさひかわし)は、北海道にある市で、上川支庁の所在地。2000年(平成12年)4月1日に中核市に指定。北日本では仙台市に次ぐ3番目(道内では札幌市に次いで2番目)の人口を有する北日本最大の中核市であり、国際会議観光都市にも指定されている。戦前は陸軍第七師団が置かれ、軍都として発展した。旭川の語源は諸説あるが、市の中心部に流れる忠別川をアイヌの人々が「波のある川・波立つ川」の意味でチウ・ペツと呼んでいたこと、これを誤ってチュッ・ペツ(日の川)と訳したことから「旭川」という呼ばれるようになったという説もある」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
 帯広市もかなり知名度は高い。帯広市役所のホームページには次のような紹介がなされている。
「帯広市は、北海道東部の十勝[とかち]地方のほぼ中央に位置する、人口約17万人のまちです。明治16年(1883年)に本格的に開拓がはじまり、碁盤目状の道路網など計画的な市街地形成を行ってきました。また、農業を主要産業とする十勝地方(約35万人、1市16町2村)の中心地であり、農産物集積地、商業都市としての役割を担っています」(帯広市役所のホームページより)
 別海町のことは、恥ずかしながら、私は今まで知らなかった。別海町役場のホームページには、文章による町の紹介がない。そこで、たまたま見つけた株式会社べつかい乳業興社のホームページの「別海町について」欄の文章を紹介する。
「別海町は、北海道の東(道東)、根室半島と知床半島の中間に位置し『酪農』『水産』『観光』にささえられる町です。特に酪農は、広大な面積に恵まれ、乳牛11万頭を数え、『新酪農村』の建設で、かつて例のない大型酪農地帯を形成し生乳生産量日本一を誇っています」(株式会社べつかい乳業興社のホームページより)
 また、別海町役場のホームページによれば、今年(戦後64年)3月末の人口は16122人ということである。乳牛が11万頭に対して、人口が1.6万人だから、圧倒的に乳牛の方が多い。まさに酪農の町ということができる。
 人口16122人のこの町の一体どんな人物が、私の『朗読の理論』を町の図書館に常備するように取り計らってくれたのだろうか。また、この町では朗読が一体どのように行われているのであろうか。そして、私の『朗読の理論』は一体どのように読まれているのだろうか。私の興味はなかなか尽きることがないのである。

【北海道地方】

北海道立図書館                 所蔵册数 0冊

札幌市中央図書館               所蔵册数 0冊

赤平市図書館                  所蔵册数 0冊

旭川市図書館                  所蔵册数 1冊

芦別市立図書館                 所蔵册数 0冊

網走市立図書館                 所蔵册数 0冊

石狩市民図書館                 所蔵册数 0冊

岩見沢市立図書館               所蔵册数 0冊

歌志内市立図書館               所蔵册数 0冊

恵庭市立図書館                 所蔵册数 0冊

江別市情報図書館              所蔵册数 0冊

市立小樽図書館                所蔵册数 0冊

帯広市図書館                  所蔵册数 1冊

北広島市図書館                所蔵册数 0冊

北見地域図書館ネットワークシステム  所蔵册数 0冊

北見市立図書館                所蔵册数 0冊

市立釧路図書館                所蔵册数 0冊

士別市立図書館                所蔵册数 0冊

砂川市図書館                  所蔵册数 0冊

滝川市立図書館                所蔵册数 0冊

伊達市立図書館                所蔵册数 0冊

千歳市立図書館                所蔵册数 0冊

苫小牧市立中央図書館          所蔵册数 0冊

市立名寄図書館                所蔵册数 0冊

根室市図書館                  所蔵册数 0冊

登別市立図書館                所蔵册数 0冊

函館市中央図書館              所蔵册数 0冊

美唄市立図書館                所蔵册数 0冊

深川市立図書館                所蔵册数 0冊

市立富良野図書館              所蔵册数 0冊

北斗市立図書館                所蔵册数 0冊

三笠市立図書館                所蔵册数 0冊

市立室蘭図書館                所蔵册数 0冊

紋別市立図書館                所蔵册数 0冊

市立留萌図書館                所蔵册数 0冊

稚内市立図書館                所蔵册数 0冊

本の森厚岸情報館              所蔵册数 0冊

厚沢部町図書館                所蔵册数 0冊

池田町立図書館                所蔵册数 0冊

浦河町立図書館                所蔵册数 0冊

浦幌町立図書館                所蔵册数 0冊

江差町図書館                  所蔵册数 0冊

遠軽町図書館                  所蔵册数 0冊

雄武町図書館                  所蔵册数 0冊

大空町図書館                  所蔵册数 0冊

置戸町生涯学習情報センター       所蔵册数 0冊

興部町立図書館                所蔵册数 0冊

音更町図書館                  所蔵册数 0冊

上富良野町図書館              所蔵册数 0冊

上湧別町図書館                所蔵册数 0冊

清里町図書館                  所蔵册数 0冊

栗山町図書館                  所蔵册数 0冊

訓子府町図書館                所蔵册数 0冊

町立小清水図書館              所蔵册数 0冊

町立様似図書館                所蔵册数 0冊

鹿追町図書館                  所蔵册数 0冊

標茶町図書館                  所蔵册数 0冊

清水町図書館                  所蔵册数 0冊

斜里町図書館                  所蔵册数 0冊

白老町立図書館                所蔵册数 0冊

新得町図書館                  所蔵册数 0冊

新十津川町図書館              所蔵册数 0冊

月形町図書館                  所蔵册数 0冊

弟子屈町図書館                所蔵册数 0冊

当麻町立図書館                所蔵册数 0冊

豊頃町図書館                  所蔵册数 0冊

中標津町図書館                所蔵册数 0冊

奈井江町図書館                所蔵册数 0冊

長沼町図書館                  所蔵册数 0冊

沼田町図書館                  所蔵册数 0冊

美瑛町立図書館                所蔵册数 0冊

比布町図書館                  所蔵册数 0冊

美幌町図書館                  所蔵册数 0冊

平取町立図書館                所蔵册数 0冊

広尾町図書館                  所蔵册数 0冊

別海町図書館                  所蔵册数 1冊

本別町図書館                  所蔵册数 0冊

幕別町図書館                  所蔵册数 0冊

むかわ町立穂別図書館          所蔵册数 0冊

芽室町図書館                  所蔵册数 0冊

八雲町立図書館                所蔵册数 0冊
 
湧別町図書館                  所蔵册数 0冊

由仁町ゆめっく館                所蔵册数 0冊

わっさむ町立図書館             所蔵册数 0冊

安平町公民館図書室            所蔵册数 0冊

岩内地方文化センター図書室     所蔵册数 0冊

遠別町生涯学習センター図書室    所蔵册数 0冊

小平町文化交流センター図書室    所蔵册数 0冊

上川町公民館図書室           所蔵册数 0冊

京極町生涯学習センター湧学館    所蔵册数 0冊

釧路町公民館図書室           所蔵册数 0冊

倶知安町公民館図書室・絵本館    所蔵册数 0冊

黒松内町ふれあいの森情報館     所蔵册数 0冊

剣淵町絵本の館               所蔵册数 0冊

猿払村農村環境改善センター     所蔵册数 0冊

下川町公民館図書室           所蔵册数 0冊

津別町中央公民館図書室       所蔵册数 0冊

鶴居村ふるさと情報館           所蔵册数 0冊

当別町公民館図書室           所蔵册数 0冊

中頓別町青少年会館図書室      所蔵册数 0冊

新冠町図書プラザ              所蔵册数 0冊

仁木町町民センター図書室       所蔵册数 0冊

西興部村公民館図書室         所蔵册数 0冊

ニセコ町学習交流センター        所蔵册数 0冊

羽幌町中央公民館図書室       所蔵册数 0冊

美深町文化会館図書室         所蔵册数 0冊

福島町福祉センター図書室       所蔵册数 0冊

幌加内町情報学習館           所蔵册数 0冊

幌延町公民館図書室           所蔵册数 0冊

利尻町交流促進施設郷土資料室   所蔵册数 0冊

-------------------------

【北海道合計】                  所蔵册数 3冊
                    (所蔵館数 3/全110館中)

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08館長の「朗読の理論」 6

拙著『朗読の理論』の公共図書館の常備状況(県別)
            (戦後64年4月14日 新規)

●館長のコメント
 全国の公共図書館に私の『朗読の理論——感動をつくる日本朗読館——』(木鶏社)が常備されること。これが私の夢である。
 近年の街の本屋さんのほとんどは、いわゆる売れ筋の本しか置いていない。街の本屋さんも商売でやっているのだから、それはそれで仕方がないことかもしれない。また、インターネット書店は、本のリストは充実しているものの、実物を手にとってチェックすることができない。本の実物をパラパラとめくりながら、目次を確かめたり、本文の様子を点検することができない。そのために、場合によっては、購入した後でしまったと思う事態にもなりかねない。
 そこで、図書館の役割が重要になってくる。公共の図書館は商売でやっているわけではないし、書棚のスペースもかなりユッタリしている。したがって、良い本なら、必ずしも売れ筋でなくとも、常備しておくことができる。良い本を探したい人は、図書館に行けば、実物を手にとってゆっくりと内容を確かめることができる。そういう場をつくることが、公共図書館の本来の役割の一つなのではなかろうか。
 私の『朗読の理論——感動をつくる日本朗読館——』も、全国の朗読に関心のある方々に、先ず図書館で内容をよく確かめて、手元に置いてじっくり読み込むべき本かどうかを判断してもらい、それからゆっくり購入してもらいたいと思っている。
 そのために、なるべく多くの公共図書館に私の本を常備してもらう必要がある。
 この度、試みに全国の公共図書館に私の本がどのくらい常備されているかをインターネットで調べてみた。その結果は、下記のとおりであった。
 インターネットによって蔵書が検索できる全国1275の公共図書館の中で、私の『朗読の理論』(木鶏社)を常備しているのは、現時点(2009年3月末)で、わずかに46館(3.6%)に過ぎなかった。まだまだわずかなものである。今後、徐々に増えていくとは思うが、同じ常備されるなら、なるべく早い方がよい。
 幸い、このブログ「感動をつくる・日本朗読館」には、全国の各都道府県から読みに来て下さっている。その多くは、繰り返し読みに来て下さっているリピーター、いわば常連さんである。
 そこで、このブログを読んでくださっている全国の皆さんにお願いがあります。お志しあれば、是非、ご自分が居住ないしは通勤・通学している市町村の公共図書館に、拙著『朗読の理論——感動をつくる日本朗読館——』(木鶏社)を常備するよう、皆さんから注文を出していただきたいのです。
 もちろん、個人として拙著をご購入いただき、じっくりと読み込んでいただきくことを一番に願っています。しかし、それに加えて、お手数だとは思いますが、最寄の公共図書館にも常備されるように、お骨折りいただきたいのです。そうすることによって、私の《感動をつくる朗読》が少しでも広く普及するように、ご協力いただきたいのです。
 幸い『朗読の理論』は全国図書館協会選定図書に選ばれていますので、注文さえしていただければ、必ず常備してもらえると思います。
 何卒、よろしくお願い申し上げます。

【北海道地方】
北海道   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全58館中)

【東北地方】
青森県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全16館中)
岩手県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全26館中)
宮城県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全17館中)
秋田県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全12館中)
山形県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全15館中)
福島県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全 8館中)

【関東地方】
茨城県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全39館中)
栃木県   所蔵册数 3冊(所蔵館数 3/全27館中)
群馬県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全24館中)
埼玉県   所蔵册数 3冊(所蔵館数 3/全70館中)
千葉県   所蔵册数 5冊(所蔵館数 5/全31館中)
東京都   所蔵册数10冊(所蔵館数10/全54館中)
神奈川県  所蔵册数 3冊(所蔵館数 3/全38館中)

【甲信越・北陸地方】
新潟県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全24館中)
富山県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全23館中)
石川県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全22館中)
福井県   所蔵册数 1冊(所蔵館数 1/全21館中)
山梨県   所蔵册数 3冊(所蔵館数 3/全52館中)
長野県   所蔵册数 1冊(所蔵館数 1/全35館中)

【東海地方】
岐阜県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全33館中)
静岡県   所蔵册数 1冊(所蔵館数 1/全34館中)
愛知県   所蔵册数 3冊(所蔵館数 3/全50館中)
三重県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全44館中)

【近畿地方】
滋賀県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全19館中)
京都府   所蔵册数 1冊(所蔵館数 1/全58館中)
大阪府   所蔵册数 2冊(所蔵館数 2/全40館中)
兵庫県   所蔵册数 1冊(所蔵館数 1/全40館中)
奈良県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全19館中)
和歌山県  所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全25館中)

【中国地方】
鳥取県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全19館中)
島根県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全12館中)
岡山県   所蔵册数 1冊(所蔵館数 1/全35館中)
広島県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全20館中)
山口県   所蔵册数 1冊(所蔵館数 1/全26館中)

【四国地方】
徳島県   所蔵册数 1冊(所蔵館数 1/全10館中)
香川県   所蔵册数 1冊(所蔵館数 1/全 9館中)
愛媛県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全 9館中)
高知県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全 8館中)

【九州地方】
福岡県   所蔵册数 2冊(所蔵館数 2/全30館中)
佐賀県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全16館中)
長崎県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全26館中)
熊本県   所蔵册数 1冊(所蔵館数 1/全 5館中)
大分県   所蔵册数 1冊(所蔵館数 1/全12館中)
宮崎県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全23館中)
鹿児島県  所蔵册数 1冊(所蔵館数 1/全23館中)
沖縄県   所蔵册数 0冊(所蔵館数 0/全18館中)
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【合計】  所蔵册数46冊(所蔵館数46/全1275館中)

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