08館長の「朗読の理論」

拙著『朗読の理論』の公共図書館の常備状況(県別)/2014年

拙著『朗読の理論』の公共図書館の常備状況(県別)/2014年

                (戦後64年04月14日 新規)
                (戦後67年06月23日 更新)
                (戦後67年07月04日 更新)
                (戦後69年12月17日 更新)


《館長からのコメント》

 全国の公共図書館に私の『朗読の理論——感動をつくる朗読をめざして——』(木鶏社)が常備されること。これが私の夢である。

 近年の街の本屋さんのほとんどは、いわゆる売れ筋の本しか置いていない。街の本屋さんも商売でやっているのだから、それはそれで仕方がないことかもしれない。また、インターネット書店は、本のリストは充実しているものの、実物を手にとってチェックすることができない。本の実物をパラパラとめくりながら、目次を確かめたり、本文の様子を点検することができない。そのために、場合によっては、購入した後でしまったと思う事態にもなりかねない。

 そこで、図書館の役割が重要になってくる。公共の図書館は商売でやっているわけではないし、書棚のスペースもかなりユッタリしている。したがって、良い本なら、必ずしも売れ筋でなくとも、常備しておくことができる。良い本を探したい人は、図書館に行けば、実物を手にとってゆっくりと内容を確かめることができる。そういう場をつくることが、公共図書館の本来の役割の一つなのではなかろうか。

 私の『朗読の理論——感動をつくる朗読をめざして——』も、全国の朗読に関心のある方々に、先ず図書館で内容をよく確かめて、手元に置いてじっくり読み込むべき本かどうかを判断してもらい、それからゆっくり購入してもらいたいと思っている。

 そのために、なるべく多くの公共図書館に私の本を常備してもらう必要がある。

 この度、2年ぶりに全国の公共図書館に私の本がどのくらい常備されているかをインターネットで調べてみた。その結果は、下記のとおりであった。

 インターネットによって蔵書が検索できる全国1541の公共図書館の中で、私の『朗読の理論』(木鶏社)を常備しているのは、現時点(2014年2月05日)で、わずかに89館(5.8%)に過ぎなかった。3年前の時点(2012年7月初)における全国1275館中の70館(4.7%)よりは、19館は増えたけれども、まだまだ全体から見ると微々たるものである。

 今後も、徐々に増えていくとは思うが、同じ常備されるなら、なるべく早い方がよい。

《館長からのお願い》

 そこで、このブログを読んでくださっている全国の皆さんにお願いがあります。お志しあれば、是非、ご自分が居住ないしは通勤・通学している市町村の公共図書館に、拙著『朗読の理論——感動をつくる朗読をめざして——』(木鶏社)を常備するよう、皆さんから推薦していただきたいのです。

 もちろん、個人として拙著をご購入いただき、じっくりと読み込んでいただきくことを一番に願っています。しかし、それに加えて、お手数だとは思いますが、最寄の公共図書館にも常備されるように、お骨折りいただきたいのです。そうすることによって、私の提唱する《感動をつくる朗読》が少しでも広く普及するように、ご協力いただきたいのです。

 ご賛同いただける方々は、何卒、よろしくお願い申し上げます。

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【北海道地方】 
北海道   所蔵册数  4冊(所蔵館数  4/全125館中)
(小計)    所蔵册数  4冊(所蔵館数  4/全125館中)

【東北地方】
青森県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全21館中)
岩手県   所蔵册数  2冊(所蔵館数  2/ 全29館中) +2
宮城県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全24館中)
秋田県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全17館中)
山形県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全24館中)
福島県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全29館中)
(小計)   所蔵册数  3冊(所蔵館数  3/全144館中) +2

【関東地方】 
茨城県   所蔵册数  2冊(所蔵館数  2/ 全40館中) +2
栃木県   所蔵册数  4冊(所蔵館数  4/ 全26館中)
群馬県   所蔵册数  2冊(所蔵館数  2/ 全23館中) +2
埼玉県   所蔵册数  4冊(所蔵館数  4/ 全59館中) +1
千葉県   所蔵册数  6冊(所蔵館数  6/ 全44館中) +1
東京都   所蔵册数 16冊(所蔵館数 16/ 全53館中) +1
神奈川県  所蔵册数  4冊(所蔵館数  4/ 全33館中)
(小計)   所蔵册数 38冊(所蔵館数 38/全278館中) +7

【甲信越・北陸地方】 
新潟県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全23館中)
富山県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全16館中)
石川県   所蔵册数  2冊(所蔵館数  2/ 全19館中) +1
福井県   所蔵册数  3冊(所蔵館数  3/ 全18館中) +1
山梨県   所蔵册数  7冊(所蔵館数  7/ 全21館中) +3
長野県   所蔵册数  3冊(所蔵館数  3/ 全48館中) +2
(小計)   所蔵册数 15冊(所蔵館数 15/全145館中) +7 

【東海地方】 
岐阜県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全39館中) +1
静岡県   所蔵册数  3冊(所蔵館数  3/ 全30館中) +2
愛知県   所蔵册数  5冊(所蔵館数  5/ 全47館中) +2
三重県   所蔵册数  2冊(所蔵館数  2/ 全23館中) +1
(小計)   所蔵册数 11冊(所蔵館数 11/全139館中) +6

【近畿地方】
滋賀県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全20館中)
京都府   所蔵册数  2冊(所蔵館数  2/ 全52館中) +1
大阪府   所蔵册数  4冊(所蔵館数  4/ 全41館中)
兵庫県   所蔵册数  3冊(所蔵館数  3/ 全44館中) +2
奈良県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全29館中)
和歌山県  所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全28館中) +1
(小計)   所蔵册数 11冊(所蔵館数 11/全214館中) +4

【中国地方】
鳥取県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全24館中)
島根県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全21館中)
岡山県   所蔵册数  2冊(所蔵館数  2/ 全38館中)
広島県   所蔵册数  3冊(所蔵館数  3/ 全24館中) +1
山口県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全27館中)
(小計)   所蔵册数  6冊(所蔵館数  6/全134館中) +1

【四国地方】 
徳島県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全27館中)
香川県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全16館中)
愛媛県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全16館中) +1
高知県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全18館中)
(小計)   所蔵册数  3冊(所蔵館数  3/ 全77館中) +1

【九州地方】 
福岡県   所蔵册数  4冊(所蔵館数  4/ 全24館中) +1
佐賀県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全44館中)
長崎県   所蔵册数  3冊(所蔵館数  3/ 全38館中) +2
熊本県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全18館中)
大分県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全17館中)
宮崎県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全24館中)
鹿児島県  所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全39館中)
沖縄県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全31館中)
(小計)   所蔵册数 11冊(所蔵館数 11/全235館中) +3

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【合計】   所蔵册数102冊(所蔵館数102/全1491館) +31 





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拙著『朗読の理論』の公共図書館の常備状況(県別)

拙著『朗読の理論』の公共図書館の常備状況(県別)

                (戦後67年6月23日 更新)

                (戦後67年7月04日 訂正)


《館長からのコメント》

 全国の公共図書館に私の『朗読の理論——感動をつくる朗読をめざして——』(木鶏社)が常備されること。これが私の夢である。

 近年の街の本屋さんのほとんどは、いわゆる売れ筋の本しか置いていない。街の本屋さんも商売でやっているのだから、それはそれで仕方がないことかもしれない。また、インターネット書店は、本のリストは充実しているものの、実物を手にとってチェックすることができない。本の実物をパラパラとめくりながら、目次を確かめたり、本文の様子を点検することができない。そのために、場合によっては、購入した後でしまったと思う事態にもなりかねない。

 そこで、図書館の役割が重要になってくる。公共の図書館は商売でやっているわけではないし、書棚のスペースもかなりユッタリしている。したがって、良い本なら、必ずしも売れ筋でなくとも、常備しておくことができる。良い本を探したい人は、図書館に行けば、実物を手にとってゆっくりと内容を確かめることができる。そういう場をつくることが、公共図書館の本来の役割の一つなのではなかろうか。

 私の『朗読の理論——感動をつくる朗読をめざして——』も、全国の朗読に関心のある方々に、先ず図書館で内容をよく確かめて、手元に置いてじっくり読み込むべき本かどうかを判断してもらい、それからゆっくり購入してもらいたいと思っている。

 そのために、なるべく多くの公共図書館に私の本を常備してもらう必要がある。

 この度、3年ぶりに全国の公共図書館に私の本がどのくらい常備されているかをインターネットで調べてみた。その結果は、下記のとおりであった。

 インターネットによって蔵書が検索できる全国1478の公共図書館の中で、私の『朗読の理論』(木鶏社)を常備しているのは、現時点(2012年6月22日)で、わずかに70館(4.7%)に過ぎなかった。3年前の時点(2009年3月末)における全国1275館中の46館(3.6%)よりは、24館は増えたけれども、まだまだ全体から見ると微々たるものである。

 今後も、徐々に増えていくとは思うが、同じ常備されるなら、なるべく早い方がよい。

《館長からのお願い》

 そこで、このブログを読んでくださっている全国の皆さんにお願いがあります。お志しあれば、是非、ご自分が居住ないしは通勤・通学している市町村の公共図書館に、拙著『朗読の理論——感動をつくる朗読をめざして——』(木鶏社)を常備するよう、皆さんから注文を出していただきたいのです。

 もちろん、個人として拙著をご購入いただき、じっくりと読み込んでいただきくことを一番に願っています。しかし、それに加えて、お手数だとは思いますが、最寄の公共図書館にも常備されるように、お骨折りいただきたいのです。そうすることによって、私の提唱する《感動をつくる朗読》が少しでも広く普及するように、ご協力いただきたいのです。

 何卒、よろしくお願い申し上げます。

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【北海道地方】 
北海道  所蔵册数   4冊(所蔵館数  4/ 全66館中) +4 訂正
(小計)  所蔵册数   4冊(所蔵館数  4/ 全66館中) +4 訂正

【東北地方】 
青森県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全23館中)
岩手県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全28館中)
宮城県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全19館中)
秋田県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全10館中)
山形県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全26館中)
福島県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全18館中) +1
(小計)   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/全124館中) +1

【関東地方】 
茨城県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全40館中)
栃木県   所蔵册数  4冊(所蔵館数  4/ 全23館中) +1
群馬県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全27館中)
埼玉県   所蔵册数  3冊(所蔵館数  3/ 全68館中)
千葉県   所蔵册数  5冊(所蔵館数  5/ 全38館中)
東京都   所蔵册数 15冊(所蔵館数 15/ 全60館中) +5
神奈川県  所蔵册数  4冊(所蔵館数  4/ 全39館中) +1
(小計)    所蔵册数 31冊(所蔵館数 31/全295館中) +7

【甲信越・北陸地方】 
新潟県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全22館中)
富山県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全24館中)
石川県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全23館中) +1
福井県   所蔵册数  2冊(所蔵館数  2/ 全24館中) +1
山梨県   所蔵册数  4冊(所蔵館数  4/ 全53館中) +1
長野県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全40館中)
(小計)    所蔵册数  8冊(所蔵館数  8/全186館中) +3

【東海地方】 
岐阜県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全32館中)
静岡県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全37館中)
愛知県   所蔵册数  3冊(所蔵館数  3/ 全52館中)
三重県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全45館中) +1
(小計)    所蔵册数  5冊(所蔵館数  5/全166館中) +1

【近畿地方】
滋賀県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全34館中)
京都府   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全57館中)
大阪府   所蔵册数  4冊(所蔵館数  4/ 全41館中) +2
兵庫県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全40館中)
奈良県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全30館中) +1
和歌山県  所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全25館中)
(小計)    所蔵册数  7冊(所蔵館数  7/全227館中) +3

【中国地方】
鳥取県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全20館中)
島根県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全18館中)
岡山県   所蔵册数  2冊(所蔵館数  2/ 全34館中) +1
広島県   所蔵册数  2冊(所蔵館数  2/ 全24館中) +2
山口県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全27館中)
(小計)    所蔵册数  5冊(所蔵館数  5/全123館中) +3

【四国地方】 
徳島県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全23館中)
香川県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全15館中)
愛媛県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全20館中)
高知県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全 8館中)
(小計)    所蔵册数  2冊(所蔵館数  2/ 全66館中) +0

【九州地方】 
福岡県   所蔵册数  3冊(所蔵館数  3/ 全44館中) +1
佐賀県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全22館中)
長崎県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全35館中) +1
熊本県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全18館中)
大分県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全16館中)
宮崎県   所蔵册数  0冊(所蔵館数  0/ 全20館中)
鹿児島県  所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全40館中)
沖縄県   所蔵册数  1冊(所蔵館数  1/ 全30館中) +1
(小計)    所蔵册数  8冊(所蔵館数  8/全225館中) +3
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【合計】    所蔵册数 71冊(所蔵館数 71/全1478館) +25 訂正

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『朗読の理論』に対する反響(その6)

『朗読の理論』に対する反響(その6)

                  (戦後67年6月09日 新規)




《館長の前段のコメント》

 拙著『朗読の理論』は、本格的な理論書であるから、通常の文学作品や解説書や実用書のようにさっと眼を通しただけで事が足りるような内容ではない。精神を集中させて精読していかなければ、なかなか内容がつかめない。できれば、アンダーラインを引いたり、ノートを取りながら読んでもらいたい本である。

 したがって、いくらかの例外はあるものの、これまで拙著『朗読の理論』に対する本格的な書評や批判はほとんどなかったといってよい。特に、ネット上では皆無であった。拙著に言及している文章はチラホラないではないが、拙著の内容にいく分なりとも踏み込んで論及している文章は全くなかったといってよい。

 ところが、以下に(勝手に)引用するように、西村俊彦さんという若い年代(おそらく30歳前後と思われる)の俳優・ナレーターが、拙著『朗読の理論』の内容をかなり的確に読み取り、高く評価してくれた趣旨の文章を、今年の初めにネット上に公開していることが分かった。大変嬉しかったのでここに紹介する。


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びょうびょうほえる

西村俊彦。
マック・ミック所属の俳優・ナレーターです。
演劇や炭酸飲料の事を書いていきます。
真に演劇的なものを求めて。

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『朗読の理論 感動をつくる朗読をめざして』
著:東百道
2008年/木鶏社

「朗読」に理論的に迫る一冊。

 朗読とはなにか、という問いを理論的に探求する事から始まり、
 朗読の上達には何が必要かを段階に分けて分析、さらには例文を用いての詳細な解説など、ぬかりがない。

特に
・「朗読の上達の構造(6段階の朗読ステップ)」
・宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』における上達論

 読み手も聴き手も共同で芸術表現を行う場が朗読だとする、
・「劇的空間」「劇的感動」論

といった項目は、なにかと丁寧な論理で、
朗読のみならず、演劇、音楽と、様々なジャンルに応用出来そうだ。

 書かれている事が明確で非常に参考になる一冊であるが、
明確にしようとし過ぎる余り、小難しい文章になっている箇所もちらほら。

 朗読への真摯な姿勢を磨きたい!あるいは、もっと面白く読書したい!という方にはうってつけの一冊。
ちなみに著者は朗読マンガ『花もて語れ』の朗読協力・朗読原案を担当している東百道氏である。

2012年01月24日

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『やまなし』
作:宮沢賢治

『花もて語れ』や『朗読の理論』で例文として引用されていたので読んでみた。

 なるほど、こと、視点の転換が鮮やかに描かれている。
 川底の二匹の蟹の視点から語られる自然のスケールの大きさに打たれる。
 ほんの数ページの中に、もはや演劇的とすら言えるダイナミズムが詰まっている。

『童話集 風の又三郎 他十八篇』/作:宮沢賢治/1951年/岩波文庫

2012年01月31日


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《館長の後段のコメント》

 私は、寡聞にして、西村俊彦さんという俳優・ナレーターの存在を知らなかった。しかし、若いながらも、かなりキチンと自分の仕事に打ち込んでおられるよ うに思われる。こういう優れた若者に、拙著の内容を「朗読のみならず、演劇、音楽と、様々なジャンルに応用出来そうだ」と読んでもらえたのは嬉しい。

 日本には、朗読や演劇など音声言語に関する芸術表現に真剣に取り組んでいる若者が多数いると思う。それらの若者が、拙著『朗読の理論』を読み込み、読み 破り、さらに、その上を行く理論を構想、構築していって欲しい、と切に思う。欧米の流行理論に頼らず、現実の課題や対象に直に取り組んで行って欲しい。

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08館長の「朗読の理論」 17

『朗読の理論』に対する反響(その5)

              (戦後65年5月20日 新規)

『朗読の理論』(木鶏社発行)に関する非常に嬉しい反応

○あるサークル会員の非常に珍しい入会のケース

 私が朗読指導している朗読サークルの会員が、その朗読サークルに入会してきた経緯は様々である。
 私が朗読、特に「感動をつくる朗読」の普及を願って、各地で開催した「感動をつくる・○○朗読教室」を受講し、新たな朗読サークルを立ち上げたり、その地にすでに存続している朗読サークルに入会したりするケースがもっとも多い。
 また、会員の知人友人が口コミで入会してくるケースもある。新聞の記事やこの私のブログを見て、入会を申し込んでくるケースもある。
 昨年(戦後64年/2009年)の11月に入会したある会員は、すでにそれ以前から5~6年くらいか朗読をやっていたのだが、それまで自分のやっていた朗読に疑問や行き詰まりを感じていたという。ある日、図書館で拙著『朗読の理論』(木鶏社発行)を見つけ、それを読んで、これだ、と思ったというのである。次いで『朗読の理論』の巻末で紹介している私のブログをたどり、電話で朗読レッスンの見学を希望してきた。そして、見学した後、正式に入会を申し込むに至ったのである。
 つまり、この会員は、拙著『朗読の理論』(木鶏社発行)読んで、その内容を理解&評価した上で、入会を申し込んできたことになる。こういう入会のケースは、初めてで、今のところ、まだ一人しかいない。

○その会員から聞いた非常に嬉しい話

 その会員は、入会したときに、改めて拙著『朗読の理論』(木鶏社発行)を購入してくれたのだが、その際、自分の友人のためにということで、さらにもう一冊追加で購入してくれた。それは、昨年(戦後64年/2009年)の11月のことであった。
 その後、その友人のことはまったく話題に上らなくなったので、忘れるともなく忘れていた。ところが、約半年が過ぎた今年(戦後65年/2010年)の5月に、朗読レッスンの帰り道、途中まで同行したその会員が、その友人のことを話題にしたのである。
 その友人は、ある朗読グループに属しているのだが、そのグループの朗読の先生から「最近、あなたの朗読は急に上達しましたね」と言われたというのである。その友人は、普段から朗読に熱心に取り組んでおり、いろいろな朗読会にも積極的に聴きに出かけたりして、研究をしているという。そこで、その友人にそういう研究成果が実ったのかと訊いたところ、そうではないという返事であったという。
 実は、その会員に勧められた拙著『朗読の理論』(木鶏社発行)のお陰だ、とその友人に言われた、というのである。
 その友人は、拙著『朗読の理論』(木鶏社発行)の中で私が論じている「視点の転換」その他の内容が、とてもよく納得できたという。そして、それまで自分が抱えていた朗読に関する疑問や行き詰まり感やモヤモヤ感などが、大きく解消されたという。そして、拙著『朗読の理論』(木鶏社発行)の内容を参考にしながら、自力で朗読に取り組んでいったという。途中で、疑問が生じたり、行き詰まったりすると、また拙著『朗読の理論』(木鶏社発行)を読み返して、その疑問や行き詰まりを解消していったという。
 そして、約半年たった今、先程のように、自分の先生から、朗読の上達ぶりをほめられたというのである。

○その会員と交わした会話

 そういう非常に嬉しい話を紹介してくれたその会員が言うには、拙著『朗読の理論』(木鶏社発行)の内容や、私が朗読レッスンで指導している内容は、他のどの朗読教室や朗読サークルでも教えてくれないものだそうである。
 そして、その会員本人も友人と同様、拙著を読むまでは、自分の朗読に疑問や行き詰まりを感じていたという。そして、拙著『朗読の理論』(木鶏社発行)の内容や私の朗読指導によって、新たな朗読の展開が始められるような気になったというのである。
 実は、私は、拙著『朗読の理論』(木鶏社発行)の読まれ方や私の朗読指導の受け入れ方として、そのような読まれ方や受け入れ方をもっとも望ましいケースとしてイメージしていた。
 それが、この会員の友人と、その会員本人とによって、両方とも一挙に実現したのである。私としては、こんなに嬉しく、我が意を得たりという話はない。
 今のところ私の知り得たのは一例づつでしかないが、今後は、このようなケースが、たとえ少しづつでも良いから、着実に増えていくことを心から願っている。

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08館長の「朗読の理論」 16

『朗読の理論』に対する反響(その4)

               (戦後65年4月12日 新規)

河合塾の「2009年度 高3 2学期 TS現代文テキスト」に利用される
               
《館長のコメント》
 河合塾から、2010年3月26日付で「著作物利用許諾依頼書」というものが郵送されてきた。
 拙著『朗読の理論』の一部を、河合塾の内部教材「2009年度 高3 2学期 TS現代文テキスト」に利用したとして、その許諾(事後許諾)を求めてきたのである。
 教材の該当部分のコピーが同封されてきたのだが、そのほとんどは立命館大学の2009年度入学試験の国語問題と同じであった。特に、使われた私の文章は、立命館大学の入試問題と全く同じであった。初めは、設問も全く同じかと思ったのだが、よくよく比べてみると、少しだが違っているところがあった。
 そこで、一つの記録として、河合塾の内部教材の該当部分を以下に掲載しておく。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

河合塾の「2009年度 高3 2学期 TS現代文テキスト」

A 次の文章を読んで、後の問に答えよ。

 言語は、表現対象の感覚的(具体的)な形象をそのまま直接表現することができない。そのため、【 A 】百万言の言語をついやしたとしても、結局は「【 B 】は一見にしかず」ということになりかねない。表現対象の感覚的(具体的)な形象を直接表現ができない弱みである。これは言語における間接表現の重大な短所といえる。
 【 C 】、言語には、逆に、間接表現でなければ実現できない大きな長所もある。
 第一の長所は、ここに記した言語の短所のちょうど裏返しである。すなわち、もともと、言語は感覚的(具体的)な形象の直接表現ができず、もっぱら超感覚的(抽象的)な意味による間接表現しかできない。しかし、これを裏返せば、言語においては、感覚的(具体的)な直接表現をしないでもかまわない、【 D 】、超感覚的(抽象的)な間接表現をするだけで済ましてしまえる、ということにもなる。実は、これが(ア)言語の大きな強みなのである。
 絵画や音楽は、なまじ表現対象そのものの感覚的(具体的)な形象を直接表現できるために、逆に言えば、表現対象そのものの感覚的(具体的)な形象を直接表現しなければならないために、(イ)かえって表現そのものが厳しく制約されてしまう。
 【 E 】、使用する絵具や楽器などの用具類、現実のモデルや風景などといった認識対象の実態、描き手や演奏者などの表現的技量、それらの現実的な表現条件のために、かえって表現内容そのものが厳しく制約されてしまう、ということである。
 さらに映像の例でいえば、文学作品が映画化されるような場合、作品の登場人物や情景が特定の俳優やロケ地の映像として視覚的に表現されることになる。このように、視覚的(具体的)な形象として直接表現された場合、それが、読者が文学作品の文字言語を読むことによって自分なりに頭や心で想像・創造してきた形象的なイメージと大きく食い違ってしまう場合がある。そして、そういう場合には、にがい失望や①ゲンメツを味わうことにもなりかねない。文学作品に登場するヒーローやヒロインを理想化してイメージしていたものが、現実の生身の俳優が演じるのを観て、そのあまりの落差にガッカリしてしまったなどということは、多かれ少なかれ誰もが経験しているはずである。
 それに対して、言語の方は、認識する側も、感覚的(具体的)は形象ではなく、超感覚的(抽象的)な意味をとおして認識するだけである。そのため、かえってその分だけ自由自在に自らの形象的なイメージを想像・創造することができる。たとえば、文学作品を読んだり、ラジオ・ドラマを聴いたりする場合には、登場人物、出来事、情景などの形象的なイメージを自分の好みに合わせて自由自在に想像・創造することができる。また、さらに、その形象的なイメージの翼をひろげ、自分の好きなようにその内容を変えたり、新たに追加したりすることさえ可能となる。
 しかも、いざ実際に絵画や音楽によって感覚的(具体的)な形象を直接表現しようとすると、意外に貧弱な内容しか表現できない、という事実に気づかされる。
 たとえば、大勢の人間が集まった広場や大通りのすべてを絵画で描写しようとする場合、かなり大きな画布と多量の絵具と長時間の作業をついやしたとしても、なかなかその総てを描き切ることができない。あるいは、風景や生物などを絵画として描く場合、細部までくわしく写生すべく実際に絵具で描いてみると、きわめて面倒でむずかしいことが分かる。さらに、人間の表情が微妙に変化するきわどい瞬間を絵画にそのまま描写しようとする場合には、②ナマハンカな技量ではとても歯が立たないのである。
 それが言語の場合になると、実際に表現に使うのは言語記号としての文字や音声だけである。したがって、いったん文字の書き方や音声の発し方を覚えてしまえば、後は、筆一本あるいは舌一枚で誰でも簡単に表現することができる。表現すべき意味にむすびついた単語を知らない場合や、最適な単語が思い浮かばない場合には、国語辞典、漢和辞典、類語辞典などで調べさえすれば、手軽に豊富な事例を一覧し、選択することができる。自分の頭や心に思い浮かべた形象的なイメージを表現するために、その文や文章にたとえ百万言をついやしたとしても、ただ文字を書くだけ、あるいは、音声を発するだけだから、さほどの技量や労力やコストが必要となるわけではない。いわば、誰でも文字や音声を連結することによって、簡単に意味を表現することができる。ただ文字や音声を連結するだけで、どのように高度・豊富・③ノウミツな形象的なイメージであっても、それを簡単に間接表現することができるのである。
 第二の長所は、(ウ)言語が間接表現する意味の性質に深くかかわっている。もともと意味は、人間の頭や心の中にしか存在しない超感覚的(抽象的)な存在である。そして、この超感覚的(抽象的)な存在である意味は、これまた超感覚的(抽象的)な存在である概念と論理によって構成されている。したがって、その意味に結びついている言語は、ものごとを概念的・論理的に表現することが可能になる。この点が絵画や音楽など他の表現物に比べて、きわだって特殊な言語の長所なのである。
 絵画や音楽などの言語以外の表現物は、この概念的・論理的な表現がまったくと言ってよいほどできない。そのため、思想や学問のように多様で高度な概念や論理を④クシしなければならない分野の表現については、まさに言語の独壇場といってよい。また芸術の分野においても、文学のように人間の内面的な感情や情念や思想(価値観、人生観、世界観など)さらには人格などといった人間の内面的な総体が深くかかわる場合には、その表現はもっぱら言語に依存せざるをえない。逆にいえば、人間は言語という表現をわがものとしたからこそ、思想、学問あるいは文学などという高度で深刻で豊富な精神活動を多様に探究し、展開することができるようになった、と言えるわけである。
 絵画や音楽の場合には、そういう概念や論理にかかわる表現がほとんどまったくできない。たとえば、昔から名画『モナ・リザ』の微笑みは謎だといわれている。しかし、もし、微笑みの意味がこの名画のどこかに絵画的に表現されていれば、そもそもこのような謎自体が発生しなかったはずである。しかし、モデルとなった女性の微笑みの意味などは、たとえレオナルド・ダ・ヴィンチがそれを何とか描写しようと思ったにせよ、それは、本来、絵画的に表現できるものではない。いかなる名画であっても、言語なしに意味を表現することはむずかしい。レオナルド・ダ・ヴィンチ本人が自らの文字言語によって『モナ・リザ』の微笑みの意味をどこかに書き遺したものが見つからないかぎり、かの微笑みの謎はやはり永遠の謎として残らざるをえないのである。
                 (東百道『朗読の理論』より)

問一 傍線①~④のカタカナを漢字に改めよ。

問二 【 B 】に入れるのに、最も適当と思われることばを、漢字二字で書け。

問三 【 A 】【 C 】【 D 】【 E 】に入れるのに、最も適当と思われるものを、それぞれ次のなかから選び、その番号を記せ。ただし同じものを二度用いてはならない。
 1 はたして   2 たとえば   3 たとえ   4 このように   5 それとも   6 ちなみに   7 しかし   8 つまり   

問四 傍線(ア)に「言語の大きな強み」とあるが、それを具体的に述べている部分を、本文中からそのまま抜き出して、三十一字以上三十五文字以内で書け。(但し句読点等を含まない)

問五 傍線(イ)の「かえって表現そのものが厳しく制約されてしまう」の説明として、最も適当と思われるものを、次のなかから選び、その番号を記せ。
1 絵画や音楽は、人間の内面や情景の微妙な変化の瞬間を捉えることは容易だが、総体として描こうとするとき具体的な直接表現であるためにかえって困難であるということ。
2 絵画や音楽は、人間の思想や価値観を獲得し展開させそれを表現する手段としては最適だが、具体的な直接表現であるためにかえってそれ自体は認識を深めないということ。
3 絵画や音楽は、人間の表情や感情を直接に表現する芸術だが、具体的な直接表現であるためにかえって表現者の技量や認識対象の実態などによって影響を受けるということ。
4 絵画や音楽は、人間の個性的側面を生かして思想や価値観を伝えるの可能だが、具体的な直接表現であるためにかえって芸術的レベルに押し上げるのが難しいということ。
5 絵画や音楽は、人間が想像・創造を発揮する存在だが、具体的な直接表現であるためにかえって抽象的な概念や論理展開の意味する部分を巧く表現し捉えられるということ。

問六 傍線(ウ)の「言語が間接表現する意味の性質に深くかかわっている」の説明として、最も適当と思われるものを、次のなかから選び、その番号を記せ。
1 言語は、抽象的な間接表現をすることによって概念的・論理的思考を経て社会やものの真理に到達できるということ。
2 言語は、抽象的な間接表現をすることによってものごとを概念的・論理的に把握するのがより可能になるということ。
3 言語は、間接表現することによって人間の思想や学問といった高度で深刻で豊富な精神活動を単純化したということ。
4 言語は、間接表現することによって絵画や音楽の場合と違ってより確実に形象的なイメージを再現できるということ。
5 言語は、間接表現することによって絵画や音楽や映像のもつ価値や意義を解明することが最も重要であるということ。

問七 本文の内容に合致するものを、次のなかから二つ選び、その番号を記せ。
1 言語は感覚的(具体的)な形象の直接表現ができず、高度で多彩な表現方法ができない点に短所を指摘できる。
2 言語は感覚的(具体的)な形象を間接表現できるため、現実の風景や情景を絵画や映像よりも巧く捉えられる。
3 言語は超感覚的(抽象的)な意味での間接表現を通して、視覚的な形象を直接的に表現することに長けている。
4 言語は超感覚的(抽象的)な表現を特徴とし、高度な精神活動を探求・展開することができる表現形式である。
5 言語は絵画や音楽や映像などの他の表現物と比べて、感情や思想を概念的・論理的に構成できる長所がある。
6 言語は絵画や音楽や映像と等しく思想や学問への認識を深めることのできる芸術表現の中心的な存在である。
7 言語は絵画や音楽や映像と表現形式の抽象性の点から区別されるが、その認識方法においては同等である。

  

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08館長の「朗読の理論」 15

『朗読の理論』に対する反響(その3)  (戦後64年12月17日 新規)

『音声表現』2009春・第5号の書評

             

《館長の前段のコメント》
 多分、今年(戦後64年/2009年)の11月になってからのことだったと思うが、ある日、何気なくインターネットであちこちとサイトのページを見て廻っていたところ、国立国会図書館のホームページで収納雑誌の記事内容を紹介しているところに行き当たった。そこで、初めて、拙著『朗読の理論』に対する書評が、雑誌『音声表現~ゆたかな朗読を求めて~』の2009年春・第5号に掲載されていることを知ったのである。
 この『音声表現~ゆたかな朗読を求めて~』は、年2回の発行で、発行部数は1000部という。それ自体がマイナーな朗読のことを専門に扱っているにしては、決してマイナーとはいえない雑誌である。
 私も、この『音声表現』という雑誌のことを、まったく知らなかったわけではない。しかし、これまで全く無縁であったし、読んだことはおろか、手にしたこともなかった。また、この雑誌を編集・制作している「東海・音声表現研究会」という団体が、どのような人たちで組織されたものか、ということも全く知らなかった。
 当然、すでに3月に発行されていた『音声表現』第5号に、拙著『朗読の理論』が書評されていることなどは、全く知らなかった。書評が出てから、半年以上も過ぎた11月になって、遅まきながらようやくそれに気がついたというわけである。
 ちょっと奇妙な気もするが、書評などというものは、案外こうしたものかも知れない。ともあれ、さっそく購入して読んでみた。
 書評をしている代永克彦(よなが・かつひこ)氏は、私にとっては全く未知の人である。プロフィールによると、代永克彦氏は、朗読者であり、また、朗読指導者でもあるようだが、私の『朗読の理論』をかなり的確に、そして、かなり好意的に読んでくれているようである。私は、いささか意外に感じると共に、正直いってかなり嬉しかった。
 書評文はそれほど長くないので、以下に全文を引用する。

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朗読本を観る(5) 
 ~「読み」を楽しみ学ぶ皆さんのご参考に~

                       ◇代永 克彦

『朗読の理論 感動をつくる朗読をめざして』
      
        東 百道・著   木鶏社(二〇〇八年)

 この本は、文字通り「朗読とは何か」を理論的に追求した本である。ややとっつきにくいかと思って読み始めたが、朗読者として、またいくらかでも朗読指導に携わる者としてぜひとも理解しておきたい根源的な認識と方法論に接して、ぐんぐん引き込まれてしまう圧巻の書であった。
 著者の東百道氏は、一九四六年生まれ、会社勤務のかたわら、認識論・表現論・言語論・文学論・技術上達論の独学を踏まえて、一九八〇年代から実際に朗読を学び、本格的に朗読の実技・理論・指導法を研究し、現在では、千葉県・東京都内で十か所近い朗読サークルを指導中という、いわば「異色」の朗読研究者・朗読指導者である。
 「まえがき」で筆者は、アナウンスや演技の練習メニューの延長のような朗読法でなく、放送や演劇とは違う朗読自体の本質と上達のステップに関する理論と実践の研究成果を示したいと述べている。
 本書の構成を通じて内容のポイントを見てみたい。
 第一章では、「朗読とは文字言語で表現された作品を音声言語で再表現する芸術」という基本的理解について、演劇や音楽と比較しながら考察している。
 第二章では、朗読が成立するプロセスについて、朗読者が作品をイメージとして認識する段階から、それを現実に音声で表現していく段階、聴き手がその作品世界をイメージとして認識していく段階へと、順を追ってそれぞれ構造的に分析し、朗読は朗読者のイメージに始まり聴き手のイメージに終わることを解明している。
 第三章では、作品に描かれた世界をイメージとして認識するための読み込み方を実際の文学作品で詳しく分析していくのだが、特に芥川の『トロッコ』と一葉の『わかれ道』の文学的解釈は非常に深く、その解釈が読みに反映されていく仕組みもわかって、朗読では解釈力・理解力が極めて重要だということを改めて感じさせられる。
 第四章で、いよいよ実際に朗読表現をしていく方法が説明される。「自然な語り口」にするには、セリフなら人物の心情に同化し、地の文なら作者の意図を読み取って、書かれているいわば「他人事」を「我が事」として、自分の言葉として言えることが必要と筆者は語る。さらに、「朗読上達の六段階」という目標設定とふさわしい作品、聴き手との「協働」による「感動をつくる朗読」とは何かの考察、賢治の『セロ弾きのゴーシュ』を題材にした上達論など、紹介しきれないほどの質量と密度がある。
 この上は、この理論が音声にどう生かされるのか、CD付きの続編が期待される。

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《館長の後段のコメント》
 書評者の代永克彦氏は、この『音声表現』の編集者でもあるらしい。この書評欄の最後に代永克彦氏のプロフィールが次のように載っている。
「(よなが かつひこ) 東海学園大学・中日本自動車短大非常勤講師。元名古屋市立高校国語科教諭。現在も同市立菊里高校放送部外部講師としてアナウンス・朗読を指導・愛知東邦学園コミュニティカレッジ朗読講座担当」
 私は、寡聞にして、代永克彦氏のことについて、このプロフィール以外のことを何も知らない。このプロフィールを読む限り、永年、朗読の指導にかかわってきた人のように思われる。実際に朗読指導をしている人に、このようにキチンと読んでもらった上に、このように高く評価してもらったことを、私は大変に嬉しく思っている。
 ただし、書評の最後に「CD付きの続編が期待される」と記されてあるが、このご期待には残念ながら添えそうもない。たしかに、今、続編『朗読の上達法』(仮題)を執筆&出版することを計画しているが、その本にCDを付ける考えはない。
 なぜならば、CDを付けると、本の表紙が硬直して、本として気持ち良く扱うことができないからである。現に、今回書評を載せてくれた『音声表現』の裏表紙にもCDが付いているのだが、そのためにその裏表紙が硬直していて、とても読みにくい。
 私も、いずれ機会があれば、自分の朗読実演や朗読指導に関するCDを制作&発行したいと思っている。しかし、その場合には、CDはCDとして、単独で出したいと考えている。単行本や雑誌の付録のような形で出すことは考えていないのである。

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08館長の「朗読の理論」 14

館長の「朗読の理論」 14  (戦後64年10月18日)

渡辺知明さんのイントネーション論について(7/最終回)

                     東 百道

○「朗読と文のイントネーションの原理(2)」について(その3)

 渡辺知明さんは、今回の一連の文章を次のように終えている。

「以上の説明は原則的なイントネーションの説明である。これはさらにプロミネンスの表現の問題につながる。つまり、単純にいうならば、イントネーションというのはただ単に音も高低の問題ではないのである。声強さが加わることによって、プロミネンスとなるのである。これについてはまた別に論ずる必要がある」(渡辺知明「朗読と文のイントネーションの原理(2)」より)

 音声言語の表現というものは、声の高低だけでなく、声の強弱にも深くかかわっている、という一般論的なレベルにおいてならば、私もこれに全く同感である。
 しかし、私がこれまで、しきりに「高く(上に)出る」ような語り口を重視し、これについて論及してきたのは、もっぱら《内容的な意味》の言語表現につながる問題としてであった。決して、渡辺知明さんがいうような「文の形」「文の構造」に関する問題に限定した問題としてではない。そのことは、私がこれまでに記した、このブログの「館長の朗読指導メモ」欄の文章をざっとでも読み返してもらえば、十分に読み取れると思う。
 渡辺知明さんが今回の「朗読と文のイントネーションの原理」に記している「文の形」「文の構造」、さらには「表現するべき内容」においてさえ、これらは、どうやら《語義的な意味》の範囲内に止まっているように思われる。
 しかし、文字言語ならばいざ知らず、音声言語(のイントネーション)を扱う場合に、果たして、それを《語義的な意味》の範囲内に止めたままで考察する、などということが出来るであろうか。
 音声言語は、文字言語とちがって、個々の生きた人間が自分自身の生きた肉声でもって表現するものである。したがって、音声言語には、表現主体の心情が直接に表現されてくるし、また、表現されてこざるを得ない。その心情の直接表現によって、音声言語の《記号的な意味》や《語義的な意味》だけでなく《内容的な意味》のかなりの部分までが、密接不可分の状態で一体的に表現されてくるし、表現されてこざるを得ない。
 だからこそ、前回に少していねいに触れた「たっぷりの水を与えた」というようなごく短い文字言語であっても、それを音声言語として表現する場合にはいく通りもの(おそらく無限の)表現の仕方があり得るのである。
 本当は文字言語でもそうなのだが、特に音声言語の場合には、一般的な音声言語というようなもの(あるいは原則的な音声言語というようなもの)が空中に浮かんで存在しているわけではない。音声言語というものは、個々の人間が個々に発して、その場で空中に消えてしまうところの、具体的な空気の振動としての「一過性的な表現」として、個々別々に存在している。
 したがって、たとえ「その日の朝、早く起きた私は、庭に植えた・白い・小さな・花に、たっぷりの水を与えた」というような短い音声言語であっても、それを個々の人間が個々に発した場合には、それらは総てまったく別の音声言語とみなされるべき存在なのである。一般的な、あるいは、原則的な「その日の朝、早く起きた私は、庭に植えた・白い・小さな・花に、たっぷりの水を与えた」という音声言語、などというものが、この世に現実に存在しているわけではない。
 したがって、音声言語における「原則的なイントネーション」というようなことを問題とする場合には、そういう音声言語の特性をよくよく勘案した上で、ごく共通的なレベル、ごく限定的な範囲で取り組む必要がある。
 たとえば、この「原則的なイントネーション」を《語義的な意味》の範囲内に狭く止めて理論的に考察する場合には、かなり限定的なイントネーションの範囲に止める方が賢明なのではないか、というように今の私は考えている。つまり、個々の単語におけるアクセント、および、単語や文節が連なっていく場合に生じるアクセントの変化(移行)の問題、あるいは、文節と文節をつなげる際のつなぎ部分のイントネーションのあり方、などという問題がそれである。
 ちなみに、文節と文節をつなげる場合には、イントネーションだけでなく、音声的な区切り(場合によっては息継ぎ)、あるいは長短の《間(ま)》とメリハリ、さらにはテンポやリズムなど、さまざまな要素がいろいろと絡んでくるはずである。とても、イントネーション(声の高低や強弱大小)の問題だけを機械的な当てはめただけで解決できるものではない、と今の私は考えている。
 私は、これまでの、そして、これからの、渡辺知明さんの「文の形」「文の構造」「表現するべき内容」(=《語義的な意味》)と「原則的なイントネーション」および「プロミネンス」の関係についての研究に、深い関心と敬意を抱いている。その方向の先に、これまでの私が想いもしなかったような、豊かで深くて新しい展開が拓かれていく可能性が、あるいは潜んでいるかも知れない、とも思われるからである。
 今の私の願いは、渡辺知明さんが、言語が表現する《意味》は三重構造になっていること、そして、現実の言語においてはその三重構造の《意味》が密接不可分な関係において一体的に表現されていること、さらに、音声言語においては《内容的な意味》のかなりの部分が心情表現として直接に表現されること、を念頭に置いて、今後の考察を重ねていって欲しい、ということである。
 一旦表現された言語(ある意味では現実的に固定化されたその言語)の背後には、その言語を表現した表現主体の認識イメージと表現イメージが脈々と流れている。その表現主体の認識イメージと表現イメージが、一旦表現された言語(ある意味では現実的に固定化されたその言語)とどのように関係づけられているのか。
 そういう問題の一つの展開として、朗読表現をどのように理論づけ、どのように朗読の実技や指導(法)として具体化していくのか。そして、どのように文学作品の作品世界をイメージし、その感動をつくり、それを朗読者と聴き手で共有していくのか。
 私自身は、これまで、これらの問題を私なりの問題意識の方向と範囲において探究してきたし、今後も同じように探究していくつもりである。そして、その成果を次に執筆を予定している単行本『朗読の上達法』(仮題)や『朗読のための作品論』(仮題)の中で私なりに展開していきたい、とも考えている。(おわり)

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08館長の「朗読の理論」 13

館長の「朗読の理論」 13  (戦後64年10月16日)

渡辺知明さんのイントネーション論について(6)

                           東 百道

○「朗読と文のイントネーションの原理(2)」について(その2)

 さて、つづけて、渡辺知明さんは次のように主張している。

「03―問題は下り階段が単純に下がらない場合があるということである。この部分がその好例である。「庭に植えた」「白い」「小さな」という三つの語句はすべて「花」にかかっているのである。その場合には、この三つの語句の音の高さは同一になる。一つずつの語句に「花」をつなげて読んでみればよくわかる。「庭に植えた花」「白い花」「小さな花」が同じ高さで読まれることがわかるだろう」(渡辺知明「朗読と文のイントネーションの原理(2)」より)

 この箇所について「『庭に植えた』『白い』『小さな』という三つの語句はすべて『花』にかかっている」という解釈自体は、まったく渡辺知明さんの言うとおりである。しかし、そのような《語義的な意味》に解釈したからといって、別にそれが「その場合には、この三つの語句の音の高さは同一になる」というイントネーションの問題に直ちに結びつくわけではない。理論的に考えても、そういう場合のイントネーションが必ずそうならなければならない、という論拠が特にあるわけではない。また、現実に行なわれている言語表現をかえりみても、そういうイントネーションで表現しなければそういう《語義的な意味》が伝わらない、いうことはない。
 ちなみに、少なくとも文学的な朗読の場合には、「庭に植えた」よりも「白い」の方を高く上げ、さらに「白い」よりも「小さな」の方を高く上げ、そして最後の「花」の部分をより高く上げたイントネーションの方が、ある種の心情がこもった《内容的な意味》を表現することもあり得るのである。
 また、改めて繰り返すが、渡辺知明さんが例示した例文ほどには複雑な修飾語が連らならない場合、すなわち、より単純な文の場合であっても、渡辺知明さんが主張しているような「下り階段が単純に下が」るようなイントネーションで音声言語を表現しなければならない理由は、特に何もないように、私には思われる。
 端的に言わせてもらえば「表現意図が明確な場合には『下り階段』になる」という渡辺知明さんのそもそもの主張自体が、まだ、音声言語の現実の表現において十分に論証&実証されていないように思われるのである。

「04―『たっぷりの/水を/与えた』と三つに分かれるが、はじめの二つはまとまって『与えた』にかかるのである」(同上)

 この部分は、日本語における「の」という言葉の役割を考えるための、非常によい事例である。そこで、ここでは、構文とかイントネーションとかの問題をちょっと横に置いておいて、そのことについて簡単に論及しておきたい。
 例文における「たっぷりの」の「の」は、日本語的に非常に含蓄のある言葉の使い方であり、そこに含まれる《内容的な意味》がとても豊富であると考えられる。このことは(日本語という)言語を考える上で、かなり大切なポイントとなっている。
 渡辺知明さんは、「たっぷりの」「水を」という言葉が二つまとまって、「与えた」という言葉にかかっている、と指摘している。確かに、それも、一つの読み方ではある。
 しかし、それとは別に、「たっぷりの」という言葉が、「水を」「与えた」という言葉をまとめたものの全体にかかっている、という読み方もできるのである。
 たとえば、この「の」を「と」におき変えて考えてみると話しは簡単である。つまり「たっぷり/水を/与えた」という言語にすると、渡辺知明さんの指摘とは反対に、明らかに「たっぷりの一つが、「水を」「与えた」の二つをまとめたものにかかってくることがすぐに了解されるであろう。
 そして、実は、
「たっぷり/水を/与えた」
という例文と、
「たっぷり/水を/与えた」
という例文が、同じ趣旨(=《内容的な意味》)とも、あるいは、違う趣旨(=《内容的な意味》)とも、解釈し得るところが、日本語という言語の内容豊富で玄妙なところなのである。
 これだけの説明では分かりにくいかもしれないので、次のような補足説明を追加しておこう。すなわち「たっぷりの/水を/与えた」という例文を、次に示すように【 】で補充しながら、①と②という二種類の違った《内容的な意味》をもつ言語表現として比べてみるのである。
 ①「たっぷり/水を【大きなバケツで一度にバッと】/与えた」
 ②「たっぷり【水量が庭のすべての「花」に万遍なくいきわたるように如雨露で時間をかけて少しづつ】/水を/与えた」

 ①は「たっぷり「水を」をまとめて「たっぷり水」というものを具体的にイメージし、それを一度にバッと「与えた」というようにイメージする場合である。ここでは「たっぷり水」の具体的なイメージを【大きなバケツで一度にバッと】というように補充してみた。さらに極端な「たっぷり水」のイメージを記してみれば、山火事を消すときのように、飛行機から大量の水をいちどきにぶちまけるような場合もあり得るであろう。
 ②は「水を」「与えた」をまとめて「水を与えた」という人間(表現主体)の行動を具体的にイメージし、その行動の全体に「たっぷりという条件(修飾語)をつけてイメージする場合である。ここでは「たっぷりの条件(修飾語)を【水量が庭のすべての「花」に万遍なくいきわたるように如雨露で時間をかけて少しづつ】というように補充してみた。つまり「庭に植えた・白い・小さな・花」の全体に万遍なく十分な「水を与えた」というようにイメージしたものである。
 この①と②のように解読し分けることは、特に②のように解読することは、言語の《語義的な意味》の段階に止まっていたのでは、ちょっとむずかしい。この文字言語を表現した人間(表現主体)が、どのようなイメージに基いてその文字言語を表現したのか、という《内容的な意味》の段階にまで踏み込んで解読していかなければ、なかなかこのような解読はできないのである。
 そして、①の場合なら、文句なく、「たっぷり/水を【大きなバケツで一度にバッと】」の二つをまとめて「与えた」にかけて表現する音声言語の方がよい、と言える。
 しかし、②の場合なら、むしろ「たっぷりの【水量が庭のすべての「花」に万遍なくいきわたるように如雨露で時間をかけて少しづつ】」の後に短い《間(ま)》をとってから、それを「水を/与えた」という二つの文節をまとめたものにかけて表現する音声言語の方がよい、と言える。

 そして、渡辺知明さんが今回提供してくれた「その日の朝、早く起きた私は、庭に植えた・白い・小さな・花に、たっぷりの水を与えた」という言語の《内容的な意味》を考えた場合には、②の言語表現に近いイメージが浮かび上がってくるのである。そして、音声言語としても、②のような表現の方が味わい深いものになるような気がする。

 このように様々な角度から考えていくと、渡辺知明さんの次のような結論は、なかなか直ぐには納得しがたくなってしまうのである。

「以上、単純な文をイントネーションの面から分析してみたわけであるが、これだけでも『下り階段のイントネーション』と『上り階段のイントネーション』との違いがわかるであろう」(同上)

(つづく)

 

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08館長の「朗読の理論」 12

館長の「朗読の理論」 12  (戦後64年10月13日)

渡辺知明さんのイントネーション論について(5)

                                      東 百道

○「朗読と文のイントネーションの原理(2)」について(その1)

 渡辺知明さんは、先の文章のつづきとして記した「朗読と文のイントネーションの原理(2)」を、次のような記述で始めている。

「前回、途中までで話が途切れたので、具体例を挙げてイントネーションについて説明したい。これは前回の記事で取り上げた内容を前提にしての説明なので、(1)を読んでから下記の解説を読んでほしい。
 最近わたくしは、正しいイントネーションについては「下り階段」、これと反対のイントネーションについては「上り階段」と呼んで区別をしている。実際の階段をイメージすることによって、自らの音声表現を自覚出来る。学習者にも好評な表現方法である」
(渡辺知明「朗読と文のイントネーションの原理(2)」より)

 そして、さらにつづけて、次のように、具体的な例文を使って、渡辺知明さんの持論をくわしく説明していっている。

「それでは、正しいイントネーションについて、次のような文で説明しよう。文の要素ごとに番号を振っておこう。

●01その日の朝、02早く起きた私は、03庭に植えた・白い・小さな・花に、04たっぷりの水を与えた。

01―この部分は、『その/日の/朝』と三つの部分にくぎれる。イントネーションは下り階段として「朝」まで降りてくる。『その』の音の高さは、02早く、03庭に、04たっぷり、同じになる。
 ところが、朗読の初心者はなかなか、この高さを維持して読むことができないのである。文の要素の区切りの部分で音が下がってしまうのである。

 02―この部分も『早く/起きた/私は』と下り階段で読まれる。ところが、『早く』が下がって上り階段で読んでしまう人がいるのだ。その場合、『朝早く』とつながる。本来は『早く』は『起きる』につながるのである。それが、下がって読まれることによって、『朝が早い』という意味になる」(同上)

 このような例文を示しての説明を読むとよく分かるのだが、渡辺知明さんは、読点(、)の区切りについて、その直後の出だしの部分のイントネーションを文頭の出だしと同じ高さまで上げてそろえることによって、その読点(、)の区切りを聴き手に判別させるべきだと主張している。
 したがって、逆に、読点(、)の区切り直前の部分は必ず低く下げなければいけない、と主張しなければならなくなることは論理的な必然である。なぜならば、そうしないと、読点(、)の前後におけるイントネーションの高低の区別がつかず、読点(、)の区切りがイントネーションとして聴き手に判別できなくなってしまう、ということになるからである。
 しかし、問題なのは、果たして、現実の音声言語表現が渡辺知明さんの主張のとおりになされているかどうか、である。また、果たして、そのようにしなければならない音声言語的な必要性が本当にあるかどうか、である。
 私は、文字言語における読点(、)のような働きを、現実の日本人が現実の音声言語の表現において、渡辺知明さんが主張するようなイントネーションの高低を使ってやっている、という事実はあまりないと思っている。かりにイントネーションの高低を使っている場合でも、他の要素と組み合わせてやっており、その場合でもイントネーションの高低はそれほど重要な位置を占めていないのではないかと思っている。
 また、イントネーションの高低によってそれを行なわなければ、お互いの音声言語の意味(この場合は一応《語義的な意味》に限定して考えている)を取り違えてしまう、とも思っていないし、また、そういう事実はないとも思っている。
 また、あえていうならば、現実の音声言語表現において読点(、)の区切りを表わす場合には、長短の《間(ま)》あるいは音声的な区切り(途切れ=中断)の方を、より多く、より重要な手段として活用しているのではないか、とも思っている。
 事実、前回も記したように、渡辺知明さんが「まったく逆のイントネーション」と指摘している「テレビやラジオなどのナレーションや語り方」であっても、読点(、)の区切りの判別くらいなら十分に聞き分けられる。また、そうでなければ「テレビやラジオなどのナレーションや語り方」に基くニュース報道が、世間で通用するはずがないのである。(つづく)

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08館長の「朗読の理論」 11

館長の「朗読の理論」 11  (戦後64年10月12日)

渡辺知明さんのイントネーション論について(4)

                  東 百道

○「朗読と文のイントネーションの原理(1)」について(その3)

 渡辺知明さんは、その直後に次のように記している。

「よく言われることがある。『文章を読ませれば、読み手自身がどれだけその文を理解しているかどうかわかる』―この根拠は文構造を示すイントネーションの変化にあるのである」(渡辺知明「朗読と文のイントネーションの原理(1)」より)

 ここで「読み手自身がどれだけその文を理解しているか」というのは、もともとは、主に《内容的な意味》を「理解」する問題のことを言っている。
 しかし、渡辺さんがここで主張していることは、渡辺さんの「この根拠は文構造を示すイントネーションの変化にある」という言い方から明らかなように、また、以下の渡辺知明さんの話しの展開からも明らかなように、もっぱら《語義的な意味》を「理解」する問題として扱われている。
 したがって、せっかくここで上記のような「よく言われること」を持ち出したにもかかわらず、話しの展開が中途半端なところで止まってしまっている。この点は、また「朗読と文のイントネーションの原理(2)」の内容を検討するところで、改めて論及することにしよう。
 ここでは、もう少し渡辺知明さんの話しの展開を追っていくことにする。

「わたしは原則的なイントネーションと世間で行われているイントネーションとを区別するために、『下り階段』のイントネーションと『上り階段』のイントネーションと呼んでいる。表現意図が明確な場合には『下り階段』になるが、意図がないまま読み上げると『上り階段』になりやすいのである。この言い方は音声表現の学習者にとっても分りやすいイントネーションの表現である。
 文の基本構造は『主部+述部』である。つまり、主部『ダレガ・ナニガ』+『ドウスル・ナニダ・ドウダ』とつながるのである。そして、述部については、さらに補足文素(『を、に、と、より、から』などの助詞をとる句)が加わる。その結果、文の骨格構造は、『○○が……に……を……する。』となるのである。そして、原則的なイントネーションは、この骨格構造を明確にするための音声表現なのである」
(同上)

 その上で、渡辺知明さんは、次のように話しをより具体的に展開していっている。

「原則的に、主部は述部よりも高いイントネーションをとる。述部は主部を受けて低いイントネーションとなる。その間に挟まれる他の文要素のはじめが一定の音程をとることになるのである。その結果、要素要素ごとのはじまりは必ず高くなる。読み手はそれを自覚し、聞き手はその変化によって文の要素を聞き分けるのである」(同上)

 しかしながら、われわれが現実に表現している音声言語を実際に聴いてみれば(話してみれば)明らかなように、二重構造における《語義的な意味》を表現する場合においてさえ、ここで渡辺知明さんが主張しているような「原則的に、主部は述部よりも高いイントネーションをとる」というような事実はない。また「原則的に」そうしなければならないという言語論的な論拠もない。
 まして、三重構造における《内容的な意味》を表現する場合においては、なおさらである。あえてつけ加えるならば、この《内容的な意味》を表現する場合には、むしろ、主部よりも述部の方がより高い「イントネーションをとる」ことの方が多いし、心情表現という観点からみても、その方がふさわしい場合が多いのである。
 とまれ、現実の(日常的な)音声言語表現においては、渡辺さんが主張している「主部は述部よりも高いイントネーションをとる。述部は主部を受けて低いイントネーションとなる」というような、機械的な表現は行なわれていない。

「正しいイントネーションならば要素は明確に区分されるが、途中で音が下がった場合には、文の構造がわからなくなるのである。当然、文の意味もわからなくなる」(同上)

 これも、現実の音声言語表現においては、なかなかあり得ない話しである。早い話しが、渡辺知明さんによって逆の(正しくない)イントネーションだと批判されている「テレビやラジオなどのナレーションや語り方」であっても、決して「文の構造」すなわち「文の意味」が分からなくなる、などということはない。
 もし、そうでなければ、渡辺知明さんとは逆のイントネーションを使っている「テレビやラジオなどのナレーションや語り方」では、事実を正確に視聴者に届けることができないはずである。すなわち、ニュース記事のアナウンスにおいて、視聴者に《語義的な意味》を理解してもらうことができないはずである。しかし、現実には、そういう事実は全くなく、放送アナウンサーが表現するニュース記事を視聴者は正確に理解し得ているのである。
 朗読において「テレビやラジオなどのナレーションや語り方」が問題になるのは、決して《語義的な意味》の表現についてではなく、文学作品にこめられた《内容的な意味》がふさわしく表現されない点についてなのである。先の『文章を読ませれば、読み手自身がどれだけその文を理解しているかどうかわかる』という言い方に則していえば、「テレビやラジオなどのナレーションや語り方」では「読み手自身がどれだけその文(の《内容的な意味》)を理解しているかどうか」が聴き手にさっぱり伝わってこないような朗読表現にしかならない点が問題なのである。(つづく)

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